九代目のひとりごと

11.日本の今も昔も ~その2~ 運命の金剛杖が私を決意させた 四国八十八ヶ所霊場巡りが夫婦としてのスタートだった  ~前編~

いきなり話しておくが私と家内は昨年、徳島新聞の朝刊紙に写真付きで大きく出た。見出しはこうだ。 「新婚旅行は霊場巡り ~2人で目標達成できる~」 私も家内も新聞に出るのは計算外だった。記者にしてみれば東京から来た夫婦が新婚旅行として巡礼に来たというのはよほどインパクトがあったのだろう。しかし私たちにとってはとても意味のある旅行のはじまりだった。
家内と結婚をした時、新婚旅行の行き先はなかなか決まらなかった。その頃はアメリカがイラクに攻撃を始めたばかりでテロの警戒がかなり強まっていたし、SARSなんていう肺炎も世界のあちこちで流行していたので海外旅行は自粛ムードが強まっていた。
家内は学生時代や休暇にほとんど金を持たないで出かける海外旅行が大好きだった。とはいっても、メジャーなヨーロッパの国よりも大自然の多さが残っている海外に行くのが主だった。象やラクダに乗っている家内の写真は数え切れない。そんな家内は新婚旅行で「若い年齢じゃないと体力的に行けないから一度はアフリカに行きたい」と話していたのだ。何でもスケールの大きい事をするのが家内の魅力だが、アフリカ旅行は小さい頃から抱いていた夢だった。夢が実現できなかったのは可哀想だったが、さすがに家内も事情を分かっていたので、せめて国内で自然が沢山あるところに行こうと考えていた。
しかし有名な場所はシーズン中とあってどこも旅館は一杯、東北などにも魅力ある場所は多かったが「まだ雪が残っていて緑が見えないよ」などと旅館のご主人自らに言われて、行き先を悩んでいた。

私はその時旅行雑誌が沢山ある家内の実家にいたが、いい知恵が浮かんでこないので今日のところは早く帰って、途中で本屋さんに寄り旅行誌を買おうと思い、玄関で靴紐を結んでいた。するとその時!・・靴箱の上から一本の棒が落ちてきた。「あっあぶない」と義母がその棒を取り上げた。私は「その棒は何ですか」と聞くと「これはおばあちゃんが亡くなる前に四国八十八ヶ所巡礼にいったときの記念で持ってきた金剛杖というものなんですよ」と説明した。私はその時はじめて「八十八ヶ所」というものに興味を持ち、帰りの車内でもずっと頭から離れなかった。無言の私を見て家内が心配していた。私は思いっきり話してみた。「ねえ、どうもさっきからあの杖が風もないのに落ちてきたのが不思議で仕方ないんだが、もしかしておばあちゃんが巡礼にでも行きなさいといってるような気がしてならなんだよ」と笑いながら話すと家内は嬉しそうな顔をしていた。「私もいつか行きたいと思っていた」家内は大のおばあちゃん子だったと前から聞いていた。車内で話はとんとん拍子に決まり私たちは途中に寄った本屋さんで四国八十八ヶ所巡礼のガイドブックを購入した。一気に巡れるわけではないが毎年少しでもいいから行こうと決めた。

これから数年いや数十年かかるかもしれない。夫婦仲も変化している。それでもこの巡礼を目標にやっていこうと誓った。 寺の場所やコースの勉強、巡礼に対しての必要なアイテムなどを調べたが何よりも今まで無縁だった「私」と「八十八ヶ所」の距離を縮めるために、数日学習する時間が必要だった。私の浅い知識で恐縮だが、四国八十八ヶ所というのは弘法大師(空海)が自ら宗祖であった真言宗の修行のために42歳の時に四国で霊場を開き各地を歩いた。その道を後の弟子たちが辿り各地に八十八ヶ所の寺を完成させたと言われてる。人間には煩悩が八十八個あって巡礼を終えるとその煩悩が消えて願いが叶うというのが真意らしい。
ちなみに司馬遼太郎著書の「空海の風景」には唐から優秀の成績で日本へ帰ってきた空海は42歳の頃になると和歌山県の高野山で懸命に修行に励んでいたと言われている。事実はどうあれこの四国には伝説として弘法大師が歩いた道として江戸時代以降は大衆化し今では修行によってご利益があると信じられている。私と家内は日程を決めて数日間四国に行くことにした。2日間を巡礼の日にして残り2日間は松山あたりで温泉でもいこうと決めた。巡礼中は全て歩きでいこうと決意。「おい、お前が四国八十八ヶ所だって!?驚いたというか変わっているというか」という仲間の声を背に二人はいよいよ巡礼の旅へと出かけた。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年5月に執筆されたものです

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