おたふくわた復活プロジェクト
7.天竹神社で起きたハプニング「亡き祖父との再会」
今年初めに大阪・博多へ出張することになったので、この機会にと私は名古屋へ行くことにしました。名古屋といえば「知多もめん」など綿織物の一大生産地で有名でありまた先日このコラムで紹介させて頂いた丹羽氏との再会そして日本に始めて綿を持ち込んだと言われる崑崙人を奉った神社があるので、期待を胸に名古屋を訪問しました。『「もめん」~ふとんとわたの歴史~』でも書きましたが日本の綿栽培は桓武天皇時代の 延暦18年(西暦799年)に愛知県の三河地方海岸に小船で流れ着いた崑崙人(コンロンジン=アジア系)の青年が手に持っていた綿の種子が始まりと言われています。 日本後紀には漂着の様子が細かく記されているようです。この崑崙人が種の蒔き方や栽培方法を大宰府、紀伊、淡路、讃岐、伊予及び土佐などの 暖かい気候の土地を中心に教えていったそうです。その後の消息は諸説がありますが、神社の資料によると僧となって近江の国分寺に入ったと伝えられています。
とにかくこの崑崙人が日本の綿業界の繁栄をもたらした第一人者であることは間違いありません。この神社はそういった彼の徳を偲び村民達が棉租の神として地蔵堂に奉っていましたが、明治16年5月24日に天竹神社として本社殿を建築しました。ちなみに「棉」と「綿」という字の違いですが実を収穫して種を取り除いた段階までが 「棉」そのあと機械や道具で打ってほぐしたものが「綿」と区別されています。名古屋駅から約45分「鎌谷駅」という無人駅で降りました。神社まで徒歩20分。大きい道路はあるものの畑が多い町でした。日が沈みはじめ寒さもいっそう厳しくなり、また街灯も少ないので早く行かないと帰りが大変だと思い急ぎ足で神社に向かいました。年に一回は行事があるのですがあとは無人の神社。お賽銭箱も本社殿の中にしまわれていたので本社殿に向かって数秒祈りをささげました。
神社の中にはショーウィンドウの資料館があり崑崙人が着ていたと考えられる衣服や綿の種類や糸車などの道具が置いてありました。丹羽氏の綿を打つ姿の写真もありました。 しばし資料を眺めていたら夕焼け空になっていることに気がつき急ぎ足で駅に向かいました。ところがこういうときに限って用を足したくなってしまい、仕方なく神社の便所に戻りました。一息ついてハンカチで手をふきながら歩き出そうとした瞬間鳥居の足元に目がいきました・・・・なんと祖父の名前・原田平五郎と彫ってあるではありませんか! 私は思わずしゃがみこみ涙が出てしまいました。そこには他の製綿会社もありましたが、きっと鳥居を建てたころ寄贈者として名を彫ってもらったのでしょう。 会社の社員やOBの方に聞いても誰も知らずきっと亡き父も耳にはしたことがあってもこの目で見てはいないと思います。私はしばらく立てませんでした。
「この馬鹿者ここまで来ておいて私を無視する気か!」と出来の悪い孫にあきれて私に尿意を持たせてここに戻らせたのかと考えてしまいました。「来てよかった。」私は素直に思いました。 日本に綿を最初に持ってきた青年が奉られている神社を出る瞬間、祖父に「おたふくわたの復活なんて甘いものじゃないがやるだけやってみろ」と背中を押されて見送られたような気持ちで私は駅に向かいました。そもそもなぜそこまでして神社を見に行くことにこだわっていたのかも今考えると不思議なものです。
次回は名古屋の産業技術記念館の見学について書きます。
※このコラムは2002年2月に執筆されたものです