おたふくわた復活プロジェクト

9.綿の歴史を知る・・・ 産業技術記念館

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これがわた繰りです。
繊維と種を分ける道具です。

天竹神社、産業技術記念館など実り多い名古屋の訪問でしたが最大の目的は丹羽正行氏との再会です。丹羽氏との出会いについては前回のコラムを読んでいただくとして。 私は地図を片手に緊張の面持ちで今回名古屋は熱田区にある「丹羽ふとん店」へ向かいました。お店に入ると丹羽氏の奥様がおられ、私は自己紹介とお世話になっている話をしていました。しばらくするとレジの横にあるスピーカーから「どうも!」と大きい声で丹羽氏が話しかけてきました。「今、作業場にいます。すぐ降りていくから待って下さい。」と言いました。私はその間お店の商品を眺めていました。棚に置いてあった綿ふとんの柄や形が実に綺麗なのでしばし見入っていると丹羽氏が降りてきました。 久しぶりの再会に緊張と興奮が同時に起こった私はあれこれ綿の話をしようとしましたがその姿に「まあまあ抑えて」という感じで丹羽氏は笑いながら「昼食でも行きましょう」と誘ってくださり、まずは名古屋の長者町繊維街にある豆腐料理を食べながらお話を伺いました。 (余談ですがこの豆腐料理がまた絶品でした)

丹羽氏は蒲団という字の由来が元々「蒲團」という字で水辺に生える蒲穂の茎を使って作った円座(座禅用)を意味していたという説と元々「團」という字は「色々なものを集めて丸くした」という意味をもっているので、実は茎ではなく先端のふわふわした部分を指しているのではないかというお話をしてくれました。そして中国、インド、韓国などの木綿(モメン)の語源や発音が似ている事からモメンという言葉はアジアから来たのではないかとご自分で研究されたお話を伺う事が出来ました。あっという間に時間が過ぎました。

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小さい綿打ち弓で綿をほぐす丹羽氏

そして昼食後はいよいよ丹羽氏の自宅に戻り作業場へと案内されました。 丹羽氏は作業場を二つもっておりそのうち一つは空手教室の道場としても使われており まさに男の世界です。作業場にはきれいな玉わたが積んであり、昔綿屋が使っていた道具や海外で使われている道具などがずらりと揃っていました。ベランダや庭には丹羽氏が育てた綿花が元気よく咲いていました。作業場ではまず綿繰りの道具(ロクロといいます)で繊維や実を分ける作業や小さい綿打ち弓を使って綿をほぐしてくれたりしました。私も挑戦してみましたがこれが難しい・・・なかなか綿が弓から取れません。

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角にも綿が詰まっているのが
良い蒲団の条件です。

しかし丹羽氏が触るとまるで水を得た魚のようにぽんぽん綿が弓から離れてほぐれていくのです。昔の人は更に大きい綿打ち弓を使い毎日繰り返し作業をしていたのですから大変な事です。そして丁度お客から注文されていた敷き蒲団を作り始めました。その姿はまさに蒲団作りというよりも陶芸作品を作っているような芸術的な手つきです。玉わたはご自分で原綿を仕入れ機械でほぐしたまさに自家製の玉わたを使っています。丹羽氏の玉わたはまさにクリームシチューのようなふわふわした表面であたたかさがあります。それを使って丁寧に丹念に蒲団を作り上げていきました。そして丹羽氏は最後にある繊維をぱぁーっと広げてそれを綿の上にかぶせました。私はその組み合わせに最初驚きましたが、丹羽氏曰く側生地と綿ふとんが使用していくうちに汗などでくっついてしまわないよう、その繊維を入れることにより通気性も良くなりまた側生地、中綿がそれぞれ活かされていくそうです。その繊維は丹羽氏のこだわりと思いあえて書きませんが寝具でもおなじみのものです。

一時間ほどで作業が終わり頭の手ぬぐいを取った丹羽氏は休む間もなく(あたかも作業が 終わるのを待っていたかのように)新聞社から取材依頼の電話が入りました。 完成した蒲団は見た目もふんわりしていて、その上で大の字で寝てしまいたくなるような 蒲団でした。お店に行っても「寝てみたくなる蒲団」というのはそんなにないと思います。 私は丹羽氏から後日掛け蒲団を購入しました。「気を遣って買わなくてもいいんだよ」と言われましたがそうではなくあの作っている姿や蒲団を見たら誰もが欲しくなります。 そして私は今でも定期的に丹羽氏の蒲団を干しています。就寝時には干した後に香る綿の独特の匂いに喜びながら寝ています。「人に喜ばれる寝具を作りたい!」私は丹羽氏との再会でその気持ちが更に強くなりました。

次回は「おたふくわた」の変革を挑んだ、亡き父原田憲明についてお話します。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年4月に執筆されたものです

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