九代目のひとりごと

7.鹿児島・知覧で見た「若者の覚悟」と「戦争」

イラク復興の支援として日本の自衛隊がイラクに派遣された。新聞やテレビでは自衛隊が南部のサマーワで活動している姿をほぼ毎日見る事が出来るがその姿を見て「自衛隊もこういった戦闘地域に行くようになったんだな」と改めて思う。

そういった自衛隊の姿を見て私は鹿児島に昨年行ったことを思い出してみた。 昨年、妻と母と3人で鹿児島の知覧に行った。知覧といえば特に有名なのが「特攻平和会館」だ。私にどうしても見せたいという妻の強いリクエストでこの旅行が実現した。

昭和16年から勃発した大東亜戦争の中で当時、知覧は少年飛行兵の操縦訓練所として建てられた。しかし昭和20年になると日本は徐々に力を失いピンチに立たされた。

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知覧にある飛行場の跡地には
こういった石碑がいくつもある

太平洋戦争も終盤にさしかかり敵の大艦が沖縄まで攻め込んできた時、日本はとんでもない奇策に出る。それが若者の兵士による「体当たり攻撃」である。はじめて記念館の入り口についた瞬間、私は心痛む2つの像が目に入った。一つは特攻機の前に立つ特攻隊員の銅像。そしてもう一つは少し離れた場所にありその特攻隊を見つめるような姿で立っている母親の像があった。隊員の像は昭和49年に平和の守護神として建てられ昭和61年には母親が建てられたという。「特攻平和会館」は年々観光客や特攻隊の遺品などが増えてきたため昭和60年に建て直されたという。

私はまず会館の外にある三角兵舎の復元を見た。三角兵舎とは特攻隊員が出撃するため寝泊りした場所である。兵舎といっても20人ぐらいが寝られるスペースで薄い毛布と敷き布しかない。そしてこの場所で若き隊員達は両親や恋人に遺書を書き、酒を飲み、ゲームをして仲間と最後の夜を過ごしたという。中には涙で枕がびしょびしょに濡れていたものもあったという。そして出撃の日の朝、毛布をたたみ出発した。当時の写真を見ると翌日に、国のために命を捧げる若者とは思えないくらい心澄んだ笑顔で仲間と談笑している。私はこの若者達の覚悟というか心の強さに尊敬の念を抱いた。記念館に入ろうとするとある老齢の女性に話しかけられた。この記念館にほぼ毎週来ているこの女性は特攻隊の出撃の際、花を持って見送った経験があり今でも観音像にお線香をたいているのだという。私は突然その女性に握手されて「ぜひ、あなたの仲間や若い人にこの記念館の事を話して下さい・・」と言ってきた。私はもう涙が止まらなかった。戦争が終わり長い時間が経つが、戦争を経験した人にはまだ何も終わっていないし時間も止まっている。まだ深い傷は残っているのだと感じた。そして傷を少しでも癒せるようにとこの記念館に足を運び彼らと話をして帰るのかと思った。私は記念館に入った。当時の戦闘機の復元や1035人の隊員の写真、遺書、遺品などが展示されている。特に隊員の遺書には驚きと悲しみが同時に襲う。10代、20代の若者とは思えない達筆な字で思いを伝えている。
 「俺が死んだら何人泣くべえ」
 「帰るなき機をあやつりて征きしはや開聞よ母よさらばさらばと」
 「今から敵をやっつけてきます」 「僕は花になって帰ってきます」
 「○○ちゃん、おかあさんを大切にするんだよ。お父さんは天国から見守っているからね」
 「特攻隊として知覧に呼ばれたわけではないのでお父さん、お母さん安心してください」

死への覚悟、そしてそれを強い姿を見せて出撃した彼らの本当の心の奥は知ることが出来ない。遺書や手紙にも検閲があったようだし、戦争に対しての本音はあまり言えなかったはずである。確かに手紙や遺書の中にも含蓄ある文章がいくつかあるが、人に打ち明けた話しが一番そういった本音を知ることが出来る。

「とめさん、この戦争は間違えているよ。日本は戦争に負けるよ」と出撃前日に「知覧のおかあさん」と言われた食堂を営んでいた鳥浜とめさんに語った若者もいたという。「死にたくない」と語った者もいた。自分が朝鮮人ということを隠し出撃の前日とめさんに「アリラン」を歌った若者もいた。 また一方では特攻隊として出撃準備をしていたが戦争が終わり生き残った隊員も多くいる。そういった人たちは亡くなった隊員達に申し訳ないと毎日悩む日々を過ごしてきた。その姿を見て、とめさんは「なぜ生き残ったのかを考えなさい。何かあなたにしなければならないことがあって生かされたのだから」と励ましてきた。隊員達は心救われ今では戦争の辛さや当時の思いを広く伝えていこうと活動している。そして「戦争をしてはいけない」と強く訴えている。 記念館を出た後、私は体が震えていた。怒りというか悲しみというか表現できない気分になっていた。その後、実際に隊員が飛び立ったという飛行場の跡地などをまわった。 戦争、自衛隊派遣、小泉首相の靖国参拝などについて、私はどうこう言える知識はない。しかし、罪のない若者が国のために親や恋人と別れ命を捧げて戦いに行った若者の心情を少しでも見ると、やはり戦争は誰にも得にならず、心の痛みや苦しみだけが想像以上に長く残るということが分かる。戦争は終わっても人の心の傷は治らない。

最近は修学旅行でこの地を訪れる若者も多いという。帰り際に案内の人が「特攻会館を訪れて大粒の涙を流す学生を見て、あっ日本はまだこういう心を持った若者が多いんだと分かるから嬉しいです」と話していたのが印象的だった。

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「平和会館にある鳥浜とめさんの顕彰碑」

散るために 咲いてくれた 桜花 ちるほどものの 見ごとなりけり   (鳥浜とめ)

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年1月に執筆されたものです

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