九代目のひとりごと

14.高齢化社会で私が思うこと。「何だかんだいってもお年寄りは偉いのだ!」

先日、おたふくわたのふとんを購入してくださった方から1枚の丁寧な葉書が届いた。 私は買っていただいたお客様全てに葉書でお礼を書いているが、このような返事を頂くと本当に嬉しいし励みになる。
返事が届く中で文章の長短関係なく年配の方からの葉書はやはり深みや重みが違うと気づかされる。心がこもっているというのだろうか。短い文でも「良いふとんなのでしょう。おかげさまでぐっすり寝ております。」などと書いてあると葉書を持ったまま赤面してしまう。
こういう時にいつも思い出すことがある。ある日車を運転していて前の車があまりにものろのろ運転していたり危なっかしい運転をしていたので思わずクラク ションを鳴らし、その後、信号待ちで運転席を覗くと仲の良さそうな老夫婦が運転している姿だと気づき、一日私は心が痛み、自分の余裕の無さに猛省したことがある。(ド ライバーなら一度は経験したことがあるだろう。)私達は普段の生活の中でも高齢者を気にしているだろうか。電車の中で席を譲ったり、町を歩いていてぶつ かってもきちんと謝ったりしているだろうか(この場合は高齢者だけではないが)。恥ずかしい事だが、ふとんの商売を始めて高齢者の方と接する機会が増え、 やはりこういう世代は大切にしなければと心底思うようになった。

「最近の若いものは」、「私が若い頃は」、「私は昔こういう事をしてきた」若い頃またかと思い耳を塞ぐように高齢者の話を聞いてきた。しかし私が最近思うのはやはり長生きしている人はそれだけでも「生きる才能」があったように思う。いくら文明が発達し健康に関する情報やモノが溢れるようになってもガンはなくならないし、若くして他界してしまう方もいる。ましてや何が起きても不思議ではないこの世の中で、戦争や大地震も経験し、事故にも合わず病気もあまりせず80歳、90歳まで生きているのはいくら寿命が延びたとはいえある意味奇跡だといえる。だから私達は高齢者に対し無条件に尊敬の念を抱かなければならないと思う。「長生きしているのか。才能あるなあ」という表現でもおかしくないのではないか。私の年齢の2.5倍も生きている。私がこれから経験していくことをとっくに経験しているのだ。それでいて元気に生きている。「すごい」の一言だ。

そういえば先月「朝日新聞」の夕刊に素敵な話が出ていた。 ケニアに住む84歳のマルゲさんという元闘士が、小学校に入学したという内容なのだが、ケニアの新政権が小学校教育を無料にすると聞き、スワヒリ語の読み書きが出来ずにいたこの元闘士は思い立って入学を試みた。最初は学校から一蹴され、その後、何度足を運んでも追い返された。そして校長があきらめさせようと「制服が必要なんだよ」と話したら、ある日制服に似た服を着て半ズボン姿で校庭に立っていたという。服は農作業のアルバイトで得たお金で購入したのだった。そしてとうとう入学を許可されたというのだ。「世界最高齢の小学校入学」とギネスブックにも認定された。

マルゲさんはインタビューで「夢は大学を卒業し獣医師になること」と話していた。 若い時に戦争で捕虜にされ、拷問で体にいくつかの障害を持ち、妻に先立たれたあとは牛と羊の世話をして生きてきたという。数々の苦労を重ねた人生だったが、今は「家族のような子供たちと勉強できて幸せだ。学ぶ喜びを知らない老人も自分に続いてほしいものだ」と話している。私はこの記事を読んで感動せずにはいられなかった。色々な辛い経験をしながらもこういう夢を持ち生き続けるこの老人が何と素敵に思えたことか。涙が出てきた。

仕事や私生活で迷いが生じ、多くの方法を試みても悩みが解決しないときもある。だが、経験をしてきた長老の一言が何よりも重く心に響く時があるものだと痛感した。その道のプロに言われるより安心するときもある。 日本では最近、高齢者を狙った事件や介護疲れによる痛ましい事件が続いている。介護は私達がいま一番考えなければならない問題かもしれない。わが身もいつかそうなるかもしれない。大切なことはまず高齢者を「思う」ことであろう。だから毎日少しでも「思う」ことをすれば「敬老の日」なんかいらない。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年8月に執筆されたものです

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