九代目言聞録

21.博多が動いている!~「怖い」から「大好き」に戻った福岡・・・ 博多の力を僕は毎月感じている~

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呉服町にある出光のビル。
天保11年おたふくわたは
この地で創業した

僕は福岡が怖くて仕方なかった・・・
 毎月僕はおたふくわたの本社がある福岡に出張しているのだがカミングアウトすると実は大学生になるぐらいまで福岡が怖くて仕方なかった。福岡という町は大好きなのに行くのが怖いという何ともいえない複雑な心境が長く続いていた。
小さい頃のあるきっかけで福岡に行くのが段々怖くなったのだ。最初のきっかけは祖父の死である。祖父は当時の我が社の関連会社の工場視察時に倒れてそのまま帰らぬ人となった。我が社だけでなく福岡商工会議所会頭や新天町の初代会長を務めるなど福岡の経済界でも多大なる貢献をしてきただけに葬儀には大勢の人が来た。当時僕は3歳だったが葬儀で多くの人が悲しい顔をして涙していたその姿を今でも何となく覚えている。
人の死についてまだ理解できない年齢であったが、火葬場などで見た人々の特に家族の悲しい姿が僕の心に強烈に残ってしまった。

そしてその6年後、僕はさらなる体験をしてしまった。それが父の急死と数ヵ月後に後を追うように亡くなったすぐ下の妹・・叔母の死である。
父は冬休みに家族で博多に帰省した数日後・・・1月2日の夜に急死した。倒れる直前まで野間に住む次女の叔母夫婦の家で食事をしていた。その時、周囲は酒を飲んでいたせいもあり誰も気がついていなかったが、トイレに頻繁に行く父の姿を僕だけは「何かおかしい」と敏感に感じた。そしてその予感が辛くも当たってしまう。2台迎えに来た帰りのタクシーの中で父と二人で乗ったのだが祖母の家に着く直前に「だめだ・・パパはちょっと気持ち悪い」と僕に言い階段を駆け上がりトイレに入りそのまま倒れた。そしてその数分後に救急車が来た。僕は祖母の家の下に住む父のすぐ下の妹である叔母の家で父の帰りを待つことになった。怖くて仕方なかった。あの父の苦しい姿を見て僕は父は帰ってこないような気がしたのである。
不安をかき消そうと漫画「がんばれタブチ君」を読んでいたがその数時間後に姉が部屋に入ってきた。もう涙で顔がぐしゃぐしゃだった。わずか9歳で僕は父の位牌を持つ経験をしてしまったのだ。父から色々と教わりたいことがたくさんあったのにそのまえにこの世を去ってしまった。
9歳でもまだ死というものを理解していたとは言いがたい。しかしもう父はいないという悲しさは毎日僕は心にぽっかり大きく残っていた。そしてその数ヵ月後に下の階に住む大好きだったあの叔母が車中で信号待ちの時にそのまま息を引き取ったと聞いた。僕のトラウマは完全なものになってしまった。9年の間で3人の身近な人が急にいなくなったのだ。僕は法事などで博多に行く度に「次は祖母かおふくろか姉が連れていかれる」と妄想するようになってしまった。特に父が死んだ後の祖母とおふくろの憔悴しきった顔は9歳の僕には辛すぎるぐらいだった。だからもう博多に行くことが恐怖になったのだ。
だから墓参りも法事中のお経も実は怯えていたのである。僕にとってお経というのは祖父、父の突然の死に皆が泣き続けた葬式のシーンしか出てこないからだ。そのぐらい3人の死は強烈だった。9歳の僕は結構へこんだ。

そして大好きだった祖母が他界した
時は流れ僕は中学、高校と寮生活や留学など充実した学生生活を送っていったので福岡に行くことも減り恐怖というのも少しは薄れかけていた。それでも親戚などの死を聞くと幼少のトラウマが蘇り数日暗い気分になったりした。でも僕をかわいがってくれた祖母は茶道や華道、能など多彩な趣味を持っていた関係で良く東京に来て我が家に泊まっていたので祖母とは疎遠になることはなかった。
しかし・・・僕は再びあの不安が出てきたのだ。祖母が僕の浪人中の2月に他界してしまった。それはいつものように東京に来てうちに泊まるはずが翌日僕の受験があるというので遠慮して日帰りで帰った翌朝に起きた。茶室で生徒が来るというので風呂に入り着物に着替え・・・そのままベットの上で倒れていたという。祖母に前日会えなかったことは悔しくて仕方なかったが83年間の大往生、見事な散り方に僕は祖母の人生を誇りに思った。そして親戚からの指名で僕は喪主を務めた。祖母への恩返しのつもりだった。しかし葬儀中にお経を聞きながら祖母の写真を遺影を見てついに祖母までいなくなってしまったという悲しさと徐々に父の告別式が蘇ってきてしまった。しかし喪主を無事に務めなければいけないと責任感がこのときは勝ったのだ。そして僕は葬儀の数週間後にようやく、ようやく、大学に合格したのだった。合格を祈っていた祖母に報告できなかったことが悔やまれる。

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櫛田神社・大節分祭には長男と2人旅で参加した
(左は今回お世話になった仲の良い僕のはとこ)

おたふくわた復活で僕は本当に変わった
そして卒業後、サラリーマンを経験し家業を継いでから博多に頻繁に出張をするようになった。立場は人を変えるというがこの会社を継ぎ、繁栄させるいう大きな目標と従業員やその家族を守るという責任感を持ち、財産である「おたふくわた」の復活を目指していた僕はいつのまには福岡への怖さ消えていた。
それは恐怖感以上に多くの人との出会いして感動を福岡で経験すようになったからだと思う。

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建替え中の博多駅・・
3年後に生まれ変わる

僕がこうして福岡でハイテンションで仕事が出来るのも人々の思いに加え博多を中心に街が東京に負けないパワーを持っているからだと感じている。福岡という街は何かそういう「ずっしり」とした重みを感じるのだ。出張していつも思うのだが福岡の天神中心街の交差点は銀座のそれに比べて人の数も確かに少ないが信号が青に変わった瞬間の歩き出す速さが銀座に比べて遅い。しかし人数が少なく遅くても銀座に匹敵する重圧感があるのだ。人の踏み出すその一歩に何かパワーを感じてしまう。
お祭りも沢山あり、芸事に長けて(福岡出身の歌手も確かに多い)、魚はおいしいし、スポーツも強
い、そして嘘やごまかし、駆け引きをせず正面からぶつかる人が多いから僕も商談をしていてとても気持ちよく進めることが出来る。本当にすばらしい土地だ。
最近、不動産の大手デベロッパーに聞いたら土地の価値は東京、名古屋に次いで福岡が高いという。確かに当社の不動産事業でもその雰囲気は感じる。そして2011年には九州新幹線鹿児島ルートの拡大に合わせ玄関口である博多駅が新しく生まれ変わる。
もう僕は怖がっているわけにはいかない。いままさに博多は動き出しているのだ。
次回は「ついに僕はインドへ行った!~前半~」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年3月に執筆されたものです

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