20.先生、綿は土に帰るんです ~東京農業大学・玉井先生との協力でふとん環境問題に一石を投じたい~

1_0801_01
地球温暖化は本当に深刻な問題である

深刻になってきたふとんのリサイクル問題
ふとん業界は本当に深刻だ。専門店は毎年数多く店じまいをし、綿だけでなく羽毛や羊毛の輸入量や生産量も減少している。しかしだからといって各メーカーが何も対策をしていないわけではない。同業他社の経営者や従業員と会えば彼らも相当の危機感を持っているし、差別化を図った商品開発も行いそれぞれ切磋琢磨に頑張っている。僕らもその姿に影響されて日々励んでいる。
だが「売上」ばかりを気にしていてはお客様から信頼されないばかりか企業成長力が後退していく。なぜなら・・・現在、僕たち地球の最重要テーマである「環境問題」を各企業が解決出来る術を考え実行しなければもはや未来に生き残れることが厳しくなるからだ。
僕たちが使う「ふとん」は人が社会に出てから老人になるまで3回ぐらいしか買い換えないのではないだろうか。つまり10数年に一回の割合。綿ふとんは数年に一回打ち直しを薦めているがこの通りに出す人はなかなかいない。やはり衣類と違い購買頻度、購入必要度が全然低い。それにお客様の声で知ったのだがふとんが欲しくても自宅の押入れに数多く残っているのを考えたら新しく買うことに躊躇すると言う人が多いのだ。自宅の押入れのふとんとはほとんどがかつて来客用として使われていたもの。昔は親戚などが自宅に遊びに来てそのまま泊まるという習慣があったが最近は日帰りや近くのホテルを利用する人が多いからほとんど使わなくなった。
だからただでさえ購買頻度が低い「ふとん」はこのような原因でさらに頻度が減っているのも一因だろう。その押入れにあるふとんだって決して新しいものではないが、あまり使っていないので捨てることが出来ないのだ。実はふとん業界が今悩んでいるのがこの「ふとん」の処分なのだ。環境にプラス面の処分方法が見出されれば押入れのふとんもどんどんなくなっていくのにそれが出来ないでいるのだ。

当社のHPには幾度も書いているが不名誉なことだが東京都の(全国的な平均で見ても)粗大ごみの不動の1位はふとんなのだ。それは国も市町村もふとんの処理方法から消極的な動きを続けているのも原因だ。なぜならあまりにもふとんの素材が多種にわたるため、いちいち分別することはコスト的にも時間的にもリスクが高いからだ。確かに綿、合繊、羽毛、羊毛、それぞれ分別しても同じリサイクル技術は出来ないし下請けの処理工場も点在しているので配送のコストも大変だ。 だがメーカーだけでなく行政もどうしていけばいいのか困っている。しかし彼らも対策を考えていかなかればこのままだとふとんだけリサイクルせずに燃やし続けるという地球温暖化をさらに助長させるというとんでもない存在になってしまうのだ。
僕はこのことに危機感を持ち、無謀だったが環境のトップに直談判したことがある。
しかし有難いことに当時の環境省の大臣だった小池大臣やその後に就任した若林大臣の両先生はふとんのリサイクル問題に興味を持ってくださり話せる機会を持てた。小池先生はふとんが粗大ゴミの1位ということすら知らなかったのだがそれぐらいいかに地味で目立たないふとんだが年間55万枚以上のふとんを燃やしているのを知って驚いていた。この量を減らせれば日本のC02の排出量はもっと減らせるのは簡単に想像できるだろう。

当社のような中小企業が騒いだどころでトップの機関が重い腰を上げてくれるとは思っていないが、僕はそれでもあきらめずにあちこちでふとんの処理問題について動きを止めずに問題提起を続けている。だがそのおかげで東京本部のある渋谷区のトップである区長もふとん処理問題に取り組みたいと昨年秋「渋谷区ふとんリサイクルアドバイザー」という新しい名称を作り区民のふとん処分方法などをアドバイスするようにと当社が委嘱を受けた。
そして昨年末にもう一人手を挙げてくださった方がいた・・・・。
東京農業大学農学部の玉井富士雄准教授である。玉井先生は作物学を主に教えていて作物環境や自然環境への研究にを行っているのだ。最初、僕は大学のホームページを見てそれらしき研究をしているA先生の研究室を調べて大学の広報部に当社が連絡したい主旨を伝え連絡先を聞いたのだがそのA先生が大変親切な方で「それなら玉井先生に聞いてごらんなさい。あなたのやりたいことと先生の研究は近いかもしれない。僕の紹介だと言っていいから」と先生の連絡先を教えてくださったのだ。そして僕はふとんの環境問題について紹介頂いた玉井先生に大人げなく子供のように興奮気味に延々と話してしまった。先生は冷静な口調で「うん、実に面白そうですね。どういう成果が出るか分かりませんしお役に立てる可能性がないかもしれませんが一度会いましょう。」と言ってくださり後日会うことになった。

2_0801_02

僕は約束の日に厚木の東京農大へ行った。夕方、山の頂にあるキャンパスの裏に車を止めて僕は大学の畑や田んぼをしばらく眺めて郷愁の気分になりながら「いい場所で勉強しているなあ」とここの学生をうらやましく思った。彼らの食堂や教室からは美しい緑やこの景色を眺めることが出来る贅沢な学習環境だ。僕は先生の研究室に向かおうとエレベータに乗り込んだがドアが開くと目の前に先生が迎えに来てくださったいた。僕は恐縮しながら先生の部屋へ入った。「どこかでおたふくわたって聞いた事があるなと思っていなかのおふくろに電話したら看板がそこらじゅうにあったから良く覚えていると言っていてね。うちのふとんも昔はおたふくわただったかもと言ってましたよ(笑)」この先生のリップサービスで気を良くし反省を忘れる悪癖がはじまり、またもこの日、興奮気味に先生に会社の案内やふとんの環境問題について熱く語り出してしまった。幸い先生はお茶を飲みながらうんうんと聞いてくださっていた。
・・・先生に以前から話していたこと。それは当社のHPにも書いていたが「ふとん農法」の研究である
昔は綿ふとんなど天然繊維しかないころは例えば田んぼの上に敷くことにより綿の間から苗だけが生えて雑草は綿の下で枯れ立派な米が出来たという。水田なので綿は1年経てば自然に溶けていったという。先生の話では畳なども綿に比べれば時間を要するが自然に放置しておけば土になじみ消えるといっていた。「綿も畳も天然繊維で植物なんだから土におけば戻るという理屈はおかしくない」と話された。
そのふとん農法、最近は製綿メーカーなどが農法用に綿100%の農業用シートを作り各農家に納めている。つまり使用したふとんそのものではない。
僕は先生に古い綿やふとんを研究に使ってほしいと頼んだ。側生地は取り除きまた別の方法で利用し(雑巾などとして)中綿を大学の土壌でうまく利用できないか・・・。配送は僕や社員が行い研究時も付き添わせてほしいと話した。「あなた達も来てやるのですか?」先生は僕の顔を見ていった。もちろんですと答えた。ただ使い古したふとんを送っていたら至極失礼である。それじゃ先生にただ処分をお願いするだけになってしまい意味がない。悩む先生に「先生、僕が綿にこだわるのは家業だからというだけではありません、綿は土に帰る。この言葉を実行したいんです。」と正面を見て僕は少し大きい声で話した。少し間を空けて先生は「よし!分かりました。やってみましょう。おたふくさんも来てくれるなら一緒にやりましょう。どうなるか私にも見当つかないですが面白そうだ。」
良かった!これで前進出来るぞ、僕は思わず先生と握手してしまった。
「頑張ろう・・」車に乗り込んだときのあの美しい夕焼けの景色が今でも鮮明に覚えている。ということでいよいよ東京農大とおたふくわたのふとん農法研究が始まるのだ。

3_0801_03
綿は土に帰る・・・(写真はイメージです)

後日、玉井先生から「今回の実験に興味を持った生徒もいます。受験シーズンを終えたら動きましょう」と連絡を頂いた。小さい一歩だが大きな成果が出ることを期待する。この研究は東京農大と当社で後に然るべき環境機関に提出出来る様な内容にしたいと考えている。
次回は「博多が動いている」について書きたいと思います。


九代目 原田浩太郎

※このコラムは2008年2月に執筆されたものです

[add_pager]

19.再び「おたふくわた」復活?~沢山の出会いや再会があった2007年・・・ 来年は最高の「おたふくわた」を作りたい。~

お客様の一言に愕然とした・・
いま博多でこのコラムを書いている。ここのところあちこちで催事が多くなり、僕や社員の皆が交代で開店から閉店まで売場に立っている。催事の醍醐味は多くのお客様と出会い、そして貴重な一言を頂けることだ。お客様の声が何よりも参考になる。新聞、雑誌、ビジネス本もいいが現場で消費者の声を直接聞けるのだから言うなれば無料でマーケティングリサーチが体験できるのだ。やはり仕事の要は「人との出会い」に尽きる。
そういえばこの1年は本当に多くの人との出会いや再会が体験できた。今年は百貨店、通販だけでなくホテルや旅館、そして異業種メーカーとの取引も多く決まった。知人、友人の紹介で商談がまとまったものあるし、数年前から地道に営業を続けて、担当者との信頼関係が出来て実った商談もあった。本当に感謝の1年である。
僕がこうしてハイテンションで会社を頑張れるのはやはり応援してくれる取引先や多くの友人、そして僕の人生の先輩でも当社のブレーン達のおかげである。博多、青山に30代~70代と幅広い従業員や役員がいるおかげで色々な立場からアドバイスをもらえるのが本当に幸せである。やはりいざという時は経験がある人の一言というのは重みもあり説得力があるのだ。社長とはいえこの様な人たちのアドバイス抜きには前へ進むことは出来ない。

1_071220_04

昭和50年代の本社の
研究開発室

そして「おたふくわた」に重要なのはやはり「お客様の生の声」である。当社の最高級手作りもめんふとん「おたふくわた匠」の誕生も、おたふくわたが復活してまだ間もない時に行ったある催事に来てくださったお客様のひとことが大きなきっかけだった。そのお客様は僕のもめんふとんの説明を聞いたあと「そうねえ・・・どこのふとん屋さんも生地も中身も天然の綿を使っています。と言うけれど生地の染料も天然ですとこだわる店は最近どこにもないわね」僕は愕然とした。「しまった!」と思った。お客様にその瞬間「ありがとうございます」と言ったのを覚えている。
僕はその一言をきっかけに時間をかけて全国の綿織物産地から生地を取り寄せたり織元に直接見学しにいった。最後に気に入った生地を数枚ピックアップして呉服屋を営む義父に目を閉じてもらいふとんに合う生地として手触りで選んでもらったのだ。僕が一番気に入っていた生地と義父が選んでくれたのが同じだったそのときの喜びは今でも忘れない。そして完成したのが越後片貝木綿を使ったおたふくわた匠である。この生地は直接カバーをしないで寝てほしいと薦めている。また打ち直し時もまた再度利用できるほど長持ちのする綿生地である。来年、僕はそこでまた催事をするのだがあのお客様が来てくれないか秘かに期待している。

2_071220_01
昭和28年頃の博覧会展示

「おたふくわたって綿屋でしょ?」
そんなお客様の声で今年一番気になったひとことが「おたふくわたって綿屋でしょ?」である。春過ぎに催事を行ったときに年配のご婦人がチラシを片手に僕と社員のそばに来た。「懐かしいわねえ、おたふくわた!案内のチラシを見て嬉しくて急いで来たのよ」とチラシをカバンにしまいながら笑顔でそう言った。僕はさっそくふとんの話をしようとしたらその瞬間にカバンからメモらしきもの出して「あのね、私自分で家族のふとんを作ったりしてんだけど・・そりゃ素人だから下手だけどね。でも母親から教わってね今でも作ってんのよ。今日はお父さんのふとん少し綿増やしたいから2本ぐらい売ってくれる?」と言ってきた。

ご婦人の顔を見て僕は数年前の天然の生地について指摘された光景を思い出した。当社には巻き綿といってはんてんやざぶとんなどの足し綿は販売しているがかつてのようなふとん綿はまだ市販化していない。電話やメールでの問い合わせはたまにあったが直接聞かれたのはこの時がはじめてだった。まだ販売していないことを話すとさっきまで笑顔だった顔が急に険しくなった。「ええ?ないの?私いなかだからここに来るの結構遠かったのよ。
あなた、『おたふくわた』ってもともと綿屋だって知ってるの?なんかの新聞にも綿が復活とか書いてあったし、私の家のまわりのふとん屋さんもみんなつぶれたりして綿が手に入らなくて困ってたのに・・・綿屋なのにふとん綿売ってないっておかしくないの?」僕も社員も何も言えなかった。しかし僕は「創業は綿屋ですが復活してからは手作りのふとんを主力でしています。いつかは原点のふとん綿を売りたいとは思いますがいまは綿ふとんの良さをもう一度広めることに力を注いでいます」と言った。そのお客様は「ふ~ん」と納得していない表情をしていたが結局、巻き綿を数本購入してくださった。「すみません」レジで僕は謝った。そして「やっぱりふとん綿が必要な人がいるんだ」と痛感した。
先日の催事でも技能士の野原さんのざぶとん製作実演の途中に「おたふくさんの綿はキロいくらで売ってる?在庫ある?」と突然聞いてきたご婦人がいた。

3_071220_03
ベルトコンベアー

確かに僕はいつも「ふとん綿」の販売のことを考えてきた。しかしふとん綿を製造するとうのは相当のリスクがある。かつての当社がそうであったように販売量を計画し大量に生産する。その数は数千本の世界である(ふとん綿は関東の場合、1本3キロ前後が目安)。そして売れなければ当然在庫になる。どこの世界もそうだがこの「在庫」が一番やっかいなのだ。おたふくわたを復活させる上で周囲が一番心配したのがこの「在庫」である。だが僕は作りたてのざぶとんやふとんをなるべく販売したかったのでふとんに関しては在庫はほとんど出ないと考えていた。通販や百貨店でも「受注販売」の姿勢は基本的には崩していない。しかも近年、ようやく敷きふとんや腰ふとんなどが好調で売上を伸ばしているが、ふとん綿で在庫を出したら一気に赤字にいってしまう恐れがある。せっかくここまで細々と実績を出してきたのに逆転してしまう可能性もある。一度寝具業をやめた辛さを知るだけになかなか決心できなかった弱さが僕にはあった。

4_071220_02
30年代中期のトラック出荷

あちこちのホーロー看板で「日本一のおたふくわた」と宣伝してきたのはふとん綿を中心に国内生産量、品質、売上ともトップであったことを誇りに頑張ってきたからだ。今は国内生産量、売上はトップにならないだろうが品質は日本一だと自負している。現在、当社のふとんの中綿はインド、エジプトの最高級綿である。このままこれを販売するのかそれとも各国の綿を再度見直し市販化用にさらに研究を進めるか計画中である。お客様の声やふとん屋さんの声を聞き、やはり僕は在庫がなるべく出ないように計算をし「おたふくわた」というふとん綿を夏前に販売することを決めた。おたふくわたの本当の復活は綿屋を復活させることだというのは自分でも良く分かっている。しかし今年も多くのふとん屋さんがつぶれている。全国のふとん綿の量も年々落ちているし各主要原産国もふとん綿より紡績、あるいは農作物に転化しているのだ。本当に残念でならない・・・町のふとん屋さんが元気になるような、お客様が喜んで作るような綿を復活すると決心してもこれだけマイナス材料が多いとそれを販売することは相当覚悟のいることだ。しかしやるしかないだろう。2008年、「おたふくわたブランド」は復活5年目になるが年男である僕の来年前半目標は「おたふくわた」の復活である。
読者の皆様1年間ありがとうございました!来年もおたふくわたを応援してください!
皆様にとりましても素敵な1年でありますように。
新年第一号のコラムは「先生、綿は土に帰るんです!」です。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年12月に執筆されたものです

[add_pager]

18.ふとんも豆腐も木綿でしょう! ~店名もご主人の名前も知らないうまい豆腐屋さん~

1_071101
ひときわ目立つ神保町の豆腐屋さん

最近、某有名通販会社の本社が神保町にあるので頻繁に行くようになった。「神保町」は以前コラムで書いたが僕が大好きな町の一つである。
http://otafukuwata.com/wp/?p=420
学生時代はプロレスショップや後楽園ホールにも良く行ったし、仲良しの同級生も近くに住んでいた。そして通っていた予備校もこの場所にあり、多くの友人が出来て(予備校で友達出来るというのも微妙だが)今でも連絡しあっている。そしておいしい店が沢山ありたまに仕事で近くを通るとき、ここに立ち寄ってランチを食べて気分は「学生時代」に帰っている。
その大好きな神保町にある通販会社の隣に、かなり、かなり古い(失礼!)建物の豆腐屋さんがある。このあたりは近代ビルが大きく建ち、オフィスビルや日大王国と言われるぐらい日大校舎がそびえ建っている。そんな中に2階建ての昭和レトロな建物がぽつんとあるので否応なしに目立っているのだが、先日、通販担当者との打ち合わせ時間よりも早く着いたのでその豆腐屋さんに目をやると、入り口に「お・い・し・い 豆乳」という何とも微妙な手書きの張り紙に目がいった。根拠はないがなぜかこの張り紙が昼食前で少し空腹だった僕の食欲をそそり、ついに中に入った。

2_071101_02
うまい!

するといかにも人が良さそうな40代前半の男性が長靴を履いてやってきた。
「豆乳をください」と僕が言うと「出来たて作ってあげるよ」と返事してくれた。
すぐ目の前の冷蔵庫に何個か入っていたが出来たての豆乳を入れてくれた。店内でそのまま飲んでいいということだったのでフタを空けて飲んでみた・・・がっ!その一口飲んだ瞬間、「えっ!?ソフトクリーム」と思うぐらい舌に冷たくて少し甘い感じのすぐその後あの新鮮な豆腐の味に感激してしまった。えっ!こんなに豆乳っておいしかったっけ?こんな味覚ははじめてである。コンビニ慣れとは恐ろしいものである。
僕はその豆乳を飲んで一気にテンションがあがり、いつもの悪癖「おしゃべり原田」が始まってしまった。「ここのお店は長いんですか?」「いやそうでもない70年ぐらいだよ」「いやいやそれって長いでしょう(笑)凄いなあ」「もっと古い店はこのあたりあるよ」「それでも70年もこの場所で続けてるって凄いことですよ」「でも僕の代でつぶれるよ」「そんなことないでしょう」「いや誰も豆腐屋なんてやりたがらないよ」「いやそんな・・・」その先に結婚や子供の事を聞こうとしたがわずか5分前に会った人に聞く質問じゃないだろうと話を変えた。このあたりは今じゃ考えられないぐらい商店街が多かったという。確かに江戸時代では商いの中心地、日本橋を中心にその周辺は宿屋やおいしい蕎麦屋やウナギ屋、などの食堂や商店が多かったと書物に書いてある。その流れでいけば江戸城(皇居)や日本橋に近い神保町も当然その流れがあるだろう。
僕は調子に乗って2杯目を頼んだ。その方は「おかわりですか・・・めずらしいなあ」と笑いながら入れてくれた。何でもビジネスマンなどが多く買いに来るらしいがおかわりする人はいないそうである・・(恥)。そして僕はついに豆腐を我が家のおみやげとして買ってしまった。持ち帰り時間を言われたが一旦会社の冷蔵庫に入れると話したので安心したようだ。おぼろと普通の豆腐。自分で笑ってしまったが「絹か木綿?」と言われて自然に「木綿」って言ってしまった。本気で一人でクスッと笑ってしまった。でもあの少しザラザラしている木綿豆腐のほうが「食べている」っていう気がするのだ。絹はちゅるちゅるっと口に入りあっという間に喉を通り越していく気がする。僕にとっては程よい重さがいい木綿ふとんと同じで良い感覚なのだ。
おっと!あと3分で約束の時間だ。そのまま豆腐を持っていくわけにいかないので急いで車に豆腐を置いて商談先へ行った。そこの担当者に余談でこの話しをしたら「みんなあそこで豆乳飲んだりしていますよ」と話した。おお!やっぱりねえ!「体にいいし肌もつるつるになるし。しかもあの店の感じもホッとするでしょ」なるほどねえ。「じゃこのあたりの社会人はスタバより豆腐屋ですか!」と話したら大声で笑いながら頷いていた。
自宅に持って帰ったおぼろ豆腐や木綿豆腐はやっぱりおいしかった。食いしん坊の僕なのにめずらしくその日は白い炊きたてのごはんを食べずに豆腐だけで済ませてしまった。そのぐらい豆腐が凄かった。息子もパクパク食べていた。ああコラムで味を伝えられないのが残念だ。
僕はそれから商談の時や通りすがりのときもそこで豆乳を飲んでいる。さすがにこれだけ通えば向こうのご主人も僕の顔を覚えている。何歳なんだろう。何代目なんだろう。継ごうと思った動機はなんだろう。本当は店を続けていきたいはずなんだよなあ。だって3人ぐらい従業員だっているし結構慌しく豆腐作っている姿はとても店を終わらせようと思う姿じゃない。でもいつも図々しく話し掛ける僕がめずらしくそんな質問が出来ないでいる。もう10回以上は来ているしそこそこ世間話もしている。何でだろう・・・
それは!あのご主人に僕が負けているんだよ。僕はあのご主人に仕事の姿勢が負けていると心の中で認めているんだと思う。古い店だがかっこつけずに昔ながらのままで淡々と豆腐を作っている。ご主人も派手な人じゃないし大人しそうな人。でもあのご主人の姿がさらに豆腐をおいしくさせているんだろう。
僕はどうだい?色々な企業とコラボしたり、新しい商品や事業をはじめているけどおたふくわたの原点である「すばらしい綿ふとん」を作り続けていこうと気合を入れているか。 
豆腐屋さんのご主人のように一極集中して作っているか・・・ご主人と話すたびに僕は自分の今の姿を気づくことが出来た。ここまで確かに走り続けて復活時には予想もしなかったぐらいおたふくわたは成長しているけれど少し止まって自分の足元を見ることにした。あのご主人は僕のそういう心境を何も気がつかないで今日も僕に豆乳を作ってくれるのだろうが僕は出会えたことが嬉しい。そう、もう一度「木綿」を考える機会をくれたから・・・。その件は次回に・・・
次回は「えっ?再びおたふくわた復活プロジェクト?」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年8月に執筆されたものです

[add_pager]

17.職人塾はどうよ?~元気ある若者が来て欲しかった~

1_0710_01
写真では分からないがかなり
気合を入れて大声で会社の
紹介を話している

ある親方が「寝てる奴は帰れ」と怒った。
ありがたいことに当社のホームページはデータによると月平均5万ヒットだという。つまり相当の人がおたふくわたにアクセスしていることになる。この業界で考えればかなりの数字だ。僕のコラムも色々な人に見ていただいているようで凄く嬉しいし励みになる。「毎月楽しみにしていますよ」と言ってくださる商談先もいる。しかし・・・今回は今までと違い少し辛口な内容になるので読者の皆さんぜひ許してほしい(苦笑)
以前このコラムに書いた「学校が消えたぞ! ~ふとん職人学校閉校~ ? 下書き」が昨年、日本で唯一存在していたふとん職人育成学校が昨年廃校になり僕は日本でふとんの職人を育てる場所がなくなったことに危機感を持ち、仕事を通じて知り合えた都庁の方にアドバイスをもらい今回、東京都職業能力開発協会が行う「職人塾」制度に参加することに決めた。学校法人やNPOを作る時間も資金も体力もないのでこのような条件の中、今回、実現できることになった。
この職人塾制度とは10代~20代のいわゆるフリーターやニートが対象となっており手に職を持ちたい人が東京都に申請書類を提出し、その後面接を行い、後日、わが社をはじめ多業種のいわゆる「親方」の企業説明会や個人面接を行い、採用されれば1ヶ月間に東京都に支援されながら見習い研修を行って、修了後自社採用又は他社を紹介し「見習い職人」としての道をスタートしていくというものである。
彼らがどのぐらい本気で職人の希望を持っているかは東京都と企業が行う面接、会社見学などでの姿勢である程度把握はできるが、現実問題である採用となると大企業なら話は別だが私達のような中小では、やる気があるからと誰でもすんなり採用というわけにはいかない。給与面の問題もあるし見習いが必要になるぐらい仕事が毎日舞い込んで来るわけでもない。企業の多くが未だに「人は欲しいが人件費や将来性を考えると難しい」と悩んでいるのだ。
僕ら「ふとん業」は初の参加なので東京都の人も参加が決まった昨年9月ぐらいから積極的にアドバイスをしてくださった。あれだけ丁寧に対応してくださったから俄然やる気が出たのはいうまでもない。そして6月のその日には僕らを含めて業種が15種類ぐらいの参加企業数30社程度の親方が集まった。フリーターだろがニートだろうがここに来たのは多少やる気がある若者だろうと考えていた。先述の通り東京都もある程度面接しているわけだしそこそこのメンツだと思っていた。しかし、少し遅れて入った僕らは着席して数分後に彼らの背中を見て驚いた。正しい姿勢でこまめにメモを取っている人間も多かったが僕が気になったのは、姿勢は悪いし、すでに寝ている奴もいて、やる気のなさを感じる生徒が案外多かったことだ。「何しに来たんだ!」と言いたくなった。

その状況を見てある親方は「俺は高卒で学も知もない人間だったが先輩の厳しい指導でここまで来れることが出来、会社を作れた。職人になるにはまず人間として立派にならなければいけない。なのにこうして俺らが来ているのに寝ているとは何事だ!そんな奴は帰ってバイトを探せ」みたいなことを言ってのけた。ああ素晴らしいなあ。僕は心の中で拍手をしていた。すぐに目が覚めた奴もいたがそれでも寝ている奴がまだいたのには驚いた。

2_0710_02
紹介のあと説明を聞きに来る生徒は
多かったが・・・

新しい成果が見えてきた!
「こいつらになめられちゃいけない。しかしこういう奴らにも堂々と綿ふとんの良さ、職人の魅力を伝えなければ」と僕は心に決め、自分の番で前の壇上に立ったときマイクを片手に大声で話しはじめた。そして綿ふとんのすばらしさ、色々な企業とのコラボレーション、職人のすばらしさを伝えた。そして手に職がある人は流行のIT関係者、外資系、金融などよりも強いと説明した。それは震災時に体育館に避難しても住民を助けることが出来るのは手に職がある人間だ、流行の業界はパソコンも会社も機能できなくなればどうしようもない。体育館でネットなんかやれる場合じゃない。しかし職人はそこらにあるものをすべて材料として作り上げることができる・・と僕なりの職人道を話した。
その成果があったのか最初は希望者ゼロだったわが社にそのあと面接・会社見学希望者が4人に変わっていた。僕は社員とふとんや会社の魅力を懸命に話した。そして会社見学のときは野原さんがわざわざ来てくださり生徒の前でざぶとん実演をしてくれた。全員がざぶとんが出来上がっていく姿を見て驚いていた。1時間の実習時間だったが皆集中していた。

しかし1ヶ月の見習い希望者はゼロだった。後から聞くとふとん職人は「体力的にも大変」「すぐ稼げそうもない」などが主な理由らしい。つまり汗をかくわりには金にならないという印象を持っているそうだ。「何じゃそりゃ?」と僕はあきれた。楽な職人なんているわけ?すぐ儲けられる商売があればもっと職人が多いはずだよ。僕は見に来た生徒たちの悪口を言うわけじゃないけどあまりの情けない断り方にあきれてしまった。
結構人気のあった手ぬぐい染業者に生徒が集中してみんなそこへの見習いを希望したという。手ぬぐいは結構ブームになっているからイメージも良いしそんなにハードな印象がないのだろう。しかし手ぬぐい業者さんも昼休みに「もう不況で大変だよ」と嘆いていたのを僕は聞いていた。手ぬぐいだって大変な作業だし、人気があり希望者が多いからこそ実力がより問われて金銭的に満足するのは相当時間がかかるのを彼らはわかっているのだろうか。1枚の手ぬぐいだって大変だよ。それに1枚のふとんを作れれば手ぬぐいの1枚よりもお金は手に入る。半ばジェラシーのような考えだが僕はそれぐらい若者の元気のなさ、ガッツのなさに驚いてしまった。
しかし僕はあきらめない。せっかくの制度だから来年も参加をしていこうと思う。そしてこの職人塾に参加していることがふとん業界でも広まりつつあって最近は弊社の職人塾教室「おたふく寺子屋」を使ってふとん作りの授業をしたいという問い合わせが増えてきた。秋には2人ほどの生徒さんが来る予定だ。周囲の協力があってはじめてこの育成問題は対応できるようになってくる。僕は自分の会社に職人を増やすという利己的な考えではなくふとん職人を育てる場所がなくなったことでこの教室を作ったのだ。おたふくわたと関係のない方でも全然構わない。とにかくふとん職人に興味を持った人は声をかけてほしい。でもやる気があるかどうかは確かめますよ(笑)
次回は「ふとんも豆腐も木綿でしょう!」について書きます

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年6月に執筆されたものです

[add_pager]

16.監督最高!~「神様がくれた時間」映画監督・岡本喜八さんの幸せな散り方~

鬼才・岡本喜八映画監督夫婦の番組を観た
5月のある金曜日に家内と子供たちが早く寝てしまったので、久しぶりに一人でテレビを観た。チャンネルをNHKに廻すと、がんで2年前に亡くなった映画監督・岡本喜八さんとそれを支えてきた妻・みね子さんの番組「神様がくれた時間 ~岡本喜八と妻 がん告知からの300日~」をしていた。僕は結構、映画が好きで結婚前はそれこそ良く映画館に足を運んでいたし(試写会も友人と良く行っていた)週末になると自宅でケーブルテレビの映画チャンネルを1日中見ていたなんてこともしばしあった。(ちなみに僕の好きな映画はロバートデニーロ主演の「タクシードライバー」エディーマーフィーの「星の王子様NYへ行く」そして白黒映画のジャックレモン主演の「アパートの鍵 貸します」である。)
そういったわけで岡本喜八さんの作品も映画チャンネルで観たことがあるので、興味があってチャンネルをそこで止めた。
喜八さんはがんを宣告されてから「病院なんかで死ぬより自宅で死にたい」という希望を持ち、妻であるみね子さんは在宅介護を決心したのだが番組はその300日間を再現ドラマとみね子さんのインタビューとの交互で伝えていった。妻のみね子さんが早稲田大学在学中のときに当時新人の映画監督であった喜八さんを取材したのが出会いのはじめなのだが、そのあと喜八さんの鬼才ぶりはなかなか映画会社にすんなり受け入れてもらえずプロデューサーなった妻と二人で貧しい生活を続けながら自宅を撮影場所などに使い映画を作っていった。徐々に作品の評価が高まると戦争映画や時代劇などさまざまなジャンルで鬼才ぶりが発揮され、それが「独立愚連隊」、「日本のいちばん長い日」そして「大誘拐 RAINBOW KIDS」では日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞したり多くの作品を生み出した。

0901

喜八さん夫妻は神奈川県川崎市多摩区川生田の赤い個性的な屋根の家に住む。映画を撮り続けた2人にとってこの家にも多くの人たちが出入りしたので闘病してから初めてと思うぐらい2人の時間が出来たとみね子さんは話していた。みね子さんは喜八さんがいつでも撮影に行けるようにと起床後はトレードマークであるサングラスをかけさせ黒いセーターとズボンに着替え1日を過ごさせていた。しかし喜八さんの治療も芳しくなく症状はどんどん悪化し、ある日着替え終わった喜八さんは突然みね子さんの顔をじっと見つめて「どちらさんですか」と言い、みね子さんはその時大きなショック状態になり台所で泣いたという。
しかしいつまでも悲しむだけでは答えは出ず愛しの夫と決めた在宅介護でどうしたら夫の尊厳を保ててどう安らかに死を迎えられるかということを考えたという。介護から逃げずに前向きに痴呆になった夫と過ごすという精神力は並大抵ではない終わりのないトンネルを歩くのと同じだ。もう感動の嵐である。みね子さんは少しでも延命できるような生活や食事を考え、次回作になる予定だった映画の台本の読み合わせを毎日繰り返したという。

喜八さんが世を去る数日前にいった台詞
ある日、娘が介護の手伝いに来たとき、みね子さんは愛犬の散歩に出かけた。そして喜八さんが娘に(当然娘という判断は出来ていない)突然「あの~」と話しかけてきた。娘さんが「どうしたの?」と聞くと「僕には好きな人がいるんだよ」と話しだす。娘は台所から出て父の横に座り「へえ?誰が好きなの?」と問いかけると、ゆっくりとたばこをふかしながら「今ね、犬の散歩に行っている人がいるんだけどその人のことが好きなんだ。かわいくてとっても素敵な人なんだよ」と喜八さんは照れながら話したという。この台詞に娘は必死に涙をこらえながら笑顔で「良かったね。きっと相手もあなたのことを好きだと思うな」と応えたという。
そして2005年2月19日、喜八さんが81歳の誕生日を迎えた2日後に好きになったみね子さんの肩に体を寄せてタバコを一服たっぷり吸いこみ、その腕に抱かれて永遠の眠りについたという。映画のようなシーンだ。
再現ドラマの岡本喜八役は本田博太郎さんでみね子役は演じた大谷直子さん。ともに喜八監督がかつての映画作品にも多く登場しているので最高の演技力だった。

話が逸れるが僕の家内は結婚する前に「夫婦って好きとか嫌いではなく添い遂げるということが1番大事よ」と僕にいつも話していた。「添い遂げること」がどんなに大変でそして素晴らしいことか・・・この番組を見て4年前に言われたその言葉を思い出した。
みね子さんの支えなくして喜八さんは映画監督人生を送れなかったに違いないし喜八さんもまたみね子さんに絶大な信頼を寄せていた。だからこそ天は喜八さんに美しい散り方をあげたんだと思う。人間どこで人生を終えてしまうか分からないのに妻に抱かれながら人生を終われるなんて喜八さん自身が名シーンを作ってしまった。
喜八さんが亡くなったあとしばらく外に出れなかったがようやく人前で話すことが出来るようになり今回の取材も受けることになったという。
恋愛だろうがお見合いだろうが出来ちゃった婚だろうが・・離婚率も増えた昨今、僕たちの世代がこの素晴らしい夫婦のように添い遂げることが出来るか・・・この番組で多くの事を考えさせられた。
最後にみね子さんの台詞を紹介したい
「映画しか頭にない人だったから、最後の何カ月は神様が2人のためにくれた時間だと思います。がんのおかげで新婚さんをしている気分でした」
次回は「職人塾はどうよ?」について書きます。お楽しみに!

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年5月に執筆されたものです

[add_pager]

15.飯塚良いとこ!井筒屋良いとこ!~その2~~こんなにあったかい催事ははじめてだった~

九代目のトークショー??
 僕が飯塚へ打ち合わせに行くたびに、久保社長や久田GMは3月の催事に向けて着々と準備を進めていた。今回は何を提案してくるかと博多から飯塚へ向かう高速バスの中でいつもワクワクしていた。開催1ヶ月前にお邪魔したときはおたふくまんじゅうの試作品、チラシ、レイアウト図が出来上がっていた。特におたふくまんじゅうのおたふく顔の烙印は上手に出来ていた。
ところが僕がおたふくまんじゅうをにこにこしながら試食していると、久保社長が突然身を乗り出し、のどにまんじゅうが詰まりそうな提案をしてきた。「そうだ原田さん、ぜひあなたのトークショーをやりましょうよ。綿への思い、おたふくわたの思い、これをテーマにぜひ開催記念としてやりませんか」
 違う。絶対に違う。突然思いついたように社長は話しているが以前から久田GMと企んでいたに違いない。時期を見誤り早いうちから提案して僕が断ると困るのできっと今になって切り出したんだ。開催まで4週間しかないし印刷の入稿どうのこうので返事を急かせるつもりだったのだ。
 しかもトークショーは午前・午後2回やるという。カリスマなんとかじゃあるまいしお客が入らないんじゃないかと心配した。確かに人前で話すことは結構慣れているので気分的に悪くはないが、トークショーという舞台は始めてなので妙な感じがする。しかし久田GMは笑いながら 「大丈夫!世間にアピールすることが大事でしょう。きっとマスコミが来るからその時のために客が来なかったらサクラを用意しますよ(笑)」 と話した。しかし久田GMの顔には「客は来るよ!安心しろよ!」という表情だった。ここまで自信にあふれていると心底信頼して仕事が出来る。よっしゃ!やろうじゃないのトークショー。久保社長もなんだかニコニコしていた。
チラシの原稿、まんじゅうの試食、レイアウトの確認を済ませ・・あとは翌月の催事のみとなった。

1_0707_01
開催1日前・・ほぼ完成

3日間があたたかい空間に包まれていた。
博多での打ち合わせを終え、そのまま高速バスに乗り飯塚に到着。飯塚井筒屋の従業員入り口で手続きを済ませ催事の会場へむかった。ところが・・・すでに箱が全て開けられふとんの準備が進められていた!先に社員が行って準備をしていたのだがここまで出来ているとは思わなかった。しかし社員も僕に「実はここの皆さんが荷物が来た時点でダンボールを空けていたんです」と教えてくれた。「おっ!お疲れ」いつものさわやか体育教師口調で久田GMが来た。「昨日ね全部のマスコミに声かけておいたからね。明日沢山来るよ!」と話かけてきた。えっ?全部?なんだか分からないがもういい全て久田GMに任せている。
デザイナーの方があれやこれやと動いていた。僕が来たときはホーロー看板をぶらさげようとしていてくれた。ふとんの価格やうんちくなどもその場でパソコンで作ってPOPにしてくれた。小さい百貨店の強み・・・対応が早いし人間同士の距離が近いので誤情報も少ない。店員同士もまるで家族のように話している。この良い意味でのほのぼのさがお客にとっても居心地がいいのだろう。ほのぼのさがなくなれば天神などにある都会的な百貨店と同じでありそれらは飯塚には不要である。
ほぼ準備が整ったとき一人の新聞記者が来た。えっ?催事は明日だけど・・違う、前日だと知っていて取材に来たのだ。出し抜きを狙っているということか。へえ!おたふくわたの催事を大きくニュースにしてくれる。他紙に負けないよう先に来たというのが面白い。僕は飯塚の名物劇場である嘉穂劇場をイメージしたざぶとんを持って写真に収まった。翌日の朝刊に大き目の記事で出た。久田GMが「他紙が来ないねえ。昨日の記事が悔しかったんじゃない?でも新聞社は平等に声かけたからねえ。来たもん勝ちだね」新聞を持ちながら久田GMはそういった。

2_0707_02
いよいよ催事がはじまった

さていよいよ開店である!ちらほらお客が来た。嬉しいなあ・・・僕と社員は話しかけてみる。わが社に対して思い出があるというのがとても嬉しい。あるご婦人はホーロー看板の前でしばらくの間立っていた。僕が話かけると我に返ったように目を開き「看板が残っていたんですね。私の青春時代にねえこの看板があちこちの家に貼ってあってねえ・・・あの頃がよみがえってきたんですよ。おたふくさんの顔がこうしてここにあるなんて」ホーロー看板を掲げたのは正解だった。やっぱりおたふくわたの全盛期を知る人にとってはわが社はこのホーロー看板だと思う。
 そしておたふくまんじゅうも大好評で列も出来た。持ち帰る人もいればその場でお茶と一緒に召し上がる人もいる。おまんじゅうを食べながらおたふくわたを懐かしんでもらう。
腰掛けている人はみな柔和な顔をしてホーロー看板やパンフレットを眺めていた。奥から覗き込んでいた久田GMがずっと笑顔だった。イメージ通りの会場の雰囲気だったのだろう。
僕のトークショーは午前の部はありがたいことにサクラとは言っても差し支えないがほぼ親戚会と思うぐらい集まってくれたので一般の人もなんだなんだと興味津々で集まってくれた。午後の部は完全に一般の人だけだった。椅子が埋まってくれたのでひと安心である。トークショーの後はテレビやラジオの取材も受けた。

3_0707_03
ホーロー看板は好評だった
(目の前にあるのは
トークショーの案内板…)

3日間の催事は大成功だったといえるだろう。皆で協力して作り上げたのでこの成功はとても嬉しい、特に久保社長、久田GM、今回の催事を持ちかけてくれた、はとこの嶋田吉勝理事長の3人には心から感謝している。この方々の支えがなければこのような成功は絶対出来なかったのだ。
 「懐かしいだけじゃない新しさがある」・・僕が商談先への提案書などに良く使うキーワードだ。確かに今回の催事ではホーロー看板や手作りはんてん、ちゃんちゃんこなど懐かしさを思わせるものも展示していた。しかしおたふくわた~花~などの新作は木綿ふとんではめずらしい斬新な花柄のデザインだし、がばいざぶとんや坐禅ふとんなども昔にない商品である。今回来場頂いた方にはおたふくわたの新しい顔も見てもらえたに違いない。その証拠に新作のおたふくわた~花~が予想以上に一番売れた。
しかしこんなにあっかい催事は、これからも僕は体験することがないだろう。社員にとっても貴重な経験になったはずだ。さて来月もいつものように飯塚へ打ち合わせに出かける。久保社長、久田GMの新たな戦略を聞くのが楽しみだ・・・・
次回は「監督最高!」を書きます。お楽しみに!

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年4月に執筆されたものです

[add_pager]

14.飯塚良いとこ!井筒屋良いとこ!~その1~~お客様も理事長も社長も店員さんも全員あったか~い催事だった~

1_13_img01

本町商店街の中にある飯塚井筒屋

四代目の原田平五郎は飯塚出身である
今年3月に福岡県飯塚市にある市内唯一の老舗百貨店「飯塚井筒屋」にて「おたふくわたフェア」が開催された。九州にいらっしゃる方にはいらぬ説明だが飯塚市は福岡県内で「筑豊地方」といわれる場所にありちょうど県の中部あたりに位置している。 昨年は4つの町と合併し県内では4位の人口都市となった。
「飯塚」という地名の由来は諸説あるがまず神功皇后が部下である兵士が帰郷せずに皇后に従い飯塚まで来たので 「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、イヅカ(飯塚)の里というのと、もう一つは聖光上人が、明星寺再興の建立のとき民を集め炊いていたご飯の量があまりにも多すぎて山盛りになりそれが塚のような形だったので「メシノツカ」飯塚と呼ばれるようになったとも言われている。
江戸時代には長崎街道が整備されて宿場町として栄え、明治あたりから石炭の町として発展し石炭業では国の中心的役割を果たすようになった。(外務大臣の麻生さんもここの出身であり麻生家は石炭事業で財を作りあげた)後に石炭産業は衰退、閉山によって過疎化が進んだが飯塚は数多くの学校や歴史の博物館、嘉穂劇場といった伝統的な劇場を復活させたりと町の活性化に力を注ぎ人口は微増しているという。このあたりは饅頭のメーカーが数多くあるのだが炭鉱で働く労働者達が疲れた体に栄養をつけるために饅頭を食べていたのであちこちの町に多くの店が誕生したと言われる。全国的に有名な「千鳥饅頭」もここが創業地であり現在でも本店がある。
弊社の四代目・原田平五郎は家具業などを営んでいた商家である嶋田家の五男としてこの飯塚で生まれ育った。高校時代からは博多に住むようになりその後、東北大学を卒業後、東京の大手造船会社に勤めている最中に僕の祖母にあたる喜久子と結婚し、おたふくわたの婿養子となったが、もとは純粋な飯塚っ子なのである。
僕がなぜ祖父の生誕地である飯塚でこのような催事が出来たのかというと、今から2年前の冬に祖母の13回忌と父の25回忌を代々の墓がある博多のお寺で行い、その後行われた食事会で僕と「はとこ」の関係にあたる嶋田吉勝(きちたか)氏と話したことがきっかけだった。嶋田氏の父と私の父が従兄弟にあたり、つまりは嶋田氏の祖父は平五郎の兄になるのだが、嶋田氏は現在、飯塚市で個性ある学校として有名な飯塚高等学校をはじめとする嶋田学園の理事長として活躍されている。
その嶋田氏が「おたふくわたを復活したことが凄く嬉しいよ」と話しかけてくださったのだがそれまでは何回か法事などで顔を合わせることはあったが今回のようにゆっくり話す機会がなかったので本当に嬉しかった。
僕が東京に戻った数日後にその嶋田氏から電話が掛かり「もし機会があれば浩太郎君のおじいちゃんが生まれた飯塚で催事でもしてみないか?」と誘ってくださったのだ。そして「実は飯塚井筒屋という小さな百貨店があるんだけど、そこで催事をしたらどうかな?そのあたりはかつて嶋田家の店や家があってね。おじいちゃんはそこで生まれたんだよ」と教えてくれた。僕は「小さな百貨店」と「おじいちゃんが生まれた場所」というキーワードに面白さを感じ「ぜひやりましょう!」と即答した。おたふくわたを大きく育て戦後の博多復興にも多大なる力を注いだ祖父に恩返しをするために、その祖父が生まれた場所に建つ百貨店で催事をするなんて見事なストーリーである。

2_13_img02
毎日新鮮な野菜などが入ってくる

いなかは強いんだよ!
僕はその後、嶋田理事長の紹介で飯塚井筒屋の当時常務であった久保社長とお会いすることになったのだが久保社長から名刺交換の際「一度お会いしていますよ」と言われた。というのは久保社長は実はその半年前に岩田屋で行われていた催事に来て販売員をしていた僕を偵察していたのだ。えええっ?僕は気がつかなかった。悪さは出来ないものだ。
その久保社長だが年齢的には先輩であるが情熱的でかなりのアイデアマンであることに驚いた。とにかくお会いする度にポンポンと面白いアイデアが出てくる。僕も久保社長に敵わないが自称アイデアマンなので2人が話すとどんどん話が盛り上がり最後には汗がびっしょりで商談が終わるということが大げさでなく度々起きていた。
その社長の下で働く久田GMを始めとする従業員皆も熱い気持ちをもっている。そして「大きい百貨店じゃ出来ないことが小さい百貨店は沢山出来るんだよ。」全員がそういう気持ちを持っている。「いなかは強いよ!障害になるようなものがないからね。面白いとすぐ出来る」久田氏の目が光っていた。
飯塚井筒屋は飯塚市にある唯一の百貨店である。4階建ての建物で売り場面積も決して大きくない。おしゃれな洋服や流行のグッズはバスや電車で1時間以内で行ける博多の天神に比べるとほとんどない。それでもこうして町の人に愛され続け高い利益を出しているのは地域密着に完全に徹しているからだ。お客様には「いらっしゃいませ」ではなく「こんにちは!」とまるでご近所のように声をかけ、店の入り口には毎日新鮮な農作物が近くの農家から運ばれ、粋なおじさんがいつも笑いながらいい匂いの名物のほんまちまんじゅうを作り、店員さんとお客がまるでご近所の奥さん同士のように話し込んでいるのだ。
僕が行ったときには「世界のカブトムシ展」をしていたのだがその中心部に小さい森のようなコーナーがあり直接カブトムシを触れるのだが驚いたのは都心の催事でも見かけられない超めずらしいカブトムシも普通に木にいたのだ。「こんなに高価なカブトムシ・・角とか取れちゃったらどうするんですか!!!」と聞いても「取れんよ」とあっけなく答えた久田GMの姿は今でも忘れない。う~んこれが「いなかは強い」という意味なのかなあ・・・。
しかし僕は子供たちを見て気がついた。こんなにめずらしいカブトムシを触れることに子供たちは喜びながら、めずらしいこのカブトムシの角なんかが取れたらマズイと思い、全員が慎重にさわる。子供と百貨店の間にそういった信頼関係があるのだ。凄い。

3_13_img03
大人気で毎日売り切れるほんまち饅頭

翌月には見学した小学生から多くのお礼の手紙が来ていてその手紙を階段の踊り場に張り出していた。う~ん・・・飯塚井筒屋は地元にとっては居心地の良い喫茶店であり、学校であり、文化祭であり、そして百貨店なのだろう。
久田GMは「あなたのじいちゃんがここで育ったんだろ?なら盛り上げなきゃ。飯塚の人だってまだまだおたふくさんが復活したの知らない人が多いよ。いなかでしかできないおたふくフェアやろうよ。ここの催事場を時代劇に出てくるような茶屋で演出していこうと思うんだ。立派に作る予算はないけどいい空間作れるよ。お客様がお茶を飲みながらおたふくの看板を懐かしく見る空間を作ろう」と会場の端で腕を組みながら話した。
そして横にいた久保社長が「そうだ!1階で販売している飯塚ほんまちまんじゅうを限定でおたふくまんじゅうにしよう。」と言い出したのだ。「いいですねえ。ならそのまんじゅうとお茶を出しながらおたふくわたの思い出を語ってもらいましょう」と久田GM

こうして僕の存在を無視してどんどんと企画が進み3月に今まで僕らが経験したことのない催事場全部を使った巨大なおたふくフェアが開催されるのである・・・。
次回はその2を書きます。お楽しみに~!

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年4月に執筆されたものです

[add_pager]

13.「僕の掃除論」~毎日僕が超元気な理由は早朝の掃除である~

毎朝「掃除」をしている
「原田さんはいつも元気ですね」と周りから良く言われる。この「超元気」は自分だけでなく家族や社員、さらにはお客様や商談先に対しても元気を与えコミュニケーションがより円滑になったりするのだ。ただ一方では僕のような人間を苦手とする人もいてうざったいと思われることもある・・しかしそれぐらい僕は毎日ほぼ同じハイテンションであるということなのだ。周りにどう評価されようが僕には元気しかとりえがないし自分が超元気でなければ会社も社員もどんどん暗くなっていくと思っている。社長は会社の名刺だと思うから自分が気に入らないからとそのときの気分で機嫌が変わることは言語道断だしそういう時こと怒りを抑えて超元気でいることがまた一つ僕をおりこうにしてくれるような気がする。
偉そうに書ける立場ではないが僕にとって経営者とは「リスク」を背負うことが一番重要な仕事と考えている。売上、資金繰り、テナントが快適に過ごせる環境作り、危機管理、品質管理、取引先との信頼、融資での個人保証、いずれも失敗は許されないしすれば全ては社長の責任である。しかしこれらのリスクを背負えるには「頭」も大事だが何よりもそれらを受けて対処できるだけの「超元気」が肝要だと感じる。確かに具合が悪いときもあるし、物事にイライラすることもある。それでも元気なのは、ある日課を端々とこなしているからだと思う。実は僕の「超元気」の源は4年半出張以外毎朝欠かさずしている「掃除」にあるのだ。今では掃除をしなれば1日を元気に過ごせないぐらい超重要な日課となっている。前夜遅くても微熱であっても雨が降っていても毎朝「掃除」をしている。

1_12_01
僕が使用している
ほうきとちり取り。
我が家で15年以上経つが
ほうきのこの曲がり具合が
案外葉を拾いやすい

そのきっかけは結婚して間もないころ家内の実家に泊まりその翌朝、江戸時代から続く老舗の呉服店を経営する義父に早朝起こされ1本のほうきとちり取りを渡され外に出たことにはじまる。義父の住まいは広大な敷地に自宅と店を構えているのだが、従業員も朝早く来て掃除をしている。僕もそれに従い掃除をしてみた。早朝しか聞こえないうぐいすの声、都会でも味わえるおいしい空気、落ち葉が消えきれいになっていく道や庭の景色、そして程よく汗をかき達成感を味わえる。さらに掃除を終えた後に食べた朝食のうまさは今でも鮮明に覚えている!そして「一生懸命掃除する浩太郎君の姿を見て人間性が分かったよ」といわれて僕は義父の人間としての深みもその時再確認したのだ。
単純明快の僕は翌朝から自宅で掃除をはじめた。6時に起きて家内の実家に比べ物にならない狭い敷地だが掃除をはじめた。家のゴミ出しをしてまずは自宅周辺の大きい落ち葉を手で拾い、次に小さいゴミや葉をほうきで掃く。そしてホースで水を撒き門扉などにはじいた水滴や雑巾で拭き、ついでに外灯やポスト、玄関扉も拭く。時間があれば道脇や庭に生えているドクダミなどの雑草を取る。雨上がりの日は葉がこびりつきなかなか取れないのでホースでふっと葉を浮かして拾い上げる。前日使用した場合は車も簡単に洗車する。週末も大体同じ時間に起きて自宅まわりの掃除はもちろん、濡れたものと乾いた2枚の雑巾を持ってベランダの手すりや窓を拭き、洗面所やトイレも掃除する。風呂掃除、掃除機もかける。平日は家内がしているが僕のほうがうまいと自負している。

生きている葉と元気のない葉があることが分かる
掃除は毎朝40分かかる。風が強いときは1時間以上かかることもある。6時15分からはじめるから7時前には終えている。毎朝掃除していると散歩をしている人とも顔見知りなので挨拶することが日課にもなっている。お互い「おはようございます」と声をかけあうのだが空気の澄んでいる時間帯の第一声も元気の源になるし、互いに掃除や散歩を継続していることでいつの間にか独特の信頼感が出来て、日中に偶然お会いするときがあると今まで挨拶しかしていないのに、親近感を持って会話が進むからこんな出会いもまた嬉しい。
それに掃除をしていると色々な事に気がつく。例えば落ち葉には生きている葉と元気のない葉があることが分かる。例えば落ちたての葉はちり取りにいれるのがもったいないぐらい葉色が美しくゆらりゆらりとしている。そんなときはその葉をオブジェと考えて拾わないときがある。また大した風もないのに逃げまくる元気な葉もある。そういうときは無理に追いかけないで待ってみる。去ってしまうこともあるしすんなり拾えてしまうこともある。ああ人生に似ていると考えながら掃除をしていると時間があっという間に経ってしまう。元気のない葉は色もくすんでいてびくともしない。これはもうゴミである。
前日から悩み事を抱えながら掃除をし、水を撒き終わり早朝の光に照らされるゴミ一つない道を見ているといつのまにか心が浄化していることがある。悩みと落ち葉がいっしょにちり取りの中へ入っていくのだ。僕にとっての掃除は無言の授業である。そして汗も程よくかくし朝ごはんもおいしく食べれる。このおかげで9時から打ち合わせや面接、勉強会などパワー全開でこなせる。

2_12_03
「掃除道」

そんなあるとき書店で「掃除道」という本を見つけた。掃除を実践することにより家庭・企業・学校・社会がどう変わったかを紹介する自動車関連商品を販売するイエローハット創業者の鍵山 秀三郎著者の本である。著者は「自分には大した能力がないので掃除からはじめた」と書いている。自宅はもちろん会社の周辺や社内のトイレなど毎朝一人で掃除をしていた。するとその姿を近所の人が見て感激し会社では社員がその姿を見て手伝いをはじめたという。著者は本の中で僕が感じていた朝の掃除の出来事も同じように経験しているし(落ち葉の姿についても同じような事を書いている)優良企業に変身した製造メーカー、退学者も激減した高校、犯罪件数が半減した新宿駅周辺。全て掃除のおかげだと説いている。

3_12_02
息子の掃除する姿は
感動である

「荒んだ人の心を落ち着かせ、穏やかにするためには、掃除をしてきれいにすることがもっとも効果的である」と語りさらに「人間の1番大切なことは謙虚であること。掃除をするときは必ず下を向いて行います。」と書いている。よし!掃除を続けることで元気だけでなく謙虚さをもてるように僕も心がけよう。下を向いて掃除をすれば謙虚になれるとは素晴らしい考えだ。
 やはり40年以上掃除を続けている人は言葉の重みが違う。これからも僕は掃除を続けていくだろう。朝起きて息子と掃除をすることもある。3歳の息子がしゃがんで葉を拾う姿はきっといつか彼自身の人生に役に立つだろうと思う。というわけで元気でいるのは掃除をしているからだと僕は断言できるのだ。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2007年1月に執筆されたものです

[add_pager]

12.学校が消えたぞ! ~ふとん職人学校閉校~

もうこれは非常事態っていうもんじゃない!
昨年、寝具関係者の多くから聞いたこと、それが「東京蒲団技術学院が閉校した」というニュースだった。景気回復の兆し、いや完全復活だとテレビ・新聞・雑誌からこのような言葉が毎日僕の耳や目に入ってくるがこの業界にいると外のそういった世界が遠くに感じてしまうぐらい暗い話が多い。極論すれば寝具業界だけはバブル崩壊後のままでいるといってもいいぐらいだ。とにかく「どこそこが倒産した」「あそこが店を閉じた」「息子が継がないといってきた」・・・など業界の先々を不安視してしまうことが毎日起きている。
その中で文頭の学校が閉校した話は衝撃だった。僕がおたふくわたを復活させる前に書いていたコラムhttp://otafukuwata.com/wp/?p=322にも登場した東京都板橋区にある「東京蒲団技術学院」の中村校長先生が高齢と生徒減少のために昨年34年間続いた学校をやめてしまった。ということはこれで日本にはふとん職人を育てる学校がゼロになったということである。もうこれは非常事態っていうもんじゃない!職人と名のつく世界には少なからず学校はある。料理の世界、大工の世界、裁縫の世界、それなのにふとんだけなくなった。これはもうふとん職人が消えてしまうのも時間の問題だ。
僕はこのニュースを知ったとき心の中で自分を含め多くの関係者がこの学校を残す努力を全くしていなかったことに強い責任を感じてしまった。校長先生は現在92歳である。学校を立ち上げてから閉校まで僕や卒業生3,000人、そしてその関係者が34年間何も対策をしていなかったのはもう大問題である。職人の世界で「ふとん」だけ職業訓練校がなくなったのは残念しか言いようがない。大ピンチだ。
しかし僕も含めてこのことを責められれば自分のお店の存続だって毎日どうなるか分からないから学校の事も気にしていても行動に移せない。どうしようもなかったと言うだろう。それはそれでもっともな意見だ。でも体力のある若い人たちは何もできなかったのか・・
ふとん職人の平均年齢は60代である。その息子は30代が多い。
私が訪問した店で後を継いでいる息子さんはほとんどいない。仮に50人と会ったとして後継者がいるのは10人ぐらいだろう。さらにふとんを作れる人はこの半分ぐらいになってしまう。驚いたのは継がない子供たちの就職先が繊維やアパレル関係というのが結構多いことだ。それって何となく親父の背中を見ていたのに実に残念なことだ。
中には元気なふとん屋があってそういう店は息子も「ふとん作れるってかっこいい」と継ぐことが多いのだがそれは親父の仕事に誇りを持っているんだろう。
職人はかっこいい!
おたふくわたも必死に毎日、動いている。決して稼ぎまくっているわけではない。でも動きを止めたら一気に暗いふとん屋さんになってしまう。僕はやっぱり会社の基本は営業だと思う。外に出て稼ぎのきっかけを作らなければいくら社内事務で優秀な社員がいても勢いや注目がなければ意味がない。いつかそれが商談になり商売になるからだ。僕はそう思っている。
そして僕はふとんを作れる人たちは「かっこいい」と素直に思う。手ぬぐいを頭に巻いて1時間強で人生の3分の1を過ごす製品(いや作品)を見事に作り上げるから。これを知らない人はかわいそうだ。近頃流行のビジネスはもし大地震や大災害が起きれば避難所の体育館でパソコンが使えなければ商売ができない。でも職人は出来る。衣類や綿を集めてふとんを作れる。食材で寿司を作れる。あちこちの木材で椅子を作れる。いざとなれば職人は強い。手が道具だからだ。
だから僕はふとん職人をかっこいい職業にしたいから夏に学校を作ることにした。学校作りや生徒を募集し面倒見ることは簡単なことじゃない。東京都職業能力開発協会の方々が僕の熱い気持ちに応えてくれたから動き出すことができた。今年募集しても生徒はゼロかもしれない。卒業する学生、フリーター、ニートでもいい。ふとん屋を継ごうとしている人でもいい。とにかく集まれ!そして1ヶ月ふとん作りの勉強をしたらあとはおたふくわたが頑張って修行先を見つけるようにする。給料を出してくれる会社を見つけるようにする。かなり課題もあるし乗り越えなければならない山は大きい。しかし何もしなければ職人が消える。5月に東京都から正式に発表が出るはずだ。
僕はこれから毎日ふとんの関係者に会っていくつもりだ。このコラムを読んでいるふとん屋さんももし興味があればぜひ連絡をしてください。「おたふく寺子屋」は自分の会社のためではなく業界全体で職人を残こせるように作る学校です。
次回は「僕の掃除論」についてです。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年12月に執筆されたものです

[add_pager]

11.皿と声 その2~緊張するけど舞台で歌うと僕は嬉しくて爆発してしまう~

「あなたとベートーベンは似ている」
先月、DJの事を書いたら取引先や仕事仲間などから反応が多かった。確かに同世代にしてみたら僕が先月書いた歌手名なんか良く知っているし、懐かしく思えてくるようだ。それに「私もどこそこのディスコにいってました」なんてそれまで話題にならなかった話が急に出てきて、ついつい仕事から脱線してしまうがそういう話が盛り上がるとより親近感がもてるようになった。
しかし僕はカミさんと出会ってからこのDJの世界と対極にあるものも大好きになった。これもDJと同じくただの「ミーハー」といわれればそれまでだが、最近はこっちのほうがはまっているかもしれない。DJと対極にあるもの・・それは「クラシック」である。
なぜ僕がクラシックを好きになったのかというと、ちょっと自慢ぽくなるがある有名な会社が行った作文コンテストでそのきっかけ話を書いたら偶然に「最優秀賞」を取ってフランスの音楽祭に特派員として招待されたというエピソードがある。
まあ簡単に書くと結婚前にカミさんとドライブしていたら突然高速道路を走っている車中で「あなたは声がいいからオペラでもしたら?」という一言がはじまりだったのだ。カミさんは高校時代にドイツに留学して、帰国後は音大で声楽を学んでいた。「ソプラノ」という高音のパートである。そういう経験をしてきた人に声のことをほめられて悪い気はしない。しかしカミさんと僕が聞いてきた曲の世界は全然違うわけでオペラといわれても最初はどうもしっくり来なかった。

1opera
ヤマハホールで
オペラをした時の写真。

それでもカミさんは「ベートーベンの第九でもはじめてみたら?」と話を続けてきた。第九なんてほとんど知らなかったし「なぜベートーベン?」と聞くと「あなたとベートーベンは性格が似ていると思う」と答えた。僕はその理由を聞いてハンドルを握りながら愕然とした。「まずはなんといっても情熱派!気持ちが熱い・・・で次に見た目が不衛生!いじけやすい!失恋が多い!過去をひきずる!そういう全てが似ている」と言い切った。なんなんだよ!ベートーベンにも失礼だろ!と思ったが単細胞の僕は素人でも知っている天才音楽家に似ていると聞いて悪い気がしなかった。
「性格が似ている人が作った曲を歌ってみれば入りやすいし自然に好きになるわよ」と彼女はさらりと言った。そう・・・先の僕の姿をあたかも分かっているような自信ありの口調だった。
で・・・結局、分かりやすい僕は第九を歌う教室に入りまじめに半年間通い続け、3年前の年末に東京国際フォーラムで3,000人の前で歌い完全にはまってしまったのだ。合唱とはいえ歌い終わった後の達成感は文章には表現できないぐらい最高の体験だった。
その後にまたまた単細胞の僕が衝撃を受けたことが起きる。それはコンサートが終わり指揮者の方、プロの合唱団の方々との打ち上げパーティーがあったのだが、そのあと2次会に移動する際、有楽町の交差点で当日のプロ合唱団のコンサートマスターと話していたらなぜか僕の喉を見て突然「さっきから見ていたんだが、う~ん・・・君の「のど仏」はねえプロ向きだよ。練習すればそこそこになるよ」となんだが良く分からないビミョーな褒められ方をされたのだが、しかしその一言で僕は本格的にオペラを学びだしたのだ。

2fumen

普段の挨拶もオペラのように声を出し合えたら・・
子供が生まれてからは全然出来なくなったが仕事の後に音楽教室へ毎週通い、週末はカミさんの大学時代の先生にもレッスンをしてもらっていた。おととしは銀座のヤマハホールでモーツァルト「魔笛」のオペラコンサートに出た。あれ以来コンサートには出ていないが出たくて仕方がない。でもクラシックを好きにしてくれたカミさん本人も舞台に出るのがもともと好きなタイプだから育児をしている二人にとっては残念だがこれらは現在、活動休止状態である。
さりとて歌の練習は車でも部屋でも風呂の中でも十分出来るし、「声を大きく出す」となんだか心がすっきりするのだ。なんていうかジョギングした後と同じような心地よい疲れが好きなのである。この声出しは僕には「元気の源」である。まわりにはただの騒音と思えるかもしれないが・・・
声出しはなにもオペラだけじゃなくて前の会社にいた時から必ず僕は「おはよう!」「いってきます!」「戻りました!」と大きな声を出している。社員も返事はしてくれるが本音は「おはようございまあす!」と大声で返してもらいたいんだよなあ。それが皆、なかなか出来ない。取引先でもこんにちは!と大声で言うけれどなかなか同音量の声を出す方はいない。普段のコミュニケーションも合唱やオペラのような声の出し合いができればお互い心から元気になるような気がするんだけどなあ・・。
僕は「声を大きく出す」という行為は相手の懐にえいっ!と入っていくための緊張解けになる効果があると思っている。それは凄く自分自身では大事だと思うし、どんなに具合が悪くても、元気がなくても僕は毎日元気に声を出すようにしている。
ちなみに僕の愚の骨頂ともいえるのが接待の二次会でカラオケにいくと酔った勢いでオペラを歌ってしまうことがある。あれは完全にしらける。ジャイアンのリサイタルよりもひどいしらけようだ。

次回は「学校が消えたぞ!」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年11月に執筆されたものです

[add_pager]