おたふくわた復活プロジェクト

23.日本にもある綿畑 知多市歴史民俗博物館で見た美しい綿畑

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巨大な打瀬船です。帆は木綿を使用して
いました。 木綿は雨や海水を吸いすばや
く放出するので戦国時代でも帆は木綿を
多用していました。

名古屋在住の丹羽氏の紹介で私は昨年愛知県知多市にある歴史民俗博物館に行ってきました。「古式綿打ち保存会」でもある丹羽氏はこの博物館内で講演や木綿のはた織りなどのアドバイスなどもしています。博物館は知多周辺で行われていた生業やその時代の人々の生活などの資料や道具を展示しています。また民俗、歴史、考古、美術などに関する企画展なども開催していています。知多半島で有名な産物・・・といえばやはり「知多木綿」ではないでしょうか。江戸時代の初め「知多木綿」はすでに江戸に送られていたといわれています。知多半島といっても地域によって、はた織り機の形や操作方法などもさまざまで、はた織り機で藍染はんてん、常着(つねぎ)、ふろしき、寝巻きなどを作っていました。また美術館の中にある全長15メートルの巨大な「打瀬船(うたせぶね)」の帆布も頑丈な木綿が使われていました。


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綿が朔から出ています。

博物館の館長である平松秀貴氏や職員の方に館内の展示物を丁寧に詳しく説明いただいた後、私はしばらくこの打瀬船をながめていました。そしてしばらくすると職員の方に案内されて私は外に出ました。すると・・・博物館の外に綿畑があるではないですか! 私は子供のように畑めがけて走ってしまいました。農林水産省によると綿花の国内生産として昭和40年(1965)に茨城、鳥取、佐賀での生産があったのを最後に統計上は記録されていません。ですがまたこうして日本のあちこちで小さい綿畑があるのです。 以前も書きましたが松尾芭蕉がこの綿畑に感動して「名月の花かと見えて綿畑」と詠んだほど見た目も美しいものだったに違いありません。私がお邪魔したときはまだ花が咲き始めたばかりの頃でしたがいくつか花がすでに咲いていたり朔(さく)がさけて白い綿があふれでているものもありました。綿花について簡単に説明するとつぼみがついて3週間ぐらいすると開花します。花が咲いたあと2、3日でしぼみやがて青い朔が出来ます。 そして実が熟すと破れ目ができてあの白い綿が顔を出すのです。


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左右微妙に葉の色が違うのが分かります。
(左がアジア綿、右が米綿です)。

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米綿(植物名ヒルスツム)の花です

綿花は害虫駆除などでけっこう手入れが大変で、きれいに綿が出てくるようにするのは素人ではなかなか難しいようです。 この博物館にあった綿花はアジア綿と米綿の2種類です。アジア綿はインドから渡ってきたといわれていますがかつて日本や中国もこの種類のものだと考えられます。短繊維でコシがあるので敷きふとんによく使われています。 一方米綿は繊維は細長く寝具では掛けふとんに使われますが、それ以外でも広範にわたって使われている実用性の高い種類なので国内に輸入している紡績の糸はほとんどがこの米綿です。

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アジア綿(植物名アルボレウム)の花です。
日本もかつてはこの花があちこちで咲いていたのでしょう。

綿畑は地元の子供も興味があり喜んでその成長を見に来るそうです。そしてこんなに広く大切にされている綿畑を見ていると心が和んできました。自然の恵みでできたこの白い綿をふとんに使うことはやはり体にとっていいのではないかと再確認しました。 羽毛や羊毛も確かにすばらしい繊維であると思います。しかし鳥の巣や動物の毛を取る人間の姿を考えてしまうとなんだか複雑な心境になります。木綿がすべてではないと思いますが朔から白い綿が出てきたとき「この白い綿はあなた方への産物です」と思ってしまうほどすばらしい天然繊維なのだと改めて感激しました。 「育てていくうちにかわいくなってしまうんですよね。」博物館の職員の女性は笑いながらいいました。木綿の良さを伝えればきっとふとんも再評価されるのではないかと思いました。 次回は世田谷で活動している「綿の会」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年1月に執筆されたものです

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