おたふくわた復活プロジェクト

10.亡き父そして経営者 原田憲明

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社長就任披露パーティー(福岡)
左から2番目が憲明社長、
3番目が平五郎会長

私の父、原田憲明は昭和57年1月2日に他界しました。私がわずか9歳の時です。父は 旧制福岡高等学校文科を卒業後上京し昭和26年3月に東京大学経済学部を卒業、その後はおたふくわた株式会社と深い関係にあった三星繊維株式会社に入りました。 しかし当時の社長であり憲明の父(私にとって祖父)である原田平五郎社長がおたふくわたの東京進出を機に父を三星繊維株式会社から呼び戻し東京で営業活動をさせました。 父はその時から平五郎社長を超えようと必死に働き、また取引先には息子だということを伏せて仕事をしていたそうです。そして入社して3年後に父は綿の勉強をするのは原産国に実際に行くことが一番だということでインド・パキスタンに出向します。

昭和36年におたふくわた株式会社の専務取締役になり昭和41年にはハニーおたふくわた株式会社と社名を変更し3年後に父は社長に就任しました。(祖父は会長になります)綿以外にも力を入れてふとんカバーに花柄などを入れたファッションカバーの開発、脱脂綿、不織布など次々と製品を拡充していきました。そして全農や百貨店などへの流通を新しく築きました。 そしてわたの会社から寝具メーカーとして、また販社として大きく変身していったのです。しかし連続放火魔による九州工場の火災、オイルショックなど、在任中にいくつもの危機があったものの社内一丸となって乗り越えました。 そんな中、国内での評価が高かった不織布の海外進出を目指し数々の海外企業と提携を実現させ社名も「ハニーファイバー株式会社」と完全な横文字に変えました。当時日本企業は輸入輸出が盛んになりはじめたのを機に多くの社名が横文字に変えられていきました。

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米国ナショナルノベルティ社と
合弁会社設立(昭和49年・1974)

祖父・平五郎を超えようと父が新たな道を歩み始めた矢先の昭和51年に平五郎会長が他界しました。父は後見者を失いながらも難局を乗り越えようと必死にハニーファイバー株式会社の世界進出と国内でのナンバーワン企業を目指しました・・しかしその6年後の正月に祖父の後を追うようにこの世を去りました。私は9年間しか父と付き合えませんでした。 私の記憶にあるのは、週末の土曜日は父にサイクリングに連れて行ってもらい、翌日曜日には私を助手席に乗せて、今、私がいるこの神宮前のビルまで来て父は残っている仕事をし、その間、私は廊下を騒ぎながら走りまわっていたことぐらいです。当然、経営に関する教えなどは聞けないまま父と別れてしまいました。

 

父は倒れる直前、タクシーの運転手さんに「もう暖かいですねえ」と言いました。それが私の耳に入った最後の肉声です。20年経った今でもあの時の声は覚えています。父が他界したあとのハニーファイバー株式会社はどんどん変化していきました。父はその変化を天からどのような気持ちで見ていたのでしょうか。

私が大学在学中にハニーファイバーは寝具業から不動産業に転じました。それを私は今、復活させようと試みています。いったんやめた事業を再びやるのは愚かな挑戦だと言う声もありますし、簡単に復活してビジネスとしてやれるほど甘い世の中ではない事も判っている積りです。しかし、私はどうしても綿を使ったふとんを作り、売りたいのです。綿は繊維の中でも人間の体に一番やさしいと思います。 天然であり、植物であり、アレルギーになりにくい。しかし反面、重いといわれている綿ふとんですが時代に合わせた綿ふとん作りは必ずできると思います。最近、天然をキーワードにした商品が数多く出ています。ふとんも例外ではないと私は思います。 「いいふとん」とはどういうものか・・この研究は今後も進めていきます。

次回は日本の綿で蒲団を作っている女性の職人・澤田清子氏について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年5月に執筆されたものです

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