おたふくわた復活プロジェクト

16.「財界九州」9月号九州の商人~追想 おたふくわた(上)~より

前回皆様にお知らせした通り、今回は武野要子先生(福岡大学名誉教授・兵庫大学教授)が執筆した「財界九州」9月号の九州の商人~追想 おたふくわた~の中からいくつか抜粋してご紹介したいと思います。私は弊社の歴史や博多の歴史などを調べた武野先生の研究熱心さに感服いたしました。ぜひ一度ご覧ください。 (先日来、問い合わせがいくつかありましたが、この雑誌は九州以外でも購入することが出来ます。大きい書店にもあるようですが、財界九州に依頼し直接郵送してもらうのが一番確実かと思います。連絡先は(株)財界九州 092-715-1221です。)

追想 おたふくわた(上)
福岡大学名誉教授・兵庫大学教授 武野 要子

それは突然の電話から始まった
勤務先の兵庫大学の研究室で、締め切りが迫った原稿を書いている。 私は原稿用紙2、3枚書いて4枚目にかかろうとしていたとき、電話がった。横にいた女性が、「原田さんからです」といった。原田さん?正直いって私はピンとこなかった。原田さんは福岡にも広島にも知り合いがいる。はてなと思って受話器をとった。開口一番、「ハニ-ファイバーの原田です」という若い張りのある声が聞こえてきた。同社は憲明社長の急死以来、もう閉業されていたのではないか?と、とっさに考えた。 電話の主はいわれた。「いま不動産業をやっています。”目で見るハニ-ファイバーの140年”を読んでいると、先生と父が対談なさっているので、本当に嬉しく懐かしく思います。母が、一度先生にお目にかかりたいと申しております。わたくしもぜひお会いしたいと思います」。 私はすぐさまOKのご返事をした。

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明治37年に製作された金看板

インド伝来の綿弓業
私は若いころのことを思い出した 。そのころ私は、福岡大学商学部の紅一点の若き教授として貿易史と一般商業史を講議し、研究に熱中していた。 原田氏は、私のプロムナード大手門にわざわざ来てくださった。その折、いろいろ抱負を述べられ、本誌に父上やおじいさまの仕事を紹介することを約束した。 もう20年も前になるだろうか。ある一人の男性から、「”ハニ-ファイバー”の社史を編纂するのですが、博多に古くから住んでいた商家で屋号が麹屋というのはわかっているのですが、その他のことはさっぱりわかりません。何か手がかりはありませんでしょうか?」という電話があった。 私は何か手がかりはないものかと半日考えた。ふと思いついて「博多店運上帳」を急いでめくってみた。確かに麹屋があった。私は小躍りして喜んだ。職業の欄には綿弓8挺とある。 私はさっそく大阪(吹田市)の国立民族学博物館に問い合わせた。同館には世界各国の綿弓が数個保存されていた。私はインド綿弓の写真を頼んだ。 インドでは、いまでも使っているらしい。その写真には、男の人が綿弓の横に立っており、綿弓の高さと男の人の背は大体同じくらいであった。 綿弓といっても、日本のそれは、日本人の背丈に合わせてインドのより少し小さかったのではないだろうか。それにしても私が育った長崎には、綿の打ち直し屋、ほんのわずかであった。 博多の「店運上帳」を私は丹念にめくることにした。その結果次のようなことがわかった。 幕末から明治の初めごろの博多には、綿弓が91挺あること。1挺持ちは60軒、2挺持ちは20軒、3挺持ちは2軒、4挺持ちは3軒であった。5挺は1 軒。ひときわ目立っていたのが8挺持ちの商家であった。それが麹屋。つまり「ハニ-ファイバー」であった。 私は、欣喜雀躍とはまさにこんなことをいうのだろうと、本当に嬉しかった。それにしても、なぜ麹屋なんだろうか。酒屋か醤油屋でも先祖がやっていたのかしら、、、。 麹は昔の人の食の中心である米や麦や豆、ぬかなどを蒸して菌を繁殖させ、味噌や醤油を作るわけだ。こんにちの食生活からは想像もできないが、醤油や味噌は中世から江戸、近世、近代を通じての日本人の必需食品、つまり蛋白源なのだ。 農家は味噌や醤油は自給していたが、町ではそうはいかない。つまり町では麹屋が商売になったのだ。麹屋から綿弓屋へ転職!「ハニ-ファイバー」の基礎はこうして築かれたのだ。

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昭和10年頃の東中州 当時としては珍しい
ネオンサインは博多っ子の話題を呼んだ

幼いころの布団の記憶
私は子供のころを思い出した。あれはあたりがムンムンする暑いころだった。小学校2、3年のころだったと思う。私は母にいわれて、母が広く伸ばした真綿の端っこを手でできるだけ引っ張った。「もっと広く薄くするのよ」と母はいった。私はいわれた通りに一生懸命に引っ張った。 真綿は敷布団の布に薄く一面に敷かれた。母はうず高く積まれた打ち直しの済みのふわふわの綿をひとつ取り上げた。母はぽんぽんと手際よく綿を手広く広げていった。 なんとなく眠気がさして、うとうとしていたら、「最後だから手伝ってね」という母の声で起こされた。寝ぼけまなこの目をこすりながらふと見ると、ふかふかの敷布団がそこにあった。 あの夜の布団の寝心地の良かったことはいまだに忘れられない。あの布団の感触はいったい何だろう。古きよき時代のお布団?木綿の綿ならではの感触? 布団の作り変え、綿の打ち直しは、昭和の中ごろまではどこの家でも年中行事であったし、それは主婦の仕事でもあった。私を含めていま布団を作れといわれてやれる主婦はまずいないだろう。
~追想 おたふくわた(下)~

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年9月に執筆されたものです

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