20.予想以上の売れ行きに誰もが驚いた・・・見えてきた「木綿ふとん復活」。

先日、寝具業界の新聞の一面に「羽毛ふとんの普及率が遂に102%へ」という記事が掲載されていた。すでに数年前から90%台になり、毎回紙面に出ては羽毛ふとんに代わる商品の開発が急務だと指摘されていた。だが100%を超えた今でも私たちは羽毛ふとんの地位を揺るがすようなヒット商品を出せずにいる。 確かに羽毛ふとんより軽い重量で、手ごろなものから高級品まで品揃えが豊富な商品はそう出てこないだろう。もはや最初で最後のヒット商品だったのではないだろうか。羽毛ふとんが世の中に出てからまだ30年ぐらいしか経っていないのに数字上は国民全員が羽毛ふとんを掛けて寝ているのだ。驚異的な事であり同時に業界にとっては致命的である。新開発をして多くの商品を発表し、時には新聞やTVにも登場し話題になるものもあるが、未だ定番になるほどの大人気商品は見つからない。

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だが私はひとつ気がついたことがある。ヒットではないが再び地位をじわじわと上げてきたふとんがある・・・それが木綿ふとんである。当社が木綿ふとんを復活させて1年半になるが今でも毎月定期的にふとんは売れるし、3月末から都内でも屈指の老舗百貨店で弊社の綿と職人で作ったオリジナルの木綿ふとんが予想以上に売れている。私だけではなく社内でも驚きの声が上がっている。ましてや百貨店のバイヤー自身も自ら掲げたノルマをわずか数日で達成したことに奇跡のような表情を私に見せた。羽毛ふとんを捨てて木綿に向かう人がもしかしたら少し増えてきたと考えるのは暴論だろうか。敷ふとんは根強い人気があり木綿ふとんを選ぶ人が多いが、掛ふとんを木綿にする人はなぜ購入するのだろうか・・数字では出しにくい「確実さ」がここに出ている。

当社のふとんを購入してくださるお客様の中にも、はじめて木綿ふとんを使う人や羽毛ふとんに馴染まなくて木綿ふとんに代える人が決して少なくない。羽毛ふとんには長所が沢山ある。まずは軽さである。これはどの繊維も敵わない。そして次にいわれているのが「保温性」である。確かに寒い外で卵を守る親鳥の毛は繊維が長く量も豊富だから絶品の温かさがあるとイメージできる。だがデータによって保温性は木綿のほうが時間が長けているという資料もあるし、温かすぎて体に負担がかかると忠告する資料も出てきた。また日に干せない、品物によっては匂いが気になる。という欠点も30年の間でみえはじめてきた。そして程よい重さが安心感を与える・・こういう声も多い。つまり木綿ふとんも羽毛ふとんも長所と欠点はそれぞれ同じ数ぐらいになるのを消費者が分かってきたのだ。

だが木綿ふとんがどの繊維よりも勝っているのは「手作りで温かみ」があるという点である。(手作りといえばシルク、つまり真綿ふとんも時間をかけて1枚1枚丁寧にのばしながら作る)太陽の恵みで育った木綿のふとんは日に干すと綿はカサが出て、なんともいえない香ばしい匂いがする。なんとなく「日本の故郷」というようなイメージを持っているのではないだろうか。

また日に干すのが「面倒」から「楽しみ」、「清潔な手入れ」へと変わってきた。そして長く使っても打ち直しが出来るから環境に優しいと考えてくれるようになった。自分が育ってきた田舎の駅を降りた瞬間、走馬灯のように過去の自分が現れて気持ちが新鮮になるような感覚がもしかしたら木綿ふとんにはあるのかもしれない。だが郷愁だけではここまで売れていないはずである。

私は木綿ふとんの復活が近いような気がしてならない。だが一歩間違えると「ブーム」になってしまう。ブームは終わりが来るのでこれは避けなければならない。それは私たち商売人も職人も十分理解していることだと思う。 いま私のところにも取材が増えてきている。これはこれで有り難い話だが単なる話題作りの材料にならないようにもきちんと真意を伝えるべきである。 「木綿ふとんは日本人にとって最高のふとんである。それは歴史が証明している」 

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2005年3月に執筆されたものです

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19.日本にはもう一度「あの頃」が戻ってくるそれは市場も消費者も感じている・・・・

ふとんを復活させて1年半になった。大げさでなく当初考えていたよりかなり売れている。あまりにも売れなくて店(ホームページ)を閉じるような事態にもなるのではと考えていたから、嬉しい誤算だった。これはつまり「木綿ふとん」が好きな人が予想より多かったと言う事だろう。「どこに行っても木綿ふとんがないから良かった」「お願いですから木綿ふとんを続けていてください」という声が多い。こういう声を聞くと更に気が引き締まる。そしてこれからのモノ作りには「郷愁」だけではなく「こだわり」「故郷」「伝統」などが今後も重要になってくるのだと確信した。文明が進めば進むほど人間の気持ちはその方向に行くような気がする。

郷愁や故郷といえば最近私は1歳の息子と週末にCDで童謡を聴きながら遊んでいる。息子も童謡だけではなく、家族に付き合わされてクラシックも聴くし、ラップだってロックだって聴くときもある。でも童謡を聴いているときが一番息子は笑顔になるし、はしゃぐ。うちの息子だけかもしれないがやはり童謡は子供の心を育てる魅力があるのだろう。(クラシックの時も似たような感じになるがどちらかと言うとまったりになる)子供が生まれるまで童謡なんて全く聴かなかったが、子供と聴いているとその歌詞の素晴らしさに、感激してしまった。

例えば有名な「夏は来ぬ」というのがあるが「うの花のにおう垣根に ほととぎす早もきなきて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」 「五月雨のそそぐ山田に 早乙女が裳裾(もすそ)ぬらして 玉苗ううる 夏は来ぬ」こんなきれいな歌詞の歌が最近出ているだろうか。こんな表現を書けるようになったらどんなに美しいだろうか。都心に住む私にはこのような光景を息子にすぐ見せれない事も悔しい。

ブログにも書いたが先日、麻布十番にアメリカ人の女性が経営してる日本の刺し子や藍染の商品を販売している店があるのだが、かれこれ30年も営業しているらしい。アメリカのブッシュ大統領夫人も数年前に買い物した店としても話題になった。外国から来た観光客が日本らしいものをと買いに来たり、国内に住む外国人がインテリアとして買いに来たりしているが、驚いたのは日本人のお客が案外多いことだ。 「ここじゃないと買えない日本文化があるんですよ」とあるお客は苦笑しながら言っていた。

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日本の良さや文化を私たちから伝えていかなければいけないのに外国人の方が大切に考えていることに私は危機感を持った。背の高いビルやかっこいいファッションや外国人も顔負けのライフスタイルがいいと思っているのは国内にいる私達だけで、外国人にとって見れば山や田畑、農家、きれいな小川、情緒ある町並み、が彼らの求めている「日本」ではないのか。しかも都心に住む私達も休暇をつかって好んでこのような場所に行くのは「故郷」を求めているのではないだろうか。フランスから帰ってきて新潟上空は山や緑が多く、成田周辺はまるでグレーの積み木が並んでいるように見えて私は悲しくなった。

木綿ふとんが決してなくならないのは山や田畑がなくならないのと同じように人々にちとっては「故郷」の一部なのかもしれない。だからこそ私は商売だけではなく「日本の伝統工芸品」としてずっと先まで守り続けたいと思う。童謡だって子供が歌わなくなったらあまりにも切ないし、木綿ふとんが世の中から全くなくなったらきっと悲しむ人も多いと思う。 だから文明を進める人と文化を守る人がバランス良くいればきっと私達の心も和やかになると思う・・。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2005年2月に執筆されたものです

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18.クラシック・ソムリエ(!?)でもある私はラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンを ぜひ成功させなければいけない

おたふくわたブログやハニーファイバー株式会社のホームページにも何度も書いているので少々読み飽きている読者も多いかもしれないが、私のもとに昨年末、一本の電話が鳴り急遽、フランスへ行くこととなった。そして先日、1週間の旅から帰国した。

東京国際フォーラムがこの4月に「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 「熱狂の日」音楽祭2005」というイベントを行うのだが、これを記念して昨年12月に読売新聞にて「私とベートーヴェン」という作文コンテストをしていた。家内がこの広告を見つけたのがきっかけで、ダメもとで私が作文を書いたら奇跡的に最優秀賞を受賞してしまったのだ。「実は応募人数が3人ぐらいしかいなかったのではないですか?」と真顔で東京国際フォーラムの広報に聞いてしまったほど信じ難い受賞だった。この受賞は本場・フランスで行われているラ・フォル・ジュルネの体験取材が出来るという副賞がついていて、しかも「クラシック・ソムリエ」というネーミングまで頂いた。クラシックと私の出会いは以前、第九の件で少し書いているが…それにしたって私ではなく彼の事を本当に詳しく知る先輩方も他に多くいたに違いない。だが昨年は休みらしい休みも取っていないし、更に「おたふくわた」の宣伝にもなる。幸い会社も私の受賞に歓迎ムードだったしこの機を逃したら行けないと思った。

そんなわけでフランス行きは決まり、私はせっかくの機会だから、と家族を連れて行くことにした。家族といっても生後11ヶ月の息子を連れてだ。彼は1歳に満たないのに海外へ行かされるはめになった。息子は昨年、熱を出して入院したこともあるし、寒いフランスへ連れて行くことには不安が多かった。当然、賛成派もいたし反対派もいた。家族で何度もそのことについて話し合いもしたし、喧嘩もした。が、結果、私は母を含めた4人で家族旅行を兼ねた音楽祭の特派員としてフランスへ行くこととなった。

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さてこの音楽祭について簡単に書くとフランス北西部の港町ナントで、1995年に誕生したクラシック音楽祭である。毎年有名な作曲家をテーマにしてナント市内の会場で、朝から晩まで9つの会場で同時に45分間のコンサートが、5日間で約300公演も繰り広げられる。演奏者には若手や有名演奏家がいて、新しい聴衆の開拓の為、入場料は5~22EURO(700~3,000円)という驚きの低価格を実現しているのだ。 冒頭に述べた「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」とは同じようなスタイルを日本で今年の4月に行おうというものだ。

私は息子の面倒を家族で交代しながら初日から出来るだけ会場に足を運んだ。会場は熱気に包まれていて、おめかしした老夫婦、はしゃぎながら会場に入る子供達、革のジャンパーにGパンを履いているカップルなど、とにかく誰もが色々なスタイルで聴ける。色々なスタイルというのは服装だけに限ることではない。聴き方なども然りだ。例えば楽章の間に拍手しようが誰も怒らない(当然、私語などは怒られるが…)。エントランス付近では無料コンサートもあるしクラシックに関係した色々な出店もある。クラシックに興味がなくてもなぜか足を運びたくなるような不思議な空間であった。

家内がとあるフランス人の老夫婦と話しをしていて印象的だった台詞に「この音楽祭の素晴らしいところは1年に一回、親戚や友人と再会出来る事だよ」と言うのがあった。「そうか!この音楽祭にはそういう意味があるのか!」私は感動した。なるほど、居心地がよいわけだ!確かにレストランはあちこち満員だし、会場付近では大勢の家族らしき集団が歩いている。音楽を聴いて食事をして再会を喜び合う。なんという素晴らしい行事なのかと思った。家族で来たおかげでこの話に更に実感が沸いた。

日本からも多くの有名な演奏家が来ていたし、ジャーナリスト、マスコミなども大勢同行していた。出会いで言うならば現地の人々だけでなくこういった国内でもめったに知り合えないような沢山の人と名刺交換やメールアドレスの交換も出来た。ナント市長の朝食会に招待されたり家族を含めてのTV取材などもあった。息子に至っては地元の新聞の朝刊にまで載せていただいた(最年少の親善大使、といったところであろうか、ずいぶんと注目を浴びたのだ)。息子を連れてきたのはかなりの苦労だったが、苦労した分、この息子のお陰もあり貴重な体験が出来たのだから結果的には素晴らしい旅行だった。私のナント音楽祭体験記はこの話と重複するだろうが読売新聞にも登場する。

さて果たして日本でもこのイベントは成功するであろうか? いや、絶対にさせなければいけない。ナントで見た光景を少しでもこのギスギスした日本でも実現させたい。

最近は物騒な事件が多く「他人を見たら泥棒と思え」といわんばかりの雰囲気になりつつあるが、昔長屋風にご近所さんが誘い合い、子供や大人がパンフレットを見ながら会場の中を走り回るような楽しいイベントにしたい。そして何よりクラシックに興味がなかった人たちが満足して帰るイベントにしたいものだ。

おたふくわたを更に広めるのと同じぐらい重要な任務を持つことになった。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2005年1月に執筆されたものです

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17.育児をして知ったこと・・・日本はバリアフリーがまだまだ足りない!

家内のお腹の中にまだ我が息子がいた時、私は病院が開催していた「両親学級」に参加したことがある。父親としての実感が全くない頃に、看護士さんたちに「さっパパ達もやってみましょう」なんて言われながら赤ちゃんの人形を使ってお風呂に入れたり、おむつを取り替えたり、父親同士で陣痛の時はどのような対応をしたらいいかなどをディスカッションしたりするのだが、男性諸君は皆、照れながら参加していたのを今でも覚えている。

その時に何か発表するコーナーがあったのだがある奥さんが「バスなどに乗ると具合が悪くて優先席に座っていたのに、中年の女性が目の前に来て席を譲れとばかり立っていたり、逆に健康そうな青年が優先席に座っていてこちらが譲ってもらいたいのにお腹が大きくないから妊婦と分かりにくいようで、すごい辛かった」と言っていたのが印象的だった。

そういえば以前ラジオで妊婦さんと分かるシールを作り世に広めようとしている主婦のインタビューを聴いたような気がするが、最近「バリアフリー」という言葉が広まり駅や街中でも体にハンディを持つ人の移動などを容易く出来るような環境作りが進められている。しかしどうも妊婦さんや子を持つママさん達にはまだまだ不自由さがあるようだ。

日本は少子化が進むのを理由に子供や乳児に対する諸々の費用を削減しようと進めているが、どんな時代になろうが子供は誕生し続けるのである。その当たり前の感覚がないのだろうか。

自動車に初心者やシルバードライバーと分かるステッカーが義務化されているのに妊婦さんと分かるシールをどうして広めることが出来ないのか。主婦一人がいくら頑張っても限界がある。国が動けばすぐに広まるのになぜ思いつかないのか。

いまだに子供が多い百貨店やアミューズメント広場でも分煙のないレストランもあるし、歩きタバコの真後ろにベビーカーを持った主婦がいると恐ろしくなる。そして都内は特にベビーカーが通れない歩道が多いことに驚く。段差も多いし、道路はでこぼこだし、ガードレールがない場所も多いのでスリル満点の世界だ。家内なんてベビーカーで子供を散歩に連れていくと「車椅子の人はもっと大変なはずよ」といつも話している。電車で移動する人は例えば駅だって階段やエスカレーターなんてベビーカーを持っていれば絶対無理だしそこにエレベーターがあったとしてもベビーカーは入りにくいし、改札口だって通りにくい。

また子供に病気はつきものなのに、ある病院の偉い先生は僕らの前で「まだまだこんなに子供はいるのに国は小児科の看護士を減らして高齢者の多い科に異動させろと言っている。不思議なもんだよ。大人が増えるから子供への対応を怠けろというものだよ」とぼやいていた。

そういえば我が家のベビーカーはフィンランドのめずらしいものを購入した。値段的にも国内や海外の人気ブランドに比べれば決して高いわけではない。しかしこのベビーカーは大人と同じ目線の高さに調節できるので例えば通常のベビーカーに比べて道路のホコリや車の排気ガス、タバコのもらい煙などを吸うリスクが少なくなる。また両親が食事をする時も同じ視線だと子供もぐずらないで済む。百貨店の中を歩くといまだにジロジロ見られるほどインパクトのあるベビーカーなのだが、子供の体を考えると実に合理的なものだと思う。確かに自分もいつか年を取るし親の事を考えれば高齢者に対する環境作りは重要ではある。しかし子供も大事だ。両方に対し極端になってはいけない。日本は先進国なのにたまにそう思わない事がある。今回ホームページで書いているが縁あってフランスに行くことになった。フランスも先進国であるが子連れの家族に対して優先的な対応を取ると聞いている。真実かどうか我が息子を連れていくので確かめてみようと思う。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年12月に執筆されたものです

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16.この一年は最初から最後まで「人」に支えられた。 おたふくわたを来年さらに飛躍させていくことが最大の恩返しである。

会社で11月のカレンダーをめくると1枚しかない事に驚いた。あっという間に1年が過ぎた。 昨年の今頃は「サライ」(小学館)という雑誌に初めておたふくわたが紹介されて電話がジャンジャン鳴り響いていた頃だ。あの掲載が全てのはじまりだった。あの後に立て続けに雑誌に紹介されてふとんが驚くように売れてきたのだ。勢いに乗ったとはこういうことを言うのだろう。今では継続してふとんが売れるようになったからやはり雑誌の力は強かったのだろう。

ふとんと関係ないが今年早々、我が家に息子が誕生したことも私のやる気を更に起こさせた。これは私にとっては今年1番のニュースと言える。

家族だけでなく多くの寝具関係者、マスコミ、購入していただいたお客様皆に励まされた。そういう意味では最初から最後まで「人」に支えられた1年だった。周りの支えがなければおたふくわたはここまで絶対に成功していなかった。

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マスコミの方々も本当によくしてくれた。広告費なども一切払わず、無償で掲載してくれた。記者の人たちが「復活頑張ってよ!」という良心的な気持ちで載せてくれたのだ。こんな嬉しい事はない。マスコミは冷たいという人が結構いるが、少なくとも私を担当してくれた記者はみんな温かい人だった。それはやはり「縁」だったというしかない。今では掲載してくれた記者の方々とプライベートでも仲良くさせていただいている。
ふとんを作ってくれた職人をはじめ、製綿工場の社長さん、商社の営業マン、縫製工場の社長や配送業者のドライバー、副資材の営業マン、みんな一生懸命協力してくれた。細かい指示も出したが良く応えてくれた。また当社のふとんが入っているヨコハマ グランド インターコンチネンタルホテルの従業員の人たちも驚くぐらい丁寧にメンテナンスをしてくれている。600 室も部屋があるのにおたふくわたのふとんが入っている1室に相当の時間をかけてケアをしてくれている。だからこちらも定期的に部屋の様子を見にいく事にしている。そのためか宿泊客から一切クレームがない。

そして・・特に感謝しなければいけないのが購入していただいたお客様だろう。数百人という沢山の方々がおたふくわたのふとんを購入してくれた。この人たちは百貨店もふとん専門店もあるのに、わざわざ弊社のショールームに来てくれたり、ホームページや電話番号を調べて、注文してくれたコアな人達だ。更に購入いただいたお客様からのリピート購入や友人・知人を紹介いただいたことも嬉しい出来事だった。私は数年後の打ち直しの時期でも当然寝具を続けているように努力しなければ罰が当たると思う。お客様達を絶対に裏切るわけにはいかないのだ。

そして電話や葉書、電子メールなどで「いいふとんです」と感謝の気持ちをわざわざ伝えてくる方の文面をみると目頭が熱くなってくる。そして「復活させて良かった」とこの時思う。

当然、木綿に否定的な人達もいた。木綿に対し間違えた意見や心ない言葉を言われたこともあった。しかしこれは復活させる前から予想していた事なのでこの1年で得た喜びにはかなわなかった。長所が多い木綿ふとんに自信を持っていたから私にはびくともしなかった。

さて来年は、更におたふくわたを広めていくつもりだ。実はこのコラムにはまだ発表できないが来春、おもしろいイベントを計画している。今、話がまとまりそうなところまで来ている。その他、新規販売ルートの開拓、インターネットのスタイル変更、また寝具業界が今までしていないようなイベントも計画している。来年は今年よりおもしろくなるはずだ。昔のように巨大な会社にする気はない。しかし小さくても寝具業界に旋風を巻き起こすような会社にしたい。

そして「おたふくわた」をもう少し広めていくことが先祖への恩返しでありふとんの復活を応援してくれている方々への恩返しでもあると思っている。 今年は関わった人全てに「感謝」なのだ。

最後に1年間「九代目のひとりごと」を読んでいただき有難うございました。 来年は今までのようなコラムのスタイルではなく若干変更する可能性もあります。 ぜひ楽しみにしてください。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年11月に執筆されたものです

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15.神様、お願いだから「綿ブーム」なんて起こさせないで・・・

最近、有名百貨店のバイヤーの方々と会う機会が多い。嬉しいことに「おたふくわた」が徐々に広まっていることでバイヤーが興味を示し、また多くの方がおたふくわたを信頼して色々な百貨店を紹介してくれるからだ。復活させてから1年が経つが自分が予想していた以上に反響が広がっていることは協力してくれる周囲に深く感謝しないといけない。

バイヤーの方々は異口同音に綿が見直されてきている事を話す。しかし先日あるバイヤーと話していたら「今、秘かな綿ブームでしょ?」みたいな事を言われた。内心「えっ?」と思った。ブームじゃないしブームになったら困る。ブームというのはいつか終わり、2度とやって来ない時もあれば、大分先にまた注目されることもある。商売をしている我々には非常に厄介なものだ。しかもこちらから仕掛けないで消費者が作り出すブームが一番怖い。戦略・戦術がないまま流行るので、あっという間に撃沈されるのだ。

綿に対する見直しをブームと解釈されると困ってしまう。仮に木綿ふとんのブームなんて来たら震えてしまう。おたふくわたは丁寧さではどこにも負けないと思っている。お客様から注文が来てから、ふとんを届けるまで3週間ぐらいかかる時もある。それでもお客様は怒らないし、むしろ涙が出るような嬉しい言葉をくださる時もある。もしブームが来てしまえば、「丁寧に」が出来なくなってくるのだ。そしてブームが去れば体力がないおたふくわたは2度と上がってこられなくなる。

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私は当初、百貨店や通販との取引に抵抗があった。出来る限り受注生産に近い形で、高品質でリーズナブルな商品を作り出したかったからだ。しかしここに来て、綿ふとんをさらに「極めたい」という思いから少しずつ門戸を広げようという気持ちが出てきた。

消費者の中には綿ふとんが好きというセグメントの中に更に「こだわり派」が存在していてその数が案外多い。綿も生地も選べて、ふとんのデザインで座布団やちゃんちゃんこまでも作りたいという贅沢な消費者が予想以上に多いことにこの1年気がついた。例えば綿の種類…世界にはいくつもの綿があるが「ふとん」に適しているものなどは限られてくる。いまおたふくわたが使用しているふとんの生地は高級である。しかし消費者は「もっと上があるのでは」と思っている。だから業界から見たら「無駄」と思われるだろうが、おたふくわたには「こだわりのプレミア木綿ふとん」があってもいいのではないかと考えた。従来通りの丁寧さでかつ超こだわりの綿ふとん。そんなものがあってもいいと思った。

おたふくわたは過去の寝具撤退の辛さを知っているので百貨店との商売も慎重にしていかないといけないのは百も承知だ。しかし前へ少し進むにはこういう力が時には必要だ。おたふくわたの「木綿ふとんを極めて」世間に「PR」する。百貨店との商談がうまくいけば一人でも多くのこだわり派にPRできるし、多くの意見を聞いて更にこだわれる。

だが、おたふくわたの「ポリシー」は失ってはいけない。受注生産に近いこのスタイルは崩すわけにはいかない。だからその条件が合わなければ百貨店とも取引しない。そういう意味ではもしこのビジネスが進めば消費者には「最高級の綿ふとん」を提供できるはずだ。綿好きにはたまらないものを考えている。 だからこそ最近の綿への「見直し」を「ブーム」と思われたくないのだ。確かに数年前なら百貨店のバイヤーも「綿ふとん?いらない、いらない!うちには良い羽毛があるから」と一蹴していたのだろう。それが今百貨店も見る目が変化していきているのは私も感じる。しかしマンネリ打破の道具として木綿が使われていくのは悲しいし、お断りだ。

今私が不安なのは「オーガニックコットン」がやたらと謳われて流行っていて、そのオーガニックコットンの事実をほとんどの人が知らないことだ。「なんとなく体に良さそう」というので売れているのだ。人間の体には普通の木綿でも全く害はないしむしろ農薬などを使った木綿のほうが頑丈である。私達のもとに来るころは農薬も全て落とされている。(これは実験でも出ている)オーガニックは「体」に優しいのではなく「環境」に優しいのだ。だから環境の良さで買っているのならいいが…。そのことをどのくらいの消費者が知っているか。これがブームで終わってしまったら純綿には影響が出ないかが心配である。

とにかく寝具には「ブーム」は邪道だと思っている。

今、いくつかの百貨店と商談が進んでいる。慎重にこの商談を進めている。もし実現したらおたふくわたは前へ進む大事な1年になるのかもしれない。来年おたふくわたと「XX百貨店」が取引開始となればその百貨店はおたふくわたを理解してくれたところだと思っていい。

最後に余談だが、昨今流行の「セレブ」ブーム・・一体何なのだろうか?・・未だに私には意味が分からない。本当のセレブなんて世界から見れば日本には数十人しかいないような気もするが・・。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年9月に執筆されたものです

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14.高齢化社会で私が思うこと。「何だかんだいってもお年寄りは偉いのだ!」

先日、おたふくわたのふとんを購入してくださった方から1枚の丁寧な葉書が届いた。 私は買っていただいたお客様全てに葉書でお礼を書いているが、このような返事を頂くと本当に嬉しいし励みになる。
返事が届く中で文章の長短関係なく年配の方からの葉書はやはり深みや重みが違うと気づかされる。心がこもっているというのだろうか。短い文でも「良いふとんなのでしょう。おかげさまでぐっすり寝ております。」などと書いてあると葉書を持ったまま赤面してしまう。
こういう時にいつも思い出すことがある。ある日車を運転していて前の車があまりにものろのろ運転していたり危なっかしい運転をしていたので思わずクラク ションを鳴らし、その後、信号待ちで運転席を覗くと仲の良さそうな老夫婦が運転している姿だと気づき、一日私は心が痛み、自分の余裕の無さに猛省したことがある。(ド ライバーなら一度は経験したことがあるだろう。)私達は普段の生活の中でも高齢者を気にしているだろうか。電車の中で席を譲ったり、町を歩いていてぶつ かってもきちんと謝ったりしているだろうか(この場合は高齢者だけではないが)。恥ずかしい事だが、ふとんの商売を始めて高齢者の方と接する機会が増え、 やはりこういう世代は大切にしなければと心底思うようになった。

「最近の若いものは」、「私が若い頃は」、「私は昔こういう事をしてきた」若い頃またかと思い耳を塞ぐように高齢者の話を聞いてきた。しかし私が最近思うのはやはり長生きしている人はそれだけでも「生きる才能」があったように思う。いくら文明が発達し健康に関する情報やモノが溢れるようになってもガンはなくならないし、若くして他界してしまう方もいる。ましてや何が起きても不思議ではないこの世の中で、戦争や大地震も経験し、事故にも合わず病気もあまりせず80歳、90歳まで生きているのはいくら寿命が延びたとはいえある意味奇跡だといえる。だから私達は高齢者に対し無条件に尊敬の念を抱かなければならないと思う。「長生きしているのか。才能あるなあ」という表現でもおかしくないのではないか。私の年齢の2.5倍も生きている。私がこれから経験していくことをとっくに経験しているのだ。それでいて元気に生きている。「すごい」の一言だ。

そういえば先月「朝日新聞」の夕刊に素敵な話が出ていた。 ケニアに住む84歳のマルゲさんという元闘士が、小学校に入学したという内容なのだが、ケニアの新政権が小学校教育を無料にすると聞き、スワヒリ語の読み書きが出来ずにいたこの元闘士は思い立って入学を試みた。最初は学校から一蹴され、その後、何度足を運んでも追い返された。そして校長があきらめさせようと「制服が必要なんだよ」と話したら、ある日制服に似た服を着て半ズボン姿で校庭に立っていたという。服は農作業のアルバイトで得たお金で購入したのだった。そしてとうとう入学を許可されたというのだ。「世界最高齢の小学校入学」とギネスブックにも認定された。

マルゲさんはインタビューで「夢は大学を卒業し獣医師になること」と話していた。 若い時に戦争で捕虜にされ、拷問で体にいくつかの障害を持ち、妻に先立たれたあとは牛と羊の世話をして生きてきたという。数々の苦労を重ねた人生だったが、今は「家族のような子供たちと勉強できて幸せだ。学ぶ喜びを知らない老人も自分に続いてほしいものだ」と話している。私はこの記事を読んで感動せずにはいられなかった。色々な辛い経験をしながらもこういう夢を持ち生き続けるこの老人が何と素敵に思えたことか。涙が出てきた。

仕事や私生活で迷いが生じ、多くの方法を試みても悩みが解決しないときもある。だが、経験をしてきた長老の一言が何よりも重く心に響く時があるものだと痛感した。その道のプロに言われるより安心するときもある。 日本では最近、高齢者を狙った事件や介護疲れによる痛ましい事件が続いている。介護は私達がいま一番考えなければならない問題かもしれない。わが身もいつかそうなるかもしれない。大切なことはまず高齢者を「思う」ことであろう。だから毎日少しでも「思う」ことをすれば「敬老の日」なんかいらない。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年8月に執筆されたものです

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13.日本で初めて見たブロードウェイミュージカル 本場アメリカの最高の舞台に足が震えた

梅雨が明け、猛暑のスタートとなった7月初旬。私は公開前から話題になっていたミュージカルを観に行った。
「42ND STREET」(フォーティセカンドストリート) と題したミュージカルなのだが、これがまた大変な盛り上がりだった。公演が終わり、幕が下りてもスタンディングオベーションは終わらず誰も帰ろうとしない。学生時代によく観に行ったプロレスで、名勝負があった後、余韻に浸る観客がなかなか帰らなくてリングアナウンサーから「本日の試合は終了しました」と何回も急かされる事があったが、あの時の光景がふと思い出された。
最初から最後まで地鳴りのようなタップダンスの連続。歌も芝居も、コスチュームや照明までも、全てがダイナミックだった。観客はこの公演に心酔しきっていた。

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「42ND~」は1933年にアメリカで同名の映画があり1980年8月にブロードウェイで舞台化されたのが始まりだという。ストーリーを簡単に説明すると、「1933年、アメリカは29年から続いていた大恐慌の影響で国内中が不況で苦しんでいた。そんな中、ブロードウェイでは明日のスターを目指した若き青年、少女が舞台の出演を目指したオーディションが行われていた。オーディションが終了したころ、小さい町からやってきた一人の少女がオーディションに遅れ、途中参加をお願いするが舞台監督に断られる。しかしその少女が、その場にいた新人俳優に口説かれ、遊び半分に歌を歌ったところ、周囲が彼女の歌と踊りの才能に驚く・・最初は否定的だった舞台監督も次第に彼女の才能を認めるようになり、クライマックスは公演の主役である大物女優が事故により骨折をし、その代役を務めた少女が舞台を大成功に収め、代役の若き才能を嫉妬していたこの大物女優からも最後は認められる・・」といういかにもアメリカンドリームのストーリーだ。

我々観客にも先の展開が読めるような単純明快な内容とはいえ、そのシーンひとつひとつの表現、演出に飽きることはなかった。例えば、ストーリーの中で公演が中止になるシーンがあったのだが、舞台監督の俳優が「今日お越しのお客様、主役が骨折をしてしまい公演は中止になりました。チケットは出口にて払い戻します」といって照明が消えたと思ったら、何と我々観客が本当に休憩に入るのだ。こういった演出に観客は皆爆笑していた。

そしてやはり圧巻はタップダンスである。タップを大人数でやっているにもかかわらず、誰一人ずれることなく、それこそ足並み揃えて物凄い勢いで踊り、次の瞬間には何事もなかったかの様にシーンと静まりかえる。その瞬間、観客は我先にと拍手喝采だ。

日本での舞台に立つために、何百人、何千人がこのオーディションを受け、最終では30人ほどが残り主役が決まっていったらしい。今回の主役の少女役だったセダ・ジョーンズという女優も、ストーリーと同じように厳しいオーディションで勝ち残っていったという。セダ・ジョーンズはこれまたストーリーと同じで、初期のオーディションからすでに輝く存在だったらしい。まさに物語と現実がほとんど同じなのだから舞台に迫力があったのも当然だろう。
私達日本人も素直に楽しめるのは、当時のアメリカ恐慌の中で希望の光を与えたこの作品が、不安定な現在の日本の状況と多少とも似ている部分があり、観ていた観客もタップの技だけでなく、単純明快なハッピーエンドに、ある意味勇気を与えられたのではないかと思う。

最後は出演した役者達だけでなく舞台下にいた指揮者とオーケストラにも惜しみない拍手があった。(余談だが、指揮者がなかなかハンサムな顔をしていたのでこちらも俳優達に劣らぬ位、女性達からはキャーキャー言われていた。)

そういうわけで、この日はなかなか心地よい夜を過ごせた。本当は感動のあまり楽屋出口で待機したいぐらいの気持ちであったが家内に冷笑されそうだったのでやめておいた。 帰宅後、購入したパンフレットを眺めていると、出演者のプロフィールがあり、彼らののほとんどが、「両親や我が妻に愛と感謝」みたいなコメントを書いていた。国内のパンフレットであまりこういった表現は見たことがない。アメリカという国はとかくあれこれ批判される国だが堂々と「家族愛」を語れる強さは日本も学ぶべき点ではないだろうか。  というわけで・・・私も、感謝・・・かな。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年7月に執筆されたものです

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12.日本の今も昔も ~その2~ 運命の金剛杖が私を決意させた 四国八十八ヶ所霊場巡りが夫婦としてのスタートだった  ~後編~

私達は徳島県に着いた。その日は徳島駅近くのホテルに一泊し翌日早朝に起き、駅のロッカーにトランクを預けカジュアルな格好で電車に乗り1番寺へと向かった。駅に着くと地図を見るまでもなく、私達と志が同じような身なりの男性の後をついていくと1番寺はすぐに見つかった。寺の道筋に大きな石柱があり「四国第一番」と書かれたそれを見て気が引き締まった。「いよいよだ」

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寺の横にお遍路さんの装束を購入できる売店があった。意気揚々と装束を揃えるべくその店に入って行ったのだが、この店を出るとき我々の気分は若干消沈した。なぜって驚いたことに、巡礼には結構コストが掛かるのである!四国まで行く交通費は当然だが、身支度として白衣、菅笠、輪袈裟、金剛杖、鈴、そして納経帳、納札、そしてこれらを入れる袋などすべてお遍路スタイルを揃えるとなると数万円掛かるのだ。これにはかなり驚いたが、ここで財布の紐をきつくしても何か罰が当たりそうだし、この際全て揃えようと決心。 そして・・かなりの出費にわずかに動揺しつつ巡礼の旅が始まった。

着替えを済ませた私達はお互いの格好に笑いながら本堂に入って行った。見知らぬ老人から「そこのお若いの!頑張ってな!」と声を掛けられ少々照れてしまった。そのせいでもないが本堂の中ではぎこちない動きの連続だった。手を合わせ経本を見ながらお経を唄い、札を納め、そして納経所で納経帳に御朱印をしてもらい(この寺に来ましたという証明になる)次の寺へと出発する。今回の旅行・・いや巡礼は11のお寺をまわると決めていたので時間配分などもしながら歩かないと日が暮れてしまい計画が乱れる。私達はガイドブックを手に次の寺に行く道すがら寺の由来や空海のエピソードなどを予習しつつ歩を進めて行った。

最初は次の寺まで1~2キロ程度の距離だったが、3番寺あたりから寺から寺まで5キロや10キロ、そしてまた2キロ、という具合に遠い距離や短い距離が交代で出てきて、段々ガイドブックに出ている距離を片目で見たりするようになったりし家内に怒られた・・。しかし歩き慣れない東京に住む私でもお遍路を経験するならやはり徒歩が一番だと実感。次の寺に行くまでの道が国道やアスファルトの道をなるべく使わせず「遍路道」として、整備された山のふもとやわき道などを歩かせてくれるのだ。ガイドブックにも徒歩用の地図はあるが、ところどころに「へんろみち保存協会」の看板があり(この看板が手作りで可愛らしいのだ。)白い板に赤く塗られたお遍路さんのシルエットが描かれており、分岐点には必ずこれらのものがあるので地図がなくても迷うことはない。

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「これら」と書いたがこのマーク、他にも「へんろ道」と書かれていたり、時にはそのシルエットだけが描かれたシールが電柱に貼ってあったりする。また江戸時代から残されているという石柱であったりもする。その看板を見ていると「お遍路さん、こっちの道だよ」と教えられ励まされているように感じてくる。そして道の脇に咲く花に感動し、すれ違う子供達や大人達が「こんにちは」と頭を下げてくる。地元の人たちはお遍路さんを温かく見てくれる。夫婦で歩きながら花を見、会話して、一緒に歌う。そのうち替え歌になり歩いているうちに替え歌も覚えて夫婦で歌えるようになっていた。都会では体験できないコミュニケーションのとりかただった。

宿泊はいつもその日最後に巡礼した寺で泊まった。着替えて風呂に入り、そして食事の時間。お坊さんが出てきて「お米を作ったお百姓さんに感謝しましょう」と祈りを捧げる。この祈りが気に入って自宅に帰ってから真似てみたが3日しかもたなかったのは反省すべき点である。祈りを捧げたあと私は1日で20キロ近く歩いたのに全てが無駄になるくらい食欲が止まらなかった。配膳のおばさんに「良く食べるね」と笑われた。そして夜はお坊さんの説法がある。説法も眠気を誘うかと思ったが翌日の英気を養うような話ぶりで寝ずに済んだ。(余談ではあるがどこかの寺の納付所の方と話しているうちに新婚旅行で来たと話したら「新婚旅行で巡礼なんて聞いたことないよ」と驚かれた。そして次の寺まで10キロ歩き到着した途端ノートとペンとカメラを持った青年に声をかけられた「徳島新聞ですが・・・」私達はさっきの寺の人が電話したのかと思った。階段を上りながら取材を受け我々は日刊紙に登場したというわけである。)11番の寺をまわり今回の巡礼は終わった。12番はお遍路にとって最初の難関で「遍路ころがし」といわれている。徒歩6時間の難所だ。

11番寺の奥に階段があり「12番」と書いてある。「待っていろよ、来年行くからな」と看板に向かって私は話しかけた。ちょうどお坊さんがいたので記念撮影をした。こうして私達の最初の巡礼は終わった。2日でトータル35キロ。よく歩いたもんだ。途中では夫婦喧嘩(お遍路の格好での喧嘩は今考えると笑える)もしたが、全てがいい思い出になった。余談だが巡礼後は松山に寄り道したのだが、偶然おたふくわたの看板を見つけ涙が出てきた。以前おたふクラブに書いた事がある。 「これは巡礼のご褒美かな」なんて思ってしまった。私は帰京後、道に立ててあった看板を作っている、へんろみち保存協会にお礼の手紙を書いた。後日お返事が来た。宮崎建樹さんという方が一人で協会を作りボランティアで看板を作っているらしい。凄い人物がいるものだと感激した。 さて今年も秋になったら行こうと思う。今度はどんな巡礼になるのか楽しみだ。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年5月に執筆されたものです

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11.日本の今も昔も ~その2~ 運命の金剛杖が私を決意させた 四国八十八ヶ所霊場巡りが夫婦としてのスタートだった  ~前編~

いきなり話しておくが私と家内は昨年、徳島新聞の朝刊紙に写真付きで大きく出た。見出しはこうだ。 「新婚旅行は霊場巡り ~2人で目標達成できる~」 私も家内も新聞に出るのは計算外だった。記者にしてみれば東京から来た夫婦が新婚旅行として巡礼に来たというのはよほどインパクトがあったのだろう。しかし私たちにとってはとても意味のある旅行のはじまりだった。
家内と結婚をした時、新婚旅行の行き先はなかなか決まらなかった。その頃はアメリカがイラクに攻撃を始めたばかりでテロの警戒がかなり強まっていたし、SARSなんていう肺炎も世界のあちこちで流行していたので海外旅行は自粛ムードが強まっていた。
家内は学生時代や休暇にほとんど金を持たないで出かける海外旅行が大好きだった。とはいっても、メジャーなヨーロッパの国よりも大自然の多さが残っている海外に行くのが主だった。象やラクダに乗っている家内の写真は数え切れない。そんな家内は新婚旅行で「若い年齢じゃないと体力的に行けないから一度はアフリカに行きたい」と話していたのだ。何でもスケールの大きい事をするのが家内の魅力だが、アフリカ旅行は小さい頃から抱いていた夢だった。夢が実現できなかったのは可哀想だったが、さすがに家内も事情を分かっていたので、せめて国内で自然が沢山あるところに行こうと考えていた。
しかし有名な場所はシーズン中とあってどこも旅館は一杯、東北などにも魅力ある場所は多かったが「まだ雪が残っていて緑が見えないよ」などと旅館のご主人自らに言われて、行き先を悩んでいた。

私はその時旅行雑誌が沢山ある家内の実家にいたが、いい知恵が浮かんでこないので今日のところは早く帰って、途中で本屋さんに寄り旅行誌を買おうと思い、玄関で靴紐を結んでいた。するとその時!・・靴箱の上から一本の棒が落ちてきた。「あっあぶない」と義母がその棒を取り上げた。私は「その棒は何ですか」と聞くと「これはおばあちゃんが亡くなる前に四国八十八ヶ所巡礼にいったときの記念で持ってきた金剛杖というものなんですよ」と説明した。私はその時はじめて「八十八ヶ所」というものに興味を持ち、帰りの車内でもずっと頭から離れなかった。無言の私を見て家内が心配していた。私は思いっきり話してみた。「ねえ、どうもさっきからあの杖が風もないのに落ちてきたのが不思議で仕方ないんだが、もしかしておばあちゃんが巡礼にでも行きなさいといってるような気がしてならなんだよ」と笑いながら話すと家内は嬉しそうな顔をしていた。「私もいつか行きたいと思っていた」家内は大のおばあちゃん子だったと前から聞いていた。車内で話はとんとん拍子に決まり私たちは途中に寄った本屋さんで四国八十八ヶ所巡礼のガイドブックを購入した。一気に巡れるわけではないが毎年少しでもいいから行こうと決めた。

これから数年いや数十年かかるかもしれない。夫婦仲も変化している。それでもこの巡礼を目標にやっていこうと誓った。 寺の場所やコースの勉強、巡礼に対しての必要なアイテムなどを調べたが何よりも今まで無縁だった「私」と「八十八ヶ所」の距離を縮めるために、数日学習する時間が必要だった。私の浅い知識で恐縮だが、四国八十八ヶ所というのは弘法大師(空海)が自ら宗祖であった真言宗の修行のために42歳の時に四国で霊場を開き各地を歩いた。その道を後の弟子たちが辿り各地に八十八ヶ所の寺を完成させたと言われてる。人間には煩悩が八十八個あって巡礼を終えるとその煩悩が消えて願いが叶うというのが真意らしい。
ちなみに司馬遼太郎著書の「空海の風景」には唐から優秀の成績で日本へ帰ってきた空海は42歳の頃になると和歌山県の高野山で懸命に修行に励んでいたと言われている。事実はどうあれこの四国には伝説として弘法大師が歩いた道として江戸時代以降は大衆化し今では修行によってご利益があると信じられている。私と家内は日程を決めて数日間四国に行くことにした。2日間を巡礼の日にして残り2日間は松山あたりで温泉でもいこうと決めた。巡礼中は全て歩きでいこうと決意。「おい、お前が四国八十八ヶ所だって!?驚いたというか変わっているというか」という仲間の声を背に二人はいよいよ巡礼の旅へと出かけた。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年5月に執筆されたものです

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