おたふくわた復活プロジェクト

8.綿の歴史を知る・・・ 産業技術記念館

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産業技術記念館

名古屋の西区にある産業技術記念館はトヨタグループが共同で設立した建物です。トヨタの発祥の地であるこの場所は現在でも旧豊田紡績本社工場の建物などを一部残しています。トヨタグループというのは明治初期の紡績業が盛んな頃、自動織機を開発した豊田佐吉とその長男豊田喜一郎が紡織機械と自動車の製造を基にしてできたグループです。 豊田家の歴史を知ることが出来るのと同時に最近見ることの出来ないモノ作りなども経験出来ます。道具から機械への展示、紡績機械の展示、繊維機械から自動車産業に移っていく歴史、代表車種の展示、自動車の研究や技術開発、部品など展示されており、急成長していった日本の生産技術の歴史が学べます。

 

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これが綿打ち弓。
手前の槌を使いながら弓で綿をほぐします。


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世界各国の綿の紹介

ここには江戸時代に木綿織りで使われた糸車などの手織りの歴史が分り、また各国の糸車も展示されていました。また現在日本に入ってくる綿の種類なども分り易く展示されています。やはりこれを見ると各国の綿の特長が一目で分ります。そして以前から私が触りたくて仕方がなかった道具も置いてありました。「綿打ち弓」です。綿打ち弓というのは綿花を採った後に実と繊維を分けてその繊維をやわらかくほぐすために使っていた道具です。幕末から明治初年にかけて綿弓を使って綿をうち商売していた時この道具が活躍していたのです。福岡大学の名誉教授であり博多の商業史を研究されている武野要子先生によると初代原田忠右衛門は博多で唯一専業として綿弓を使って綿を製品化し商いをしていたといいます。この綿打ち弓はほぐす時独特の音がします。 ビューンビューンという何ともいえない音です。

松尾芭蕉もこの綿打ち弓の独特の音を俳句にしています。 「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」綿打ちの弓の音が琵琶のようにきれいな音が出て心が晴れると感動して詠んだといわれています。竹弓の頃は弦は木綿、麻などを使っていましたが中国から伝えられた木製の唐弓の頃は鯨の頭にある脳筋という部分を使っていました。そしてこの弓はかなり大きく結構体力を使うのと高度な技術を要するため賃金も当時にしては相当高かったようです。

この産業技術記念館では糸車や綿打ち弓を使った実演もしており丁度社会科見学で来ていた子供たちが真剣な眼差しで見ていたのが印象的でした。 かつて日本は外国に負けない独特の「モノ作り」を行い国を発展させていきました。最近はこのようなモノ作りが減り、またTVゲームやインターネットなどのデジタル化が進み子供たちの遊び方にも変化が起きている中こうした経験は子供たちにとって大変いい経験だと思いました。皆楽しそうに糸車を廻し笑いながら綿打ち弓で綿をほぐし、真剣な目で綿花を眺めていました。私も子供に交じって綿打ち弓をしようと思いましたが恥ずかしくてやめました。しかし名古屋の丹羽職人が多くの種類の野綿繰りや糸車、綿打ち弓道具を持っているのです。

次回はこの丹羽職人さんと再会し見せてくれた職人技などについて書こうと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年3月に執筆されたものです

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