30.プレーパーク自由主義~ここで泥んこにならないでどうする!?~

お稽古より大事なものがある
息子はもうすぐで5歳になる。僕も姉も通っていた自宅近くの同じ幼稚園に現在通っている。幼稚園は同じでも僕が通っていたのは30年前、確かにその頃体験してきた内容と息子が習う内容はかなり異なる。それは幼児教育というより明らかに「受験」を目指した英才教育的内容になっているのだ。
うん、確かに来年年長になる息子の周辺が騒がしくなってきた。それは親も幼稚園もいわゆる「お受験」ムードになってきているのである。あの塾は先生が優しい、どこ先生のお稽古に通うと何々小学校に有利らしい、だれ先生の塾はあそことつながりが深い・・・だの毎日のようにお母さん方から情報が入ってくるらしい。僕も家内も私立の学校に通っていたし一応事情は分かる。私立の利点もある。でも日常の時間をつぶして塾に行かせるまでして有名小学校に行きたいかなあと夫婦で感じている。
幸い2人とも海外に2年ほど留学して国外以外の学校生活も体験しているし学校に対する価値観は似ている。それはエスカレーター形式で進学するよりも勉強して自分で切り拓くほうが克己心を生むという考えだ。それに僕は進学校にいたのに最終大学は偏差値表で下から数行目の大学に通っていた。勉強を全くしなかった(笑)
恐らく僕は代々の中ではワースト1位の学歴である。自信をもっていえる。ちなみに僕の父は飛び級で東京大学に進学している。
なので僕の息子はラッキーである。親父よりいい大学といっても僕は大学ランキングで下から2、3番目だからそれを超えれば全部親父越えになるのだ(笑)楽だよ君は。
だけど社会人をしていると官僚でない限りほとんど大学を聞かれることはないし大企業でない限り学閥もない。日本の9割が中小企業なのだ。学閥なんて気にしてたら稼げないよ。それでもこうして生きていけるし商売も出来るのだ。
家内も息子を見て多少学ぶ必要性は感じているがだからといって缶詰のように毎日塾やお稽古を1週間びっしりすることはしていない。むしろ自由にさせているほうだ。僕たちはそんなことよりもっと大事なことがあると思っている。それは「外遊び」だ。

1no30_01

えええ?夏休みに夏期講習に行く子もいたの?
そんなことかと思うなかれ、東京では外遊びをする子供を見ることが少なくなった。僕が小さいころは家の外に出れば冒険だった。いつものメンバーと近所の塀をよじ登ったり、空き地で野球をしたり、アスファルトにチョークで書いてけんけんぱをしたり、工事中の家に入ったりしていたものだ。しかし最近は物騒になり子供同士で遊ぶことが少なくなったし平日は先述の通り塾通いをしているので近所同士で遊ぶこともない。遊ぼうにも他人の塀にのぼれば叱られる。車の運転が荒く道路で遊べない。今の子供は塾から帰ればゲームに集中する。それじゃあどんどんもやしっこになる。
そこでかつて僕達がしていた遊びをどこかで体験できないかと見つけたのが「プレーパーク」である。休日は僕が、平日は家内が2人の子供を連れて行くようにしている。
プレーパークは各自治体が管理している子供の遊び場で機械で作ったいわゆる既存の遊具などは設置していないで子供がボランティアの人たちなどと手作りで遊具を作らせるのだ。そしてみんなで作ったお手製のすべり台やブランコ、ジャングルジムなどもあるのだが全て自分の責任で遊ぶということも教えているのだ。工具セットを借りて材木などで遊び道具を作ったりペンキを借りて塗ったりするのだが借りるのも返すのも親の手を借りずにさせるところも素晴らしい。

2no30_02
泥遊び、砂遊びなんでも
しろである

プレーパークにいると自分の幼少の頃に近い遊びをしている。鬼ごっこや冒険ごっこ、木工や水遊び、皆が楽しそうな顔をしている。そこにはインターネットやDVDやゲームが全く存在しない空間。子供たちは精一杯遊んで汚れて帰ってくる。
そういえば最近、泥んこになる子供が少ないという。子供自身も嫌がるし何より驚いたのはおしゃれして公園に来たお母さん方が汚れたくないという理由で子供に砂場などに入れることを禁じるそうだ。何じゃそれはーーー?である。汚れたくないならカプセルの中で暮らせといいたい。
お父さんなども平日の仕事でへとへとの週末に子供と遊ぶ体力がないので公園に行って子供を勝手に遊ばせておいてメールをしているという。週末こそ自分がリーダーとなり童心に返り本気で遊ぶべきである。子供に尊敬の眼差しで見られるせっかくの機会なのにもったいないなあ。
僕はプレーパークへ行くと本気になってしまう。童心に帰り自分も真剣になった子供と遊んでいる。先日も息子と大好きなウルトラ警備隊のバズーカーを作った。
とんかちで釘を打ったり、木工ボンドをつかったり最後はペンキで塗り上げた。木工ボンドの使い方、よそ見をすればとんかちで指を打つこと、ペンキもうまく塗らないと指に沢山ついてしまう。そういう点に注意しながらで作ることが子供にとって大事だし覚えていくんだと思う。

3no30_03
脱着式のバスーカー(笑)
単純だが息子は大事にしている

このバスーカーはおもちゃメーカーで立派なものを売っているのだ。しかし手作りで作れば達成感を味わえるし父親を博士のような目で見てもらえるのだ。息子は今でも大事に使ってくれる。おもちゃよりもストーリーがあるのだ。それは親と作ったおもちゃだからだ。特に夏休みにはプレーパークやサイクリング、海や牧場などにも連れて行った。
一部の幼稚園のお友達は受験の夏期講習に行っていたらしい。ええまだ4歳でしょ?子供も頭脳疲労になってこないかなあ。

2学期を過ごしてから園長先生に「夏休みの後から明るくて活発になった。」と言われたらしい。家内は夏休み期間中にこういった自然と向き合せてきただけなのだ。
子供にとって大事なことはペーパーテストではなく砂場や泥んこ遊びやプレーパークのルールなどではないか。友人の医者は「ひざを見れば分かる」と言っていた。
それは幼少でも沢山走ったり歩いている子の膝と運動していない子の膝は一目瞭然らしい。「自由主義」こそ子供の一番大事な教育だと思う。自分で考えさせることが大事だ。
体力がある、環境に慣れる、ルールを守る、調和を保つことはプレーパークでも学び大人になっても必要なこと。小学校の受験問題は社会人になって一度も経験していない。
基本をもう一度僕達は知る必要がある。
今年も沢山の人にコラムを読んでいただきました。ありがとうございました。
思えば復活する前から書き続け今年で7年目になりました。自画自賛ですが良くもまあここまで続けて書けたものです。
来年は少しスタイルを変えたコラムを書いてみたいと思います。皆様も良い年をお迎えください。
次回をお楽しみに!

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年10月に執筆されたものです

[add_pager]

29.催事感動物語~催事の主役は僕らやバイヤーではなくお客様と販売員だ!~

日本橋交差点で歩きながら泣いた
いやあ嬉しい。今年はおたふくわたが復活して過去最高の催事数である。すでに8店舗で開催させて頂いた。新着情報にもご案内しているが年内あと3つ催事が予定されている。以前ここのコラムでhttp://otafukuwata.com/wp/?p=410書いたが実はここに書いた有名百貨店とは「髙島屋」の事である。この時は商談が実現出来るとは思っていなかったが昨年秋、いつものようにNバイヤーに会いに行ったとき突然、僕の顔を見て「一回ぐらいやってみるか。おたふくわたの催事を。数字は大して期待していないから(苦笑)とにかくやってみなよ」と言ってきたのだ。心底から感情があふれんばかりに嬉しかった・・・。バイヤーに帰り際「あなたの情熱に負けたよ。」と一言言われた時、僕は足が震えていたのを覚えている。
コラムでは明るく前向きに書いていたけど、2年間、先の見えない商談を続けていた僕は取引が実現したことで継続することの大切さを痛感した。あきらめずに続けること。
昨年、横浜髙島屋の催事が決まったとき僕は日本橋の交差点で人目憚らず泣きながら家内に電話をした。嬉しさで義父にも義兄にも母にも電話をした。いやあいい歳して感情はガキのままである。
催事1回目の店舗は昨年11月の横浜髙島屋である。開催は1週間行われたが突然のおたふくわたの登場に売場もお客様も驚いた表情だった。開催して数日間はどうしようもないぐらい売れなかった。だが最終日が近づくと不思議と売れ出した。お客様は初日から様子を見ているのだ。そして考えた末にもう一度足を運んで買ってくださるのだ。有難いことである。
昨年、横浜髙島屋で予想以上に販売できたことで僕は多少自信を持てた。木綿ふとんは根強い人気があることを知ったのだ。今までも催事はあったが横浜髙島屋は九州と違いおたふくわたの知名度が高くない。それでも結果的に健闘した。だからこのような厳しい条件の中で1週間立って僕は色々なことを学んだ。僕も社員もその経験のおかげで、他の百貨店やショップの担当者に会うとき前向きに催事について話せるようになった。だから今年は過去最多の数になったのだろう。横浜髙島屋の催事はおたふくわたにとって大きな転換期だった。それは営業で肝要なことは「現場で売ること」だということ。
通販でもインターネットでもふとんを購入することは出来るがそれは僕達が売場に立って販売することが前提に成り立つ。お客様の顔を直接見て売ることが1番大事である。この感覚を学ばないと机に向かってどんな企画をしてもふとんは1枚も売れない。今年は催事を沢山開催させていただいたことで不思議と通販の商談も伸びているのだ。

催事で驚かれること
実際やってみて分かったが催事は本当に奥が深い。毎回立っている度に疲労困憊になり「もう2度と催事はやらない」と思い、催事が終わって1週間もすればまた社員と催事開催の企画であちこちに売り込みにいっているのだ(笑)実際は好きで仕方がないのだろう。
催事はお客様から直接声を聞ける。綿ふとんが好きな人はもちろん、ふとんに全く興味を持っていない人が通りがかりにさり気なく言う一言も僕らには貴重である。換言すれば「無料で体験できるマーケティングリサーチ」だと思う。

1no29_01
野原さんが作り、僕(左端)がお客様と話す光景

2no29_02
野原さんはどんなに人数が少なくても
手を抜かず懸命に作る、
だからまた声がかかるのだ。

当社の誰かが催事開催中ほぼ開店から閉店近くまで1名売場で立っている。
「木綿ふとん、欲しかったのよ!ああ嬉しい」といってご購入くださるのかと思うとすっと去っていくお客様、しつこそうな販売員(僕のこと)に引っかかったという怪訝な顔をしながら帰り際に突然「1枚ください」というお客様、小走りに来て数秒以内に購入するお客様、寝具マイスターの野原氏の実演に感激して購入くださるお客様、数日後にキャンセルをするお客様などなど・・・1週間で様々なお客と出会える。営業に「パターン」はない。本当に意外なところでNGになったり売れたりする。この体験は何百回やっても読みきれないものだと思う。1億人も人口がいれば1億パターンあると考えていい。だから僕は来年も声がかかれば催事をどんどんしたいと思う。
ところで最近売場の販売員の方に教えてもらったのだが、催事で1週間丸々メーカーの人間が出るのはめずらしいと聞いた。大体寝具売場の催事は出るメーカーが決まっているのだが来ても1日売上の状況を聞きに来たり週末の実演会などで立会いしている程度だそうである。開店から閉店まで立っているのは僕らぐらいらしい(笑)暇人ということか。

まだ世の中捨てたもんじゃないよ!
しかしこのスタイルが売場の販売員の皆さんに受け入れてもらえるのだ。1日繁忙時間というのは大概決まっていて12時ぐらいから15時ぐらいがピークなのだが僕らは暇な時間帯でもずっと立っている。だから販売員の皆さんが「頑張ってるね」「休憩にいけば?」
「手伝いましょうか」と沢山声を掛けてくださるのだ。数日経つとお客様を誘導してくださるようになる。
最近もこういう体験があった。野原さんの実演会があったある日曜日、同じフロアで人気料理研究家のトークショーと料理実演のイベント時間が微妙に重なったのだ。あちらは15時でこちらは14時半、僕はお客様がほとんどその人気料理家に行くことを覚悟していた。TVに良く出ている人なので実演会場の前には沢山の椅子が用意されていた。売場のマネージャーもそちらの対応に追われていて話をする余裕もなかった。僕一人だったら何てことはないのだが不安になったのはわざわざ野原さんが片道3時間で来てくださり、しかも普段中々見ることが出来ないふとん作りをしてもらえるのにお客様がゼロだったら野原さんのこつこつとふとんを作る姿が悲しく思えてきてしまうからだ。いや大げさに書いているのではない。あの場所では本当にゼロもありえたのだ。でもそれでもいい、僕は前向きに考えた。野原さんには悪いことをしてしまったが今後催事をするときは同じフロアのイベントも全て知れということをその場で学んだのだ。
僕が申し訳なさそうに「誰もいませんが・・始めてください」と言うと野原さんは嫌な顔一つせず、むしろ笑顔で「原田さんの為の勉強会ということにしましょう」と言って淡々と作りはじめた。
しかし・・・野原さんが作ってから数分してから人がぽつぽつと目の前に現れ始めた。
最初はなんと僕が大学時代にお世話になった教授が家族を連れて来てくださった。
ええ、催事をする前にメールしたのだが覚えてくださっていたのだ。嬉しいなあ。ところが・・気がつけば数十人になっていた。驚いた僕は人の流れを見て驚いた。なんとエスカレーターのそばで女性の販売員が一人ひとりのお客様に声をかけて僕達の場所を誘導しているのだった。「あちらで懐かしい綿ふとんの実演をしていますよ、あちらのトークショーの前に少しでもご覧になられてはいかがですかあ、めったに見ることが出来ないですよお」と言っていた。感動屋さんの僕はまた涙腺がゆるくなりはじめていた。驚いたのは見てくださっていたお客様の半数がトークショーにいかずそのまま野原さんのふとん完成を見続けてくださっていたのだ。そしてふとんが完成すると自然と拍手が起きたのだ。そして数人の方がはんてんやふとんをご購入くださった。こんなシーンめったに見ることが出来ない、感動の実演会だった。

3no29_03
2人から3人、一時は30人に。最後は15人ぐらいが残ってくださっていた。

僕は実演が終わってから呼び込みをしてくださった販売員に御礼を述べた。売場担当が違うので1週間の催事で一度も話したことがない方だった。
「だってね料理は本で見たりすればいいけど(笑)。ふとんを作る貴重な姿を見せずに終わるなんてもったいないじゃない。前日もあの方(野原氏)は少ないお客様の中で一生懸命作られていたのよ。私も昨日の実演を見てこれは芸術だと思ったのよ(笑)だからお客様に声をかけたの」僕は何度も頭を下げて御礼した。
こういうことが度々起きるからやっぱり催事は止められないのだ。
催事が終わっても僕は各百貨店などに定期訪問している。ある百貨店では僕の顔がタレントの小堺一幾さんに似ているというので「あっ小堺君が来たわ」とあだ名までつけられている。あだ名はどうあれ、とにかく販売員の方々に僕達の顔を覚えてもらうことが大事だ。お客様から「綿ふとん」や「打ち直し」の問い合わせがあれば売場の皆さんは「あっ小堺君に聞いてみよう」となるからだ。
催事の主役はつまりお客様と販売員の皆さんということである。
次回は「プレーパーク自由主義」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年9月に執筆されたものです

[add_pager]

28.腰痛ピンチ!おたふく助けて!~超快適と腰痛・・・・ 弊社のふとんをこれからどうする~

1no28_01
1年以内にへたる

「最高の寝心地」と「腰痛」
5年前に僕はおたふくわたブランドを復活した。おかげさまで多くの方々が手づくりの綿ふとんを買ってくださった。5年が経過したのでそろそろ打ち直しの要望も出てきた。
復活してから3年ぐらいまではお客様にアンケートなどを取ってふとんの状況をこまめに聞いてきた。しかし最近ではそれをすることが出来なくなっている。打ち直しの目安であり復活5年目の今こそ聞かなければいけないのでは。そう感じている。
当社のふとん打ち直しを考えてくださっているのか、それとも木綿ふとんに懲りて新しい商品を購入しているのか、色々不安になってくる。特に敷ふとんが顕著に出てくる。敷きにはインド綿を入れている。インド綿は太い繊維でコシがあるのだがへたりやすい。しかしそれ以上はへたらず何とも言えないぺちゃんこ感がある。ポリエステル綿を入れてないのでもちろんカサが出にくいしインドに限らず昔から敷ふとんはこのように短繊維の綿を入れているのでせんべいふとんと言われる所以である。昭和初期の頃は国内の綿を使用していたが日本の綿もインドに似て繊維が短くコシがあった綿であった(綿のルーツもインド方面に近いのでそうなのであろう)だから昔は2枚敷きで寝ている方が多かった。
へたることを知っていたのでそうしていたのだ。確かに2枚で寝ていればあまり日に干さなくても長い間新品の1枚敷と同じぐらいの厚さで寝ることが出来る。

2no28_02

実は購入してくださったお客様の中でよくご贔屓にしてくださる方や共通の趣味などがあってプライベートでも親しくさせていただいている方々が何人かいらっしゃる。ふとんについては本音で感想を言っていただくのだが「最高に寝心地が良くて素晴らしい!」と恥ずかしいぐらいお褒めの言葉を言ってくださる方と「木綿のぺちゃんこに慣れていないせいか腰が痛くて」という方もいた。
僕は復活する前から純綿でふとんを作ると腰痛になる人がいると聞いていた。しかしこれは何も木綿ふとんに限ったことでなない。換言すれば木綿ふとんで寝ていた人がベット、マットレス、低反発に慣れていない人がそれらに寝たら腰痛になったというご意見も聞く。
つまり長年使ってきたふとんを変えれば当然体もそれに慣れていないので驚くのだ。
木綿ふとんに慣れていない人は確かに驚くだろう。購入時はあんなにカサがあったのにみるみるうちにせんべいふとんになるからだ。しかし僕はそれでも木綿ふとんで腰痛になったという人を少しでもゼロにしていきたいのだ。

3no28_03
インド視察は僕の木綿ふとん論に
多大な影響を与えた

日干しとストレッチ
実は僕は数年前ぎっくり腰になったことがある。ぎっくり腰は確かに癖になる。
それからというもの少しでもその予兆があると動きがつらくなるのだ。中学、高校時代とラグビーをしていて、大学に入ってから現在まで週に2~3回は早朝または深夜ジョギングとウェイトトレーニングを欠かさずしているのだがトレーニングのスクワットをした次の日に当時2歳の息子を抱いた瞬間襲ったのだ。スクワットは最近ではかなり重さを抑えているが当時は100キロ前後でやっていた。
だから寝る前はストレッチをしているようにしている。するしないでは翌朝の状態が全然違う。僕はもう何年もぺちゃんこの木綿ふとんで寝ているが自分の慣れたふとん以外で寝るとストレッチをしても中々寝付けない。自分の商品を自賛しているのではなくやはり慣れというものがあるから体を管理することで少しづつ改善できるのではないかと考えるのだ。
木綿ふとんだけではなく新しい商品を購入して腰痛になった時、試しに自分に合うストレッチをしてみてほしい(方法は専門ではないのでご勘弁を)就寝前にそれをすれば多少は改善できないではないだろうか。それでも解決しない場合は相談するべきだろう。
僕は週に1度しか干さない、あまりふかふかのふとんが好きではない。枕もそば殻を使っている。ホテルに良くあるふかふかの枕と羽毛ふとんなどはどうも寝付けない。だから自分の家のぺちゃんこ綿ふとんが好きで仕方ないのだ。
木綿ふとんを購入される方で特に敷きふとんの方には僕は「ぺちゃんこになります」と話している。だから2枚敷きや打ち直しについてもなるべく説明するようにしている。
そして木綿ふとんが好きな方には2つのタイプがいらっしゃる事も話す。
日に干してふかふかになるのが好きな方、僕みたいにあまり日干しせずぺちゃんこが好きな方、だからタイプを聞いておかないと最高の寝心地が腰痛になる場合もあるのだ。
しかし木綿ふとんは奥が深い、僕はまだまだ研究の余地があると考えている。だから僕は死ぬまで木綿ふとんについて考えて動いていくだろう。どうしたら好きな人が全員満足してもらえるか。頻繁に日に干さなくてもカサが出る、へたりにくい、打ち直しの時期が延ばせる、そして年配の方々が楽に持てるほど軽い。
色々木綿ふとんについて考えるときどうしてもポリエステルの話が出てくる。ポリエステルを混ぜたほうがいいとアドバイスをしていただく方も多い。
確かにポリエステルを混ぜるとカサも出て、配合率によっては純綿より安定感があるのだ。それは認める。しかし僕はどうしてもそれをしたくない。例え数パーセント混ぜても純綿ではなくなるからだ、偏屈と言われるかもしれないが僕は江戸時代から続く木綿ふとんをさらに完成度の高いものにしていきたい。
だから僕の中でこれからもポリエステルを入れることはありえないのだ。僕にとっては江戸時代にポリエステルを入れていたの?ということになる。
確かにお客様のニーズや時代を考えたという点ではすばらしい繊維である。軽いしカサも出るし、便利な繊維である。

だが催事などで立っているとお客様のほとんどが「綿100%なの?」「混ぜていないわよね?」と聞いてくる。ありがたいことに純綿100%が好きなお客様はまだ多いのだ。それは僕にとって本当に励みになるのだ。
今、考えていること。
僕は数年かかるかもしれないがどうやれば軽い綿を作れるか、そしてカサが保てていけるか必死に考えている。そしてへたった後、例えばミニざぶとんのようなものを作りそれをふとんの腰部分の下に敷くとか穴あきの敷きふとんを作りその穴にざぶとんを交換して入れられるとか、対策を考えている。
持論だが僕は手がかかるほどいい人生を送れると思っている。育児でも趣味の車でもうちの猫でも。手がかかるほど愛着を持ち、そして癒してくれる。木綿ふとんもそうだと思う。干さなきゃならないし、重いし、出し入れしなければいけないし、しかも数年経てば打ち直しをしなければいけない。
しかしだからこそ干した後の香ばしい匂い、そしてふっくらしてくれる、打ち直しから戻ってきたときのあの喜び、また不要になれば捨てずにざぶとんやはんてんなどに作り直す。私たちの先祖はモノを大事にして、木綿ふとんに愛着を持ってくださっていたのだ。
愛着を持てるふとんなんて木綿ふとんだけだと言いたい(笑)
だからといって高齢者に重くて不便さを感じてもらうのは辛い、だから僕は毎日毎日悩みながら最高の木綿ふとんとはどういうものか考えている。時間はかかるかもしれないが自分の完璧な木綿ふとんを作り上げたい。純綿なのに軽くて、カサがあり、コシがあり、やさしい綿ふとんを。
次回は「催事感動物語」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年7月に執筆されたものです

[add_pager]

27.小学校ブーム~親友だった歌舞伎俳優F君との再会・・・・~

10年前の悲しい再会
 一昨年の正月にF君と小学校の卒業以来2度目の再会をした。彼は大人気の歌舞伎俳優である。しかし僕は小学校1年から彼と本当に親しかったので今でも「有名人」という感じがあまりしない。しょっちゅうテレビに出ていたり舞台に出ていたりしているが同級生というイメージが強すぎて「あいつも頑張っているなあ」という程度である。

 最初の再会は今から約年前。20代半ばの頃である。三越劇場で彼が主役の舞台がありそれをたまたま何かのチラシで知りなぜか急に会いたくなり観に行った。僕は前の会社で営業マンとして上司や取引先から毎日鍛えられていた時期で毎日が刺激的だったのだが彼に会って僕も元気に頑張っている姿を見せたかったのかもしれない。

小学校の頃から実に15年ぶりの再会だった。楽屋で会った瞬間、懐かしくてお互い感激して握手をした。しかし・・・絶え間なくマスコミや客が楽屋外で並んでいたのでたった数分しか話せなかった。あの別れ方は今でも良く覚えている。僕の記憶は「小学校の親友」のままだが環境が変わり彼はもはや遠くに存在してしまったような気がした。当時の事務所スタッフに促されて僕は楽屋を出た。悲しい再会だった。ああ彼にとってはあの頃は単純な過去なんだなあと思いながら帰路についた。こんな悲しい気持ちになるなら会わないほうが良かったとさえ思っていた。

 しかし2年前に再会したときはそうではなかった。それは父が生きている頃から40年以上も親しくさせて頂いているご近所の歌舞伎俳優Sさんが主演している歌舞伎を正月に家内と2人で観にいった時のこと。その芝居にたまたまF君が出ていてSさんがいる楽屋の2部屋先ぐらいに彼の楽屋があった。僕は年前の事を思い出し、さらに彼との距離を感じてしまうのも何となく嫌だったので再会はやめておいた方がいいだろうと思った。家内は僕がF君と同級生であることは知っていたが年前の再会について話したら呆れた顔で「小学校時代の親友だったんでしょ?年前も今もF君は多忙極まりないから仕方ないじゃない。びくびくしていないで堂々と行きなさいよ!」と背中を押されて僕は入り口まで行った。突然の訪問に入口にいた事務所の女性の方が驚いた様子だったが彼は休憩中で不在だと言い一応名前だけ伝えておいた。そして僕達夫婦は席についた。

1部が終わり休憩で席を立とうとした時、さきほどの女性が小走りで僕らの横に来た。「芝居が終わったらぜひ会いたいそうなので楽屋に来てください!」家内は僕に「それみたことか」という顔をしていた。ふうん君のおかげだよ、でもまたすぐ帰ることになるよ。と僕はネガティブに答えた。

1no27_01

というわけで2回目の彼との再会。来客も何組かいたが最後に私達夫婦を案内してくれた。もしかすると彼は10年前の事を覚えていたのか。
「おお、やっぱり原田はいつまでたってもあのままだ。」と彼はまた握手をしてきた。化粧を落としながら彼は僕の近況を色々聞いてきた。考えてみれば1回目の再会と環境が変わり、お互い結婚し、同世代の子供も持ち、僕は家業を継ぎ偉大な先代を超えようと日々活動している・・・以前と比べ彼とはそれなりに共通点が増えていた。前回と違い楽屋でゆっくりと話せる事が出来た。彼から次回の芝居を招待され連絡先の名刺や携帯電話もくれた。

2no27_02
写真でもいつも
横にいた・・

いつも一緒にいた
ぴかぴかの小学1年生の時、同じクラスで最初に仲良くしたのがF君だった。まだ彼は舞台デビューもしていなかったしもちろん有名歌舞伎俳優の息子だなんて事も知らない純粋な出会いだった。僕達はいつもいつも一緒にいたのだ。彼が舞台に出るようになっても下校後に彼と歌舞伎座に行き花道や舞台裏をきゃっきゃっと言いながら走り回っていた。学校で毎日会うのに電話でも長く話したりしていた。僕が通うピアノ教室なんかにも彼はついてきたりしていた。お互いの自宅に呼び合うことも多かった。
彼と下校時にバスに乗ると年配の人たちが彼であることに気が付き声を掛けてきたり近寄ってくる、またハンサムな彼に同世代の少女達が近寄ってくる、僕はまるでボディーガードのように彼の前に立ち守っていた(笑)よくコンパで美女の横にぴったりくっついいているコワモテの女性がいるがあんな感じだ。
彼が乗り換える「青山一丁目」というバス停で一緒に降りて青山ツインタワー裏にある滝が見えるテラスに座り長い時間話していた。色々思い出があるがあのテラスで一緒にいたことが一番良く覚えている。

 だが6年生の頃、僕らの関係に距離が出来た。彼は真面目で努力家だったので勉強も良く出来た。歌舞伎があるのでしょっちゅう早退していたにも関わらず成績が抜群に良かった。僕は3年生の終わりに大好きだった父が死にそれ以来全く勉強しなくなり、少し荒れていた。F君とはそれでも仲が良かったが5年生の終わりごろから彼は歌舞伎の出演も増え一緒に下校することが自然と減りさらに僕は悪ガキ軍団と遊ぶようになっていたから彼と遊ぶこともめっきり少なくなった。6年生の頃そのまま同じ系列の中学に進学できるよう皆必死に勉強していたが僕は悪フザケにはまり結果、進学も出来ず(笑)とうとう卒業後は姉妹校の全寮制の学校に行った。卒業前にサイン帳に皆にコメントを書いてもらったが彼の文章を見て涙が出た。それはたわいもない文だけど僕はやっぱり彼が大好きだったんだとその時思った。しかし彼との交流はそれ以降なくなった。
2年前に再会した後、彼に招待され渋谷の大きな劇場に芝居を観にいった。入口には奥様がいた。初めてお会いしたが開口一番、うちの家内に向かって「2人は恋人だったみたいですね(笑)。主人も原田さんと再会したことが嬉しかったみたいです。」と話してきた。
恋人かあ・・・そう来たか・・。僕も笑ってしまった。
人気脚本家が書いた芝居とあって若い女性で席は埋め尽くされていた。子供を母に預け久しぶりに芝居を夫婦で見たが、お世辞抜きで面白かった。芝居の後、カーテンコールの時に僕はひとりだけ席を立ち上がって拍手をした。その時、主役の彼は舞台から僕に向かって指を指して親指を立てた。周りのお客達は少し驚いていた。そうだね、これじゃホント恋人だ(笑)粋なことするね。
 後日、芝居の後に彼と2人で飲みに行った。帽子を深く被って歩いていても、店に入っても「あれ?」と一般人に驚いた顔をされる。僕は席につくと「おい、また小学校の頃のように俺がお前の前に立とうか?」と言ったら彼は苦笑していた。それから数時間話し込んだ。懐かしい話やこれからの夢・・・「もう一杯飲む?」と僕が聞くと彼は一瞬悩み、そして「帰ろうっか」と言った。時計は夜中の1時を過ぎていた。そうだ小学校の時も「もう少し話そうよ」「駄目だよ、お稽古遅れるよ」と言って彼は帰った。同じだ(笑)彼は翌日も舞台があるしこの芝居は結構体を動かす。うんあきらめよう。僕たちはそれで別れた。
 その後、F君とは頻繁にメールをするようになった。彼が歌舞伎座で公演している時で僕が銀座で商談がある時は楽屋に行って話しを少ししに行くこともある。たまに夜遅くに電話が来ることもある。まだ彼と再会して2年ぐらいだが、彼は僕の数百倍忙しいからあまり会えないけれど電話は良くくれる。先日も彼に招待されて芝居を観にいったが偉そうに僕はメールで意見を書いた。
家族構成も子供の世代も偶然同じだから面白い。僕の息子もいつか彼の息子と追い掛け回すような仲になるのかなあ。近いうちに家族で会う予定だ。彼の頑張りを見ていると僕はまだまだ頑張らなきゃと思う。僕がいまどういう仕事をしているか、彼も良く知っているから商談が決まったり新聞やテレビ、ラジオに出るときもメールで応援してくれる。歌舞伎俳優とビジネスマン・・・お互いナンバーワンになろうね。僕も君ぐらい有名になってみせるよ(笑)。だから今日も綿ふとんを研究しそして多くの人が買ってくれるように頑張ろう。
そういえば彼は「原田は本名で呼んでくれる唯一の友達だ」と携帯電話の留守電に入れていたね。そうかあ・・・確かに周りから見れば彼は「有名歌舞伎俳優○△さん」なんだよね。もう彼を本名で呼ぶ人はあまりいないのかもしれないね。
案外、彼は僕にメールや電話をしていることで青山一丁目のあのテラスに一瞬戻ろうとしているのかなあ。今回のコラムは彼への恋文だ(笑)
次回は「腰痛ピンチ!おたふく助けて!」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年6月に執筆されたものです

[add_pager]

26.田舎マニア~突然週末に息子と田舎に行く癖がついてきた~

突然家内に「田舎に行く!」
僕は運命で社長になってしまった。社長の器じゃない。全然器じゃない。しかもあまり頭がよろしくない。朝礼暮改の連発、思いつき症候群、猪突猛進、自己PR大好き、落ち着きがない・・・社員がうまくまとめてくれているから順調だがいやあ本当に僕は指導者タイプじゃないんだよなあ。どちらかというと適当に部下もいる、何か大事発生すれば上司に頼れちゃうような立場・・係長とかぐらいがちょうどいいんだろうと思う。しかしまあそうも言ってられない。とにかく明るくバイタリティあふれる毎日を過ごすようにして会社を盛り上げようとしている。会社ではやはり「明るさ」が1番必要だ。それが僕の唯一の取り柄。僕が毎日こうして活動的でいられるのは、週末や休日に気分転換をしているからではないかと思う。ある時は家にあるレコードを回してDJをしたり、オペラの練習と言いながら大声を出したり、家族でサイクリングに行ったり、ジョギングやトレーニングをしているのもそう、、その僕が気分転換で特にはまっているのが年に数回、突然息子を連れて田舎に行く癖がある。これが楽しみで仕方がないのだ。
この前も突然「蛍を見に行く」といって家内と娘を置いて息子2人で新潟の魚沼まで出かけた。実は数年前に魚沼の田舎体験ツアーに参加していたのだがそこで知り合った現地の農協のKさんと仲良くなり連絡して行くようになったのだ。土曜の朝に出発、午後に着きおいしい空気を吸って魚沼産のコシヒカリを沢山食べて民宿に泊まり朝は散歩したりして昼前に東京に戻るのだ。

1no26_01
小さく白いのが蛍2、3匹見える

蛍は感動した!
その日の朝、4歳の息子に「蛍見にいくよ!準備して!」と言い彼は一瞬きょとんとするが僕と出かけることを喜んでくれて背中にリュックを背負いホイホイとついていくる。彼にしてみたらいつも僕と出かけるときは冒険のような気分なのだろう。そして現地に到着していつもお世話になるKさんの事務所に行き、挨拶を済ませ隣接している公民館の体育館で息子とかけっこやサッカーなどをした。そして外に出て大きな山を見せてしばらく散歩をした。デパートやマンション、ビルがそびえたち、人がごちゃごちゃ歩いている町の中で暮らす息子にとっては田畑の周りを歩くだけでも面白いのだ。
そして夕方には民宿に行き大浴場で遊び、コシヒカリのごはんをたらふく食べてKさんが車で迎えに来てくれた。蛍を見に行く場所まで連れて行ってくれたのだがこの日は屋台も出ていて沢山の人が見に来ていた。オスの蛍がメスの蛍を探すために飛び続けているのその姿、一生懸命お尻を光らせて飛んでいる。「東京で蛍見学会とかあるでしょ?多くの蛍を買ってきて放しているでしょ。あれは本来の姿じゃないよね。こういう田舎で飛んでいるこの数こそ自然の姿なのにねえ。東京から来た人であの光景を見慣れている人はえっ?これしか飛んでないのと言ってくるんだよね。」とKさんは言っていた。うん、確かに沢山飛んでいない。でもこれが自然でありその光点の少なさがより美しく貴重に感じる。縁日の屋台で買ったポップコーンを食べていたら「もっと人が少ないスペシャルスポット行きましょう」とKさんは言ってきた。

そして車で20分、そこは真っ暗な田んぼのど真ん中だった。降りた瞬間、足が止まった。田んぼにさっきのようにちらちらと蛍が飛んでいるではないか!蛍の数は少なくてもあちこちの田んぼに飛んでいる光景は幻想的な美しさだった。そしてKさんに教えてもらい蛍が案外簡単に手で取れることが分かった。人が全然いないから仕切りロープもないのですぐそばの蛍がつかめたのだ。息子も初めて蛍の正体を間近で見れたので興奮していた。光が飛んでいるんじゃないよ。虫のお尻が光らせて下の方で止まっているメスを探しているんだよと説明した。
Kさんに御礼を言って民宿に帰った。ベープがあるのに蚊が飛んでいる。東京だとあんんなに嫌な蚊の音だがここへ来るとその音も何か癒されてるような気になってしまう。
翌朝、息子と僕は朝食前に民宿のまん前にある川に行った。雨が降っていたので流れが少々速かったが息子と岸までいき川を見せた。そして釣堀にいる魚を見せ、餌お与えている姿や魚をさばいている姿などを見せた。朝食も沢山食べた。いやあ凄く田舎は好きだ。息子に音痴ながらも「夏は来ぬ」や「カラスなぜ鳴くの」などを歌うにはちょうどいい情景だ。歌を聴きながらそのシーンを直に見れる。東京じゃ無理だ。

2no26_02
雨により川の流れが激しい。釣った魚の口に串を入れている

僕には田舎がない。先祖代々博多や飯塚の生まれではあるが祖父祖母がいない現在、行く場所がない。だから僕はここ数年間魚沼に行くようにしている。僕にとっては何となく田舎帰り疑似体験だと思う。Kさんは遠い親戚のような関係になってきた。今度Kさんの家にいくことにもなった。

3no26_03
早朝の釣堀では水霧が出ていた。右奥が泊まった民宿

魚沼を出発し僕は小千谷市片貝町に寄った。「おたふくわた匠」の生地、片貝木綿でお世話になっている紺仁の十二代目・松井社長に会いに行ったのだ。6月初旬に東京でお会いしているからすぐの再会だが息子に生地の産地を見せたかったのだ。なかなかいい体験だった。そして社長におすすめの蕎麦屋を教えてもらい東京に戻ってきた。民宿は安いし移動費も安い。東京だったら夜のレストラン代でふっとんでしまう。
お盆休みにはそば作り体験をさせるつもりだ。そして秋には恒例の稲刈りだ。僕はこの稲刈を息子に体験させてなかったら彼はしばらく先まで毎日食べている白いごはんがどのようにして作られているか知らないまま食事をしていたはずだ。白いごはん一粒を育てるのにいかに大変かを教えればごはんを残したりはしない。
と親らしい事を書いているが米作りから何まで一番感銘を受けたのが実はこの僕なの
だが・・・・
次回は「小学校ブーム」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年5月に執筆されたものです

[add_pager]

25.妄想議員!~「立候補してくれないか?」 バカをからかわないでくださいよ~・・・~

1no25_01

眉唾の政治家立候補話。
それは数年間のこと。僕はある選挙がはじまる半年ぐらい前にある有名な人物A氏に呼ばれた。最初の出会いは仕事でお世話になっているB氏から、とあるパーティーにご招待頂きその時に来賓のA氏を紹介いただいた。A氏との名刺交換の際に「おたふくわた」ブランドを懐かしがってくださりこちらから説明するまでもなくホーロー看板や綿ふとんを手伝わされたという思い出話を熱い口調で話してくださった。確かにA氏の仕事柄、私のような業種の人間とお会いするのはめずらしいのだろう、秘書に促されるまで長い時間私の前に立って話されていた。しかしやはりプロ、相当の聞き上手の方だ。
それがきっかけで厚顔無恥の僕はA氏のオフィスに良く行くようになった。というのも私が良く訪問する大事な取引先のルートの途中にA氏のオフィスは位置しており会社を早めに出たときは多忙極まりないA氏の不在を承知でアポなし訪問することが度々あるのだが、極まれに、オフィスにいらっしゃることもありその時でも嫌な顔一つ見せず私を応接室に招き入れ忙中でも少しだけ世間話をしてくださる。
「俺はあんたみたいな情熱のある若造が好きなんだよ。これからも頼むぞ」小柄でどちらかというと痩せ型のA氏だが表情や体の底から出ているような声はさすがと思わせる雰囲気を持っている。これがオーラなのだろう。
そのA氏がある時、僕を呼び出した。ふとんの環境問題や小売店の閉店が年々増加していること、職人の高齢化、後継者問題についても色々聞いてきた。いつもより突っ込んだ質問をしてくるなあと内心思いながらも僕は質問に対し一つ一つ熱くそして真剣に答えていた。A氏は一通り私の話をうんうんと頷いて聞いたあと顔を上げて「そういえば君は誰々と親戚だよね」「福岡の○△先生はご存知なんだろ?」とも聞いてきた。きっとB氏から聞いたのだろう。そしていきなり「どうだい?選挙に出ないか」と言い出したのだ。
「えっ?議員ですか?立候補するということですか?」「そうだよ。10ヶ月後に選挙がある。私が応援している○○党のベテラン△△先生の体調が相当悪くどうやら次回の選挙は辞退して引退するらしいのだが、若手、期待の新人をドカンと立たせたいという空気がある。当選の可能性だけど、まあ票については色々考えているが、バイタリティと皆に伝える力があれば何とかなる。どうだい?」僕はこれってドラマの撮影でもしているんじゃないかと錯覚してしまった。ただ石像のように聞いていた。「数日考えなさい。答えは電話でいい」そう言ってA氏は席を立った。

いやいや有り得ない。バカをからかうのはいけない。これは完全に茶番だと思った。A氏の思いつきだろうし他に沢山声をかけているはずだ。しかし声をかけた全員が万が一立候補すると言い出したらどうなのだろう。「いや~すまんね、ある事情で他の方を推されてねえ」と体よく言うのだろうか。大体、僕の長所も根本も知らないだろうし当選するはずがない。そうだよ!落選したら僕はどうするの?A氏は僕のような単純人間をロボットのように操る腹黒さも持っているのではないかと考えてもいた。息子でもない僕の何を見てそう言ったのか不思議で仕方なかった。これは非常に眉唾の話だと思いながら会社に戻った。

僕の利己的政策
帰宅後にこの話をしたら案の定カミさんからはキツイ一発を浴びせられた。
「はああ??選挙?まさか迷っているわけないわよね~?大体、あなたがこの数年で政治家になれるぐらい「おたふくわた」で実績を残してきたかしら?経済に影響与えるぐらいの数字を売り上げたかしら?マスコミに度々登場したぐらいで有権者はあなたに一票入れるのかしらね?たとえ太いパイプで当選しても噂話やパッシング、怪文書ですぐ倒れこむあなたのような性格じゃ政治家になってもすぐダメになるわよ」
凄いなあ。マイク・タイソン級のパンチの連打で僕は豪快にぶっ倒れた。そこまで言うかである。でもなぜかこの時、この女性と結婚して本当に良かったと思ってしまった(笑)まあ気持ちいいKO負けである。「A氏もあなたに思いつきで言ったのでしょうけどね」と笑いながら台所へ戻った。実績かあ・・・そうだよ僕はおたふく顔を広めるのが使命。やっぱりおたふくわたを愛していることを確信した。
翌朝、僕はA氏にお断りの電話をした。しかしA氏はそれが分かっていたのか、いや、やはり複数の人間にこの話を持ちかけているのだろうか、余裕たっぷりの口調で「木綿ふとんを徹底して広めたい?。そうか。凡事徹底はいい事だ。数年後にまた話すかね」と言って電話を切った。僕は凡事徹底という素敵な表現をこのときはじめて知った。
大体、こんな話でうまくいくはずがないし僕はおたふくわたをもっと広めていくことが
宿命なのだ。政治は他の方に頑張ってやっていただくしかない。ちなみにその後の選挙で某有名企業から立候補した新人がライバル相手に辛勝だったが当選していた。僕だったら当選できないだろうしやはりこの人が最初から決まっていたのだろうと思った。
僕の祖父は確か政治家志望だったと聞いた。大学は法学部を出てその後は汽船会社に入社、その時も政治家への志を持っていたといわれている。それが縁あって婿養子となりおたふくわたを継いだ。祖父・・・原田平五郎氏である。だが祖父は戦後のおたふくわたを、そして福岡を立ち直させるることに命をささげ、名を残した。でも内心はいずれ政界に進出をしたいという夢があったような気がする。男のロマンは簡単に捨てれるものじゃない。ふと祖父が生きていたらこの話をどう思っているか聞きたかった。

商店街を守りたい
経営をしていてやはり政治の力は凄いと感じることは多々経験してきた。良くも悪くもいわゆる日本にはまだまだ「ツルの一声」というものは存在する。日本の権力構造はやはり政治家主導で行われている。僕らのような一般人では到底抵抗できない案件やルールを動かす力を持っている。だからそれをうまく利用すればとてつもないモノを生み出すことは確かだ。少子化、福祉、教育、地方の中小企業や商店街の活性化、諸外国との関係、など色々な政策に興味があるが中でも商店街の活性化を考えてしまう。国や自治体が補助金を出す、出店基準の規制緩和、大型店との融合策、課される租税の税率見直しや特例策、などを考える。

2no25_02

福岡も博多を離れれば地方の商店街はシャッタータウンの場所が多い。後継者がいない、開店していても売れない、若者は都心に出かける。若者に魅力がある商店街作りを考える必要がある。
そう考えている内に会社に着いてしまった。妄想議員はこれで終わってしまったが僕は日本の商店街をもう一度元気にしたいという気持ちは強い。だがそれはおたふくわたで実績を残してからだ。そうだなああと30年先ぐらいだろうなあ。その時は東京の事務所にいる若くて真面目で僕の長所短所を良く知る優秀な3人に秘書をしてもらおう(笑)
次回は「田舎マニア」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年4月に執筆されたものです

[add_pager]

24.ついに僕はインドへ行った!~最終回~ ~「カレー」「たくましさ」「砂」「綿畑」「違法軍団」・・・ インドはエキサイティングだ!~

1no24_01
台所で料理を作るふりをする僕
「世界ウルルン滞在記」の気分(笑)

インドの家族に会えた。
お客様、取引先、友人、そして親戚など多くの方が僕の駄文コラムを読んで頂いているようで今回のインド話しについて色々とご意見を頂いた。この場を借りて御礼申し上げます。思えばこのコラムで同テーマを3回連載で書くのはめずらしい。換言すればそれぐらい僕にとってインドは衝撃的だったということだ。
ガンガナガールで憧れの綿工場、綿畑を見たその日の夜はラジェッシュさんとホテルの部屋で食事をしながら翌日の予定について相談。当初はもう1日このあたりを観光して夜行列車でジャイプールに行く予定だったが、あまり観光するほどのエリアではないのでどうしようか考えていたらラジェッシュさんが「そうだ!僕の家に来てよ!家族を紹介するよ!」と言い僕もそれに乗った。数日とはいえラジェッシュさんも家族に会いたいだろうし僕もインドの家族やその生活を覗きたかったので予定を変えて僕たちは翌朝の5時ぐらいの長距離バスで彼の家があるビガネーという地域に行くことになった。
バスがまあ想像通りのオンボロでしかも外は快晴なのになぜか全員カーテンを閉めきりただ真っ直ぐ前を向いて座っている。何だよこの空間(笑)運転手も大学生ぐらいの年令かなあ。ずいぶん若い。バス停で客を乗せて出発する度に「YO!」みたいな単語を大声出して運転していた。それはそれで妙にカッコイイ。
バスに乗ってから4時間後、ようやくビガネーのバス停につきそこからリクシャーに乗り数分後、ラジェッシュさんの家に着いた。家の前にはすでに息子さんが出迎えていた。目が大きくてラジェッシュさんに似てかわいい感じの顔、何となく品の良さを感じた。これまたかわいらしい妹も奥からゆっくり出て来たが照れくさいのか奇妙な日本人が嫌なのか挨拶したらすぐに逃げた。

2no24_02
城で働く使用人達はこの上に乗り
集中力を高めさせられたとか

台所から奥様と近所に住む義理のお母さんが来ていて挨拶をする。またへんてこな僕の英語で多弁になってしまったが、会話の途切れを見計らい奥様が昼食を作ったと言うので僕とラジェッシュさんはテラスで遅めの昼食を取る。息子がボーイのように水を入れてくれたりナンを運んでくれる。妹は僕の食う姿を凝視していた。もう照れくさいなあ。
テラスの前は交通量の多い道なのだが向こうから1台の車がやってきた。近くの高級ホテルで働く義弟が遊びにやってきたのだ。彼にビガネーの街を一通り観光案内してもらった。街は狭いので数時間で見ることが出来たのがラジェッシュさんの家に戻るやいなや今度は少し離れたネズミを神として奉る教会にいった。凄いネズミの数!そしてネズミがいるその床を靴を脱いで聖堂に入らないといけないのだが所変わればで日本ではありえないネズミを見て祈りだす人も大勢いた。いやあ凄い光景だ。

3no24_03
有名なねずみを奉る教会、ミルクのまわりにいるのはネズミですよ!

そして町のふとん屋さんや生地屋さんのを沢山見てまわった。ラジェッシュさんはここの店は写真を撮ってもいいだろう、ここはやめておけと言いながら案内してくれた。彼は何もこのあたりの店の主人達と知り合いなのではなく鼻を利かしてそう指示しているのだ。僕らも日本の街で怪しい人を見かけたら避けて歩くことがあるが、彼も店の雰囲気や主人の顔色を見て旅行者の僕には分からない匂いを嗅ぎながらガイドしているのだろう。

4no24_04
ラジェッシュさんの家族たち

食べすぎな日本人
ビガネーでの半日観光を終え、夜は近所の奥様の実家で夕食会。義弟の家族も交じり大家族の中での夕食となった。義弟の長男は3歳。うちの息子と同い年なのだがこのとき初めてほんの一瞬、日本に帰りたくなってしまった。彼を抱きながら自分の息子を抱いている気持ちになり切なくなってしまった。しかし優しい家族の人たちと楽しいひと時を送ることが出来たので気が紛れた。インドの一般家庭の生活を見ることが出来たのでビガネーに来たのは正解だった。

家族と別れ僕は再びラジェッシュさんと夜行列車に乗る、そして翌日はジャイプールに着いてここでも観光を一通りした後、ここでも沢山の生地問屋がある道を案内してくれた。しかしインド人というのは道を聞かれても決して「分からない」とは言わない。ラジェッシュさんが道に迷ったとき歩いているインド人にあれこれ場所を尋ねても応える人全員がまったく違う方向を指している、彼らは何となくあのあたりだろうという感覚で答えているのだがよくあれで目的地に着くのだから不思議だ。

5no24_05
ビガネーにあった寝具関係の商店街 ふとんの色彩が見事だ

ジャイプールの町では多くの猿や牛を見かけた。そしてあちこちの屋台でフレッシュジュースやおやつを食べたりした。あと2日で日本に帰るのだここで下痢になっても飛行機で沢山整腸剤を飲めばどうにかなるだろうと開き直り生水も気にせず飲んでいた。
最後の夜、ラジェッシュさんと大衆食堂のようなところで乾杯をした。もちろん最後もカリー、ナン、そしてタンドリーチキン。とにかく食べまくった。そしてラジェッシュさんと1週間を振り返りながら楽しい時間を過ごした。
横のテーブルにいたビジネスマン風のインド人が僕の顔を見ながらラジェッシュさんに何か言っている。彼が帰ったあとラジェッシュさんに聞いたら「彼は日本人か?こいつはなんでこんなに食うんだ!」と驚いていたというのだ。彼のほうが明らかにデブなのにその彼が見ても僕の食いっぷりは驚きだったのだろう。これも日本の恥なのか・・・?しかし僕にとってインド料理の味はぴったりだった。

6no24_06
空港で別れ際に。ラジェッシュさんと僕

ニューデリーは東京だ
翌日の午後に電車に乗り数時間、いよいよ首都であるニューデリーに到着した。翌朝、タクシーで町を見て驚いた。中心部は今まで見てきた「インド」ではなくまさに「日本」の丸の内のような光景だった。移動してきた電車がタイムマシンだったのではないかと思えるほど同じインドでも全く姿形もライフスタイルも違うのだ。はとバスのようなきれいなバスが通り、イギリスの私立校のような品の良い学生が歩き、ベンツやBMWなどの高級車も数多く走り、丸の内のようなオフィス街が沢山見えた。僕は驚きを隠せなかった。しかし今までいったところもここもインドなのだ。
「インド」という国家でひとつにまとめているがやはりあの広大な面積じゃ本当はうまくまとめきれないだろう。貧富の差は激しいし若干使う言語もニュアンスも違うし、人の表情も価値観も違う。使われている土の質が違うせいなのか建物の色や作りも地域で全く違うのだ。 ニューデリーではイギリスからの独立を実現させたガンジーや同名のガンジー首相、その息子であり同じく首相になったガンジーのそれぞれの記念館も見たが彼らは皆、暗殺されているのだ。国を愛しているからこそ国を愛している者に命を奪われる難しい問題だ。
こうして1週間のインド視察旅行はエキサイトに終わった。ラジェッシュさんと空港で別れ際、僕らは数秒抱き合った。1週間、彼と寝食を共にしてきたが本当に良くしてもらった。彼とは同世代でもあり家族構成も似て。そしてお互いひょうきん者なのでなお更親近感が湧いた。彼がいなかったらインドはここまで楽しめなかったかもしれない。彼はパソコンが苦手らしく義弟からたまにメールが来て連絡をしている。友達がまた一人増えた。
ありがとう!!ラジェッシュ!

そういえばラジェッシュさんは旅行中にこんなことを言っていた。「インドはどんどん国が強くなり金持ちが増えている一方、どんどん貧しい人も増えているんだよ。この差の開きが怖いよ。お金より大切なことを僕達はもう一度学ばないといけない」
・・・そしてインドの大企業「TATA」が米国のフォードからランドローバーとジャガーを買収したというニュースは僕が帰国して2ヵ月後の事だった。
・・ちなみに日本に帰って体重計に乗ったら体重が4キロ増えていた。
次回は「妄想議員」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年3月に執筆されたものです

[add_pager]

23.ついに僕はインドへ行った!~中~ ~「カレー」「たくましさ」「砂」「綿畑」「違法軍団」・・・ インドはエキサイティングだ!~

1no23_01
トラックが傾いたまま。これがインドだ(笑)

どんどんインドスタイルにはまる!
インド到着翌日の早朝、僕はアーグラーに向けて出発することになっていた。前夜ガイド役のラジェッシュさんが僕の部屋まで朝迎えに来てくれると言って、その時ノックするからとノックするジェスチャーまでして確認したのに一向に約束の時間の6時半に来ない。いきなり寝坊かなあと思いしばらく待っていた。約束の時間から30分経とうとしたときホテルのボーイが部屋に来た。「ラジェッシュさんがフロントで待っています」
はあ??なんだよぉ。昨夜のノックのジェスチャーはなに??まさか歩いたらすぐ忘れちゃう病気じゃないだろうなあ。
彼とフロントで会った瞬間「大丈夫か?」と言われた。「ええ?君こそ大丈夫か!?」と言おうとしたが、朝から無駄な体力を使いたくないとあきらめ昨日と同じドライバーのタクシーに乗る。さあここから約3時間。到着日は夜だったのでこの日はじめて日常のインドを見ることができた。

ドライバーの運転の激しさに呆れながらも車中のラジオで流れる音楽、外の光景、インドに来たんだと僕はワクワクしていた。交差点は人、バイクや自転車がわれ先にと急ぎ牛が我が物顔で歩き、事故でトラックが傾いたまま店の前で放置されている。すげえなあ。インド。あっという間にアーグラーに到着した。朝食を済ませて有名なタージーマハールへ。これって城じゃなくて王妃の墓なんだよなあ。生で見る白い輝きの建物は圧巻だった。当時の権力を感じることが出来る。まあ色々トラブルがあったがダントツはタージマハールでトイレに行きたくなってしまったことだろう。入り口のセキュリティチェックでバッグを預けてることになり実はその中にトイレットペーパーが入っていたのだがもうこれ以上はご想像に任せる。僕はこの時から少しインド人になった気がしたことだけは書いておく。

2no23_02

その後はアーグラー城や遺跡、教会などを見て回る。しかし信号待ちの間に僕は凄いものを見た。小さい赤ちゃんを抱く物乞いの母親がわが子をつねっていた。当然泣き出す。
その瞬間、なんと小走りで僕の前に現れた。「お腹をすかしている」というポーズをしていた。おいおい!お前さっきそこでつねっていただろうと突っ込みたくなった。
しかしインドの物乞いってたくましいや。僕は驚いた。彼ら彼女たちの目も決して伏目なのではなく前向きに感じるようなギラギラした目をしているし。
夕方、ニューデリーに到着。僕はラジェッシュさんとレストランで軽く食事。いやあおいしいよ。チャイ(インド版ミルクティーのようなもの)はいつどこで飲んでもおいしく感じるしカリーやナンはホント初日から食いまくっていた。それにインドでは初日から生水とミネラルウォーターを交互に飲んでいるが今のところお腹は好調。しかし気になるのが砂ぼこりや香辛料の匂いがしてくるのはいいのだが客待ちしているリクシャーの運転手達があちこちで群れを作っているのだが横を通る度にどうもこげくさいものを吸っているので何の匂いかラジェッシュさんに聞いたら「マリファナ」らしい。
もちろん違法である。しかし参ったなあ。何しろ彼らの近くを歩けばどうしても煙を吸い込んでしまう。違法間接喫煙である。

いよいよ寝台列車!
ニューデリー駅に到着して寝台列車に乗りいよいよ3日目は綿畑や工場があるガンガナガール地方に行く。列車が来るまで2時間以上あったがインド人は平気でホームで待てる。座りながら本を読む人、寝そべる人、チャイなどを飲みながら時間を過ごす人、さまざま。
東京じゃ考えられない。インド人は何時間でも待つ事に慣れていると思う。そして、また僕はインドスタイルを見て笑ってしまった。横のホームで待っていた人々が急に荷物を持って移動しだした。何でもそこに止まるはずだった列車が到着直前に急遽止まるホームを変更したというアナウンスをしていたらしい。まさに到着数分前である。えええ。凄いなあ。それでも彼らは良くあることだって顔して急いで移動中。彼らから見たら1分でも遅れたら構内放送で謝罪する日本のほうがむしろ滑稽なのだろう。
ラジェッシュさんと良く話すようになった。あっと言う間に2時間が経った。しかし良くお互いしゃべった。英語なんて勉強しなくても外国に来たら何とかなる。
僕の列車は2等。1等はインドのお金持ちや役人に限られているのでその次なのだがそうはいっても日本では考えられないぐらいのレベル。寝台列車は3段ベットの2列。つまり6人用である。ブルートレインに良く似ている。向かい側で寝るインド人家族が僕を一挙手一頭足眺める。全員が同じ方向で僕を見る。その姿がおかしい。寝心地は良くないが1日のインドを味わって疲れていないわけないのでまあまあ熟睡。そして朝6時頃、列車がある駅で停車していたので僕は起き上がりホームに出た。屋根もない日本でいう無人駅のようなところ。まだ霧が少し出ているが、数人がホームで歯を磨いていた。そして遠くから少年が「チャイ、チャイ」と言ってインド茶を売り歩いていた。最高に気持ち良い朝だった。今こうして書いていてもあの光景を思い出すと心地が良い。
数時間後にガンガナガールに到着!リクシャー(自転車タクシー)にラジェッシュさんと乗りホテルへ。シャワーで身体を洗い朝食。トーストとチャイ。ラジェッシュさんと3日目、すっかり打ち解けてお互い家族の話や仕事の話をする。1時間以上は話した。迎えの車が来たので僕達はいよいよ綿工場に行く。数分後到着!おお綿の山が見える!僕は遊園地に来たような感覚になった。一人で興奮。彼らは毎日見ているだろうけど僕は飛び上がるような気持ちで眺めていた。

3no23_03
綿畑からラクダなどを使って綿を運んでくる。そして青年たちが綿を工場まで持ち込み
綿と種を分別する機械に入れていく。そして梱包して私達の日本に送ってくるのだ。

4no23_07
おいしいカリーだったが「ハエ」まで食べてしまい
全然笑っていない自分

あの綿工場を見ることが出来るのだ。綿畑から獲った綿を袋に詰めてラクダなどに運ばせる。そしてこういった工場で綿と種を分けるために雇われている女性達が手で種を取いたり工場内になるジン(綿と種を分ける機械)で作業を行う。そしてパッキングして輸出をする。機械も40年以上も前のものを使い続けている。僕は3つ工場を廻った。ある工場では僕より少し若い人が社長をしていたが世代が近いせいかずっと僕に話しかけてきた。彼は綿工場だけでなくレストランやホテルも経営していて色々車で見せてくれた。
しかし彼と話して本音が見えた。どうやら彼は輸出事業はしていないようでそこで僕と輸入を直接したいようなことを後半言ってきた。おいおい君が喜ぶぐらいの綿の量を使っていないぞと心の中で彼に謝った。ラジェッシュさん、あなたがいけない(笑)彼は日本から僕をどう紹介されているのか知らないが人と会うたびに「日本で1番大きいふとんの会社だ」と説明している。毎回赤面しながら名刺交換していた。
工場を見学し終えたあとは綿花取引所やオフィスにお邪魔して綿の談義に花を咲かす。日本の綿ふとんの歴史や現状、そして環境問題など。いやあ話込んだ。彼らも僕の下手な英語をきちんと聞いてくれた。午後遅めのランチをオフィスのバックヤードで食べる。屋外でのランチはおいしい。カリーとナンとライスが沢山来る。生野菜をレモンでかけて食べる。生水を平気で飲む。しかし僕のカリーの中にハエが入り数分後おぼれていたのを見逃さなかった。ハエを避けるように食べたはずなのに食べ終わったらハエがいなかった。
僕はその後数時間全く笑顔を見せなくなった。

5no23_08
綿畑を思い出し猛スピードで運んでくれたが
すでに夜(笑)

食後は綿花に携わる人の自宅でチャイを飲んだり街の実力者の自宅などに訪問したり高級住宅街やスラム街、町の公園などめずらしいコースを選んでくれた。その時、綿花会社の社員が「あ!!君は綿畑も見る予定だったよね」と言った。そうだよ!そうだ!僕もすっかり彼らの話と工場見学、お宅訪問に没頭してしまい畑を見ることを忘れていた。急いで車に乗り込みいざ畑へ・・・と到着した頃はすでに夜だった。もうギャグとしかいいようがない。しかもほとんど収穫も終わりただの畑だった。だがそれでいい。僕は綿畑という場所にいるだけでも幸せだったしこの日はそれ以上に貴重な経験をさせてもらった。他のビジネスマンが経験できないような体験が出来たのでそれだけで十分だった。それを察してか、冷える1日だったのに半そでのダガさんというユニークな綿花会社の人が、枯れた綿の木を拾い僕に渡しながらこういってきた。「綿畑なんて色々な日本人が見てるんだから写真を見たらいい。それよりいい経験をハラダさんはしてるんだ」

次回はついに僕はインドへ行った~最終回~をお送りします

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年2月に執筆されたものです

[add_pager]

22.ついに僕はインドへ行った!~前半~ ~「カレー」「たくましさ」「砂」「綿畑」「違法軍団」・・・ インドはエキサイティングだ!~

いつのまにか家内がチケットを手配していた!
1月にいきなりインド視察旅行に行くことになり驚いた人も多かったようだ。そりゃそうだ。僕自身も今年1月に行くなんて夢にも思わなかった。実は昨年8月のお盆休み前に取引先の方から11月頃に数人と視察に行くから一緒にどうかとお誘いを受けていた。その時、綿の原産国視察を以前から強く薦めていた家内も僕を後押ししていたこともあり、僕も行く予定でいた。しかし以前ここのコラムで書いた高島屋のNバイヤーと3年越しの商談を続けていたが9月にお会いしたとき、なんと11月催事開催が決まり、さらに飯塚井筒屋で第2弾の催事が12月に決まったので僕のインド視察旅行は幻に終わったのだ。
お誘い頂いた方に丁寧に断りを入れた後、移動の車中で高島屋や井筒屋の催事がなければ行っていたはずと思いつつ小心の僕としてはいや色々理由をつけて行かなかったかもしれないと考えたりもした。しかし後日に海外でカミソリを製造している輸入販売している僕の仲良しの友人が夏に製造元であるイタリアとイギリスに出張に行き、帰国後ランチをした際「やっぱりその国を見にいかないと説得力がないんだよなあ」と彼が言った台詞が凄く心に残った。
僕の親父はやはり20代後半の独身の頃に商社の協力のもとインドはボンベイ(ムンバイ)に長い間滞在していた。多分半年か1年近くいたと思う。自分の親父も行って綿畑や工場を見て学んでいるのにおたふくわたを継ぐ僕が原産国を見に行かないでお客様に説明するのは説得力がないのではないかと彼との食事の後悩んでいた。
帰宅して家内に友人の話を聞いてインドにやっぱり行きたくなったと話すと優しい口調で「来年、また取引先からお誘い受けたらそのときは行けばいいじゃない」と言った。その時そうだねと僕が答えれば話は済んだのだが「そうだねえ。でもまた催事があると行けないよね」と逃げ腰の発言をしたことで家内はついに怒りが着火したようだった。今から予定を決めれば11月に催事があってもうまく調整できるのに。家内はアジア、ヨーロッパの30カ国以上をバッグパックで学生時代から廻っている行動派だ。綿を見にいきたい、綿工場を見たいという思いを持ちながらインドという大国に不安を抱く小心の僕にイラつくのも頷ける。それでも表情を変えず「1月は催事がないの?」と聞いてきて「うん1月はないなあ」と言って僕はトイレに行った。そして歯を磨き洗顔をしダイニングに戻ると家内はどこかに電話をしていた。その口調はどう見てもチケットを予約しているとしか思えない内容だった。そして電話を切った後「インドのチケット手配したわよ。来月ね(1月)。私のマイルが相当たまっていたから往復無料で行けるわよ。私からのクリスマスプレゼント。いってらっしゃい!!」と寝室に入ってしまった。航空会社に勤めていたから数分でさっさとチケットを取ってしまった。そういうことで僕は彼女のパワーに唖然となりながらも行くことを決心したのだった。

取引先の皆さんが協力してくれた
1ヶ月しかない。大使館や取引先も年末は休みに入るので実質3週間弱しかない。とにかく急いで準備をすすめなければいけない。本社の役員に電話で連絡し、東京の営業マネージャーである鶴崎君を打合せの部屋に呼んで話した。彼の驚いた顔を今でも忘れない。そして翌日全員に話したあと僕は出かけて11月に視察旅行をお断りした方に会いに行き恥を承知でインドに行く話をした。その方は「原田さんの事だから数ヶ月以内に必ず行くと思っていたよ」と笑いながら答えてくださり、その後、あちこちに電話をして僕のインド視察旅行の対応をしてくださったのだ。
中でも輸入綿の仲買商を経営している大阪の中山さんは弊社の綿の輸入元である現地の社長と直接連絡をしてホテルや移動の手配をしてくださった。さらに現地の社長が自分の部下を8日間、ガイドとして同行させますという超ありがたい連絡が入った。これは本当に助かった。というのも決断したのはいいがインドの一部地域は外務省のHPで渡航を控えなさいと書かれていた。僕の行く綿畑の近くにそのエリアがあるのだ。今回の視察旅行は11月と違い、誰も日本から同行者がいないので一人旅の状態だったので中山さんの協力は嬉しかった。家内から「みんなに助けられてホントにラッキーね」と言われた。

2_no22_01
機内から撮った中国大陸。
この数時間後恐怖のどん底に

インド視察旅行前日に家内から「色々学んで来てね。あなたのお父様が行った国と同じ場所を訪れることが出来た幸せを感じながら綿の原点を見てきなさい。インドという国を見て少し視野を広げればまた考えも少し変わるはずよ」と言ってくれた。家内に感謝している・・。本当に素晴らしい女房を持ったもの・・・とそんなのろけたムードも翌日飛行機に乗り込み数時間後ヒマラヤ山脈の近くに飛行機が近づいた瞬間、きれいにふっとんでしまった!!それは今までに経験したことのない物凄い揺れを体験したのだ。乗客からも少し悲鳴に似た声が聞こえてきたぐらいの揺れだった。僕はこの瞬間「あ~インドはきっと凄い事になるな」と不安全開モードになっ

ナヨナヨ原田全開
ヒマラヤを抜けて数時間後、窓からいよいよインドが見えてきた。上空から見るインドの町は全体的に赤茶色の建物が多くまるで古代文明にタイムスリップしたような印象を持った。良く空港に降りるとその国の匂いが分かるというがニューデリー空港は上空から見た印象と同じで砂ほこりの匂いがしたのだ。入国審査を待つ長蛇の列に並びながら日本人のビジネスマンたちの声が聞こえてきた。「今回は下痢にならなきゃいいなあ」「あのレストランまた行かされるのかなあ」「しかし列がめちゃくちゃなのにそこの警備員は何もしないよなあ」「それよりも今回は屋台でのジュースは断ろうな」とどうやら前回嫌な経験をしたらしくネガティブな会話が続いていた。こんな会話はインドという国だからこそ聞けるんだろうと思った。しかし電気も薄暗く国際空港と思えないそのボロさに僕は異様に興奮してしまったが世界にはこんな空港ざらにあるんだろうなあ。と改めて自分の視野の狭さを感じた。
さて審査を終え、荷物を取り出口に行ったら大勢のインド人がプラカードを持って立っていた。僕の名前を見つけようにもこの人の多さでは時間が掛かるなあと思いながら1枚1枚見ていた。そしたらはじっこに数人怪しい雰囲気のインド人がWELCOMEやTO JAPAN としか書いていないカードを持って僕を呼んでいるではないか。名前は書いているはずだからおかしいと思ったが手招きしながら笑顔で「ヘイ!ウェイティング フォーユー」と話しかけてきた。白タクのような連中だろうから引っかかることはなかったがあの堂々とした演技には妙に感心してしまった。

1_no22_02
空港出口。初日は手前のフェンス越しに多くのインド人が迎えていた。

だが・・僕は自分の名前を書いた人をなかなか見つけられなかった。出口に出てから40分はたっていた。あのグループはうろうろしている僕がまさに標的なのか目が合うとしつこく呼んでくる、一瞬あの人たちなのかと悩んでしまったが不安になり僕は携帯で中山さんに電話をした。最悪はホテルまでタクシーで行くしかないと思った。ナヨナヨ原田全開である。そして迎えのインド人が数人になったとき大きいプラカードを持っているのに「MR HARADA」とボールペンで小さく書いた大柄のインド人を見つけた。
日本で聞いていた名前・・ラジェッシュさんだった。やったあ!いたいた!と思いながら近づくと彼はいきなり「君は何百回も僕の前を通りすぎたから彼は迎えが来ていないのかと思っていたのだがまさかそれがハラダさんとは思わなかった」と笑いながら握手してきた。あんなに大勢いてしかも体格に似合わず僕の人差し指ぐらいの大きさの細い字じゃ気がつかないよ!!と僕も笑った。いつの間にかあのグループも消えていた(笑)。
こうして僕のインド旅行はスタートを切った。この日はホテルに直行し翌朝からアーグラーという街へ行く予定だ。タクシーに乗りホテルに向かいながら、インド人の車のクラクション乱打、運転の荒さに驚いた。渋滞で動かないのに怒りをぶつけるかのように不必要なクラクションがあちこちで聞こえる。クラクションのせいでラジェッシュさんの話も聞きづらかった。到着して1時間で僕はもうインドに圧倒されていた。このままじゃインドに負ける・・・・。窓にうつる小心全開の自分の顔を見ながら僕は少し笑ってしまった。
次回は「ついに僕はインドへ行った!~中~」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年2月に執筆されたものです

[add_pager]

21.博多が動いている!~「怖い」から「大好き」に戻った福岡・・・ 博多の力を僕は毎月感じている~

1_no21_01
呉服町にある出光のビル。
天保11年おたふくわたは
この地で創業した

僕は福岡が怖くて仕方なかった・・・
 毎月僕はおたふくわたの本社がある福岡に出張しているのだがカミングアウトすると実は大学生になるぐらいまで福岡が怖くて仕方なかった。福岡という町は大好きなのに行くのが怖いという何ともいえない複雑な心境が長く続いていた。
小さい頃のあるきっかけで福岡に行くのが段々怖くなったのだ。最初のきっかけは祖父の死である。祖父は当時の我が社の関連会社の工場視察時に倒れてそのまま帰らぬ人となった。我が社だけでなく福岡商工会議所会頭や新天町の初代会長を務めるなど福岡の経済界でも多大なる貢献をしてきただけに葬儀には大勢の人が来た。当時僕は3歳だったが葬儀で多くの人が悲しい顔をして涙していたその姿を今でも何となく覚えている。
人の死についてまだ理解できない年齢であったが、火葬場などで見た人々の特に家族の悲しい姿が僕の心に強烈に残ってしまった。

そしてその6年後、僕はさらなる体験をしてしまった。それが父の急死と数ヵ月後に後を追うように亡くなったすぐ下の妹・・叔母の死である。
父は冬休みに家族で博多に帰省した数日後・・・1月2日の夜に急死した。倒れる直前まで野間に住む次女の叔母夫婦の家で食事をしていた。その時、周囲は酒を飲んでいたせいもあり誰も気がついていなかったが、トイレに頻繁に行く父の姿を僕だけは「何かおかしい」と敏感に感じた。そしてその予感が辛くも当たってしまう。2台迎えに来た帰りのタクシーの中で父と二人で乗ったのだが祖母の家に着く直前に「だめだ・・パパはちょっと気持ち悪い」と僕に言い階段を駆け上がりトイレに入りそのまま倒れた。そしてその数分後に救急車が来た。僕は祖母の家の下に住む父のすぐ下の妹である叔母の家で父の帰りを待つことになった。怖くて仕方なかった。あの父の苦しい姿を見て僕は父は帰ってこないような気がしたのである。
不安をかき消そうと漫画「がんばれタブチ君」を読んでいたがその数時間後に姉が部屋に入ってきた。もう涙で顔がぐしゃぐしゃだった。わずか9歳で僕は父の位牌を持つ経験をしてしまったのだ。父から色々と教わりたいことがたくさんあったのにそのまえにこの世を去ってしまった。
9歳でもまだ死というものを理解していたとは言いがたい。しかしもう父はいないという悲しさは毎日僕は心にぽっかり大きく残っていた。そしてその数ヵ月後に下の階に住む大好きだったあの叔母が車中で信号待ちの時にそのまま息を引き取ったと聞いた。僕のトラウマは完全なものになってしまった。9年の間で3人の身近な人が急にいなくなったのだ。僕は法事などで博多に行く度に「次は祖母かおふくろか姉が連れていかれる」と妄想するようになってしまった。特に父が死んだ後の祖母とおふくろの憔悴しきった顔は9歳の僕には辛すぎるぐらいだった。だからもう博多に行くことが恐怖になったのだ。
だから墓参りも法事中のお経も実は怯えていたのである。僕にとってお経というのは祖父、父の突然の死に皆が泣き続けた葬式のシーンしか出てこないからだ。そのぐらい3人の死は強烈だった。9歳の僕は結構へこんだ。

そして大好きだった祖母が他界した
時は流れ僕は中学、高校と寮生活や留学など充実した学生生活を送っていったので福岡に行くことも減り恐怖というのも少しは薄れかけていた。それでも親戚などの死を聞くと幼少のトラウマが蘇り数日暗い気分になったりした。でも僕をかわいがってくれた祖母は茶道や華道、能など多彩な趣味を持っていた関係で良く東京に来て我が家に泊まっていたので祖母とは疎遠になることはなかった。
しかし・・・僕は再びあの不安が出てきたのだ。祖母が僕の浪人中の2月に他界してしまった。それはいつものように東京に来てうちに泊まるはずが翌日僕の受験があるというので遠慮して日帰りで帰った翌朝に起きた。茶室で生徒が来るというので風呂に入り着物に着替え・・・そのままベットの上で倒れていたという。祖母に前日会えなかったことは悔しくて仕方なかったが83年間の大往生、見事な散り方に僕は祖母の人生を誇りに思った。そして親戚からの指名で僕は喪主を務めた。祖母への恩返しのつもりだった。しかし葬儀中にお経を聞きながら祖母の写真を遺影を見てついに祖母までいなくなってしまったという悲しさと徐々に父の告別式が蘇ってきてしまった。しかし喪主を無事に務めなければいけないと責任感がこのときは勝ったのだ。そして僕は葬儀の数週間後にようやく、ようやく、大学に合格したのだった。合格を祈っていた祖母に報告できなかったことが悔やまれる。

2_no21_02
櫛田神社・大節分祭には長男と2人旅で参加した
(左は今回お世話になった仲の良い僕のはとこ)

おたふくわた復活で僕は本当に変わった
そして卒業後、サラリーマンを経験し家業を継いでから博多に頻繁に出張をするようになった。立場は人を変えるというがこの会社を継ぎ、繁栄させるいう大きな目標と従業員やその家族を守るという責任感を持ち、財産である「おたふくわた」の復活を目指していた僕はいつのまには福岡への怖さ消えていた。
それは恐怖感以上に多くの人との出会いして感動を福岡で経験すようになったからだと思う。

3_no21_03
建替え中の博多駅・・
3年後に生まれ変わる

僕がこうして福岡でハイテンションで仕事が出来るのも人々の思いに加え博多を中心に街が東京に負けないパワーを持っているからだと感じている。福岡という街は何かそういう「ずっしり」とした重みを感じるのだ。出張していつも思うのだが福岡の天神中心街の交差点は銀座のそれに比べて人の数も確かに少ないが信号が青に変わった瞬間の歩き出す速さが銀座に比べて遅い。しかし人数が少なく遅くても銀座に匹敵する重圧感があるのだ。人の踏み出すその一歩に何かパワーを感じてしまう。
お祭りも沢山あり、芸事に長けて(福岡出身の歌手も確かに多い)、魚はおいしいし、スポーツも強
い、そして嘘やごまかし、駆け引きをせず正面からぶつかる人が多いから僕も商談をしていてとても気持ちよく進めることが出来る。本当にすばらしい土地だ。
最近、不動産の大手デベロッパーに聞いたら土地の価値は東京、名古屋に次いで福岡が高いという。確かに当社の不動産事業でもその雰囲気は感じる。そして2011年には九州新幹線鹿児島ルートの拡大に合わせ玄関口である博多駅が新しく生まれ変わる。
もう僕は怖がっているわけにはいかない。いままさに博多は動き出しているのだ。
次回は「ついに僕はインドへ行った!~前半~」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年3月に執筆されたものです

[add_pager]