おたふくわた復活プロジェクト
18.「かっこいい三代目」・和田哲会長 和田亮介氏との出会い ~社訓の「/ ! ? △ ○」とは?~
大阪は昔から商人の町として有名な「船場」に私は始めて足を踏み入れました。 この場所は商社、生地の問屋やメーカー、などが数多くかつては活気があったそうですが最近では企業や町も様変わりし、更に不況で経営悪化の企業も多く町全体が喘いでいると聞きます。それでも私が行ったときの印象は「人も明るく町の雰囲気も明るい」と東京とはまた違う関西の気質を感じました。今回私が訪問することになった「和田哲株式会社」とは東洋紡から仕入れを行いふとんの側生地を作っている業界でもトップの寝装品問屋です。かつてハニーファイバーもこの和田哲から多くの生地を仕入れていました。当時の社長、和田亮介氏(現・会長)は当時ハニーファイバーの社長であった父、原田憲明とビジネス以外でも親交が深く、そのような関係で父の一周忌の時に出た本に和田会長は原稿を寄せて下さいました。
和田会長は大学卒業後に「東レ」に入社しましたが後に和田家に入婿し「和田哲」に入社しました。業界でも和田会長の人柄は有名ですが、とにかく素晴らしい「文才」があります。著書もいくつか出版されているのですが「暑いとき(好景気)には大きく開き、不要時(不景気)には小さく畳める扇子のような状況に合わせた経営を行うべき」と話す「扇子商法」という本は今の時代に必要な事をかつての経験などを交えながら書いています。 私は約束の時間に「和田哲」を訪問し総務の担当の方について会長室へ向かいました。会長室に入った瞬間、急に汗が出て極度の緊張状態になりながら私は会長室のソファーに座っていました。そしてしばらくすると和田会長がお見えになりました。「おおう。原田憲明さんの息子さんかあ。そうかそうかあ。どうもこんにちは」という和田会長の声は低くて力強いものでした。そして大きく厚い手で握手を求められました。私は和田会長のその姿を見て一瞬で「オーラ」を感じました。和田会長は大きい手を広げたりしながら父との仕事の話や、一緒にお酒を飲んだ時の思い出話をしてくださいました。私は現在のハニーファイバーの状況や綿の研究活動、職人さんとの出会いなどの話をしました。
あっという間にお昼の時間になってしまい、和田会長に連れられ私はおしゃれな西洋風のレストランに行きました。和田会長は席に着くなり突然「原田君は・・・もしかしておたふくわたを、またやりたいのかな?」と切り出しました。私が答えに困っているとそれを察した和田会長は「伝統というものは非常にやっかいなんだよな。後ろから押してくれることはしないんだがやたらに引っ張るんだよね。つまり変化しすぎるのはいかんということだ。」と話し「原田家が家業としていた綿を、もう一度やりたいと思っているなら伝統を頭に入れながら頑張りなさい」と私の顔を見つめ、力強く話してくださいました。和田会長はかつて自分が和田家に婿として入った思い出を話しながら「親子の情と会社は別なものでね、会社を興した人間は子供より伝統や、のれんが可愛いんだよ。それに実の息子だとけんかなどが起きてしまうが娘婿に来た男だと、遠慮しながら父親として冷静にあれこれ言いやすいからね。こういった考えは昔の船場では当たり前だったんだよ」と教えてくださいました 。
和田哲は昨今羽毛が中心となっている寝具業界の中でも木綿ふとんの生地の開発なども積極的に行っています。和田会長とお会いした翌日はちょうど大阪の各所で問屋のふとん生地の展示会が行われていたのですが、和田哲が他社に比べて木綿ふとん用の側生地を多く出展しているのを見て私は会長の話した「伝統」を思い出しました。 ちなみに和田会長は現在71歳なのですが会社には毎日出勤し、休暇では頻繁に海外旅行に行かれるなど、その若々しさには驚いてしまいます。和田会長は「いやあ明るく生きなきゃだめだよ。とにかくどんな時も明るくいなきゃ。泣いて生まれたんだから笑って死にたいもんね。」 和田会長のその生き方に私は素直に「かっこいい」と思ってしまいました。和田会長とはその後も親しくさせていただいており現在の社長であり和田会長の娘婿でもある野村史郎社長とも親しくさせていただき生地の勉強や研究にご協力をいただいています。 ちなみに題名にあった「/ ! ? △ ○」とは和田会長の社訓で、実際は筆字で/も他の記号の上にのせているように書いているのですが「/は永続、!は感動、?は革新、△は人、○は和」の意味を持っているのです。 和田会長は最後に「人との出会いは大事だよ。だから胸の筋肉を大きく広げた姿勢で人と接してごらん。あなたを受け入れますよ!という形に見えてくる。相手もそれを見て気持ちがいいはずだよ。」と話してくれました。別れ際またあの大きい手で握手してくださいました。私は憧れの経営者に会えた感動の余韻に浸りながら大阪を後にしました 次回は丹羽職人の協力で初めて私が「ふとん綿作り」に挑戦したことについて書きます。
※このコラムは2002年10月に執筆されたものです