10.皿と声 その1~仕事や育児での疲れは「皿」で発散するしかない!~

dj

踊れなきゃ廻せばいい!
僕を知る人ならご存知の方も多いだろうが、僕はれっきとした「オタクDJ」である。僕らの高校時代はいわゆる「ダンスブーム」であり、とにかくダンスがうまい奴が凄くモテていた。POPでは「リックアストリー」や「カイリーミノーグ」の人気が絶頂期で、HIPHOPでは「LL COOL J」 や「RUN DMC」,「PUBLIC ENEMY」、また「EVERY BODY DANCE NOW !」で一世を風靡した「C+C MUSIC FACTORY」 やラテンのノリが人気だった「ランバダブーム」の時である。テレビの深夜番組では人気のダンスコンテストの番組があったり、小室哲哉がTMネットワークではなく音楽プロデューサーとして活躍しはじめ「TRF」など数々の踊り良し歌良しのダンスグループが誕生したのもこのあたりからである。
当時はレコードのことを「皿」と言っていてDJは良く「俺さあ皿廻しているんだよね」と業界用語っぽく話していた。今はもう使わないんじゃないかなあ・・使ったらもう通じないか「超ダサい」部類になったりするんじゃないだろうか・・・。
ミーハーの僕はこのダンスブームに乗ろうとディスコに行っていたが、いかんせん運動神経ゼロなので踊れるわけがない。なのでただそれらしい格好(今考えるともう赤面状態のファッションセンスである)して座っていたのだ。もちろんそんな事ではモテない。でもモテたい!そんな浅はかなあこがれを持ちながら毎週決まった仲間と出かけていた。
DJのきっかけは僕はその頃、ニュージーランドに留学していたのだがそこで知り合った日本人や現地の仲間達ともディスコによく行っていた。そしてその仲間でニュージーランド人のハンサムなDJと日本人がいて僕はいつも彼らからそのDJ技を学んでいた(というか盗んでいた)。中古のミキサーを購入し毎日ホームステイ先で練習していた。選曲のセンスは徐々に色々な人から真似ていたし、レコードショップに出かけては中古、新譜を買いあさり深夜まで懸命に廻していた。

今じゃ息子にモテたい一心
向こうでは日本人のDJというだけで珍しいのでその仲間にくっつきながらディスコのDJブースで廻していた。下手でも「こんにちは!!お前ら一番か!?」とか訳の分からない日本語でごまかせば結構盛り上がっていたものだ。だから休みに日本に帰ってきてもひたすらDJの練習をしていたものだ。「踊りができなきゃ廻せばいい!」これがブームに遅れを取らないで生き残る手段だった。確かにこの頃は踊れる人間はもちろんだが「DJをしている」とか言って名刺とか作ればなんとなくカッコイイ感じがしていた。(しかし六本木と渋谷の有名ディスコで廻して白けた体験もある)
とまあ恥ずかしい過去はこのあたりで止めておくがその頃がやっぱりたまに懐かしくなったりするのでたまに当時のレコードを聞いたり廻したりする。今でもHIPHOPは若者に根強い人気があるので渋谷などにはあちこちレコードショップがある。DJも人気が定着しているようで最近のレコードショップにはレコードのサンプルがあってショップ入り口周辺には数台のターンテーブル(レコードプレーヤー)が用意されておりその場で聞けたり、スクラッチが出来たり、スピード調節が出来たり、MIXできたり、とDJにとってはありがたいサービスが提供されているので買い損がないようになっている。

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僕はごくたまに3歳の息子を連れて週末にこのレコードショップに行く。息子にしてみれば数人の大人が耳にでかいヘッドホンをしながら黒くて大きな丸いものを一生懸命下を向いていじくりまわしている姿は異様な光景だろう。だが自宅に戻り買ってきた新しい曲とかつて高校時代に聞いていたレコードを少しボリュームを大きくしてMIXする嬉しさは仕事や育児の大変さを一気に忘れさせてくれる。やっぱり一瞬あの頃に戻れるようで楽しい。

昔はダサい格好してディスコに繰り出してはモテない男なりに一生懸命遊んでいた僕だが今では息子が僕のかける曲全て新鮮らしく楽しそうに踊ってくれる。息子もだんだん聞いているうちに自分の好きな曲があるようでそれをかけてあげると「肩車して!」と言ってくる。このぐらいの年になるともはや息子にモテるように頑張っているようなもんだ。

こんな小さい頃からテクノだHIPHOPをかけているのでオペラやクラシックが好きな音大出身のカミさんからにらまれているような気もするが・・・今では息子1人にモテていることが何よりの喜びである。ちなみにこの前生まれた2人目の子供・・それは娘だがきっといつか娘にも聞かせてやるんだと家内に内緒でたくらんでいる。

来週は皿と声の「声」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年11月に執筆されたものです

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9.悲しい!ウルトラ5つの誓い~でも最後にはどんでん返しがあった~

僕は気になってネットで「ウルトラ5つの誓い」を調べてみた。
我が家はいま「ウルトラマン大ブーム」である。まもなく3歳になる息子は毎週テレビで放映している「ウルトラマンメビウス」はもちろん、有名な動画共有サイトの「YouTube」で初代ウルトラマン、セブン、タロウ、レオなどかつて地球で活躍したウルトラ兄弟(レオは兄弟ではないが)が怪獣と戦っているシーンを興奮しながら観ている。(僕も懐かしのあまり興奮して観ている)
今さらだがインターネットというのはやっぱり凄い。僕が息子の年齢ぐらいにぽかんと口をあけながら観ていたあこがれのヒーローたちが30年の時を経てもこうして好きな時間にいつでもパソコンで観れるのだ。また動画だけでなく当時の知りたかった(または知りたくなかった)撮影の裏話なども多く書かれていてこれもなかなか興味深い。特にゼットンに負けてしまった初代ウルトラマンの最終回の設定には驚くべき事実があり、それを知った僕は負けたことよりもショックが大きくなってしまった。
さてこのウルトラシリーズの中で特にドラマ性を重視していたご存知「帰ってきたウルトラマン」というのがある。題名とは違い初代ウルトラマンの復活版ではなく帰ってきたウルトラマンは変身する郷隊員とともに成長し徐々に強くなっていく人間くさいヒーローだった。そして最終回には初代ウルトラマン同様に最強の宇宙怪獣ゼットンが登場するのだが(このゼットンが予算の関係でしょぼい)ラストシーンでは郷隊員の恋人とその弟が他の隊員たちと死んだ郷の墓の前に泣きくずれているのだが、隊員たちが去った後、2人の前に遠くから死んだはずの郷が手を振りながら走ってくる。そして「僕は星へ帰るんだ」といって、恋人の弟に「ウルトラの5つの誓いを覚えているか?」と語りかける。

別れを嫌がる少年は答えるのを無視するが、郷隊員はそのまま少し離れた海の岸辺にいきで両手を挙げてウルトラマンに変身して帰っていく。少年は泣きながら飛び経ったウルトラマンに大声で5つの誓いをいうのだが・・・
1.はらぺこのまま学校へ行かぬこと
2.道を歩くときは車に気を付けること
3.晴れた日はふとんを干すこと
4.ひとを頼りにせぬこと
5.土の上で裸足で遊ぶこと

これは僕みたいに勉強もせずぼけっとしながら観ていた子供たちに向けたメッセージの意味もあるのだろうが、この中に3つめの「晴れた日はふとんを干すこと」というのがある。このころにはふとんを干す習慣が当たり前のようにあったし家庭では綿のふとんが主役だったはずだ。(1970年代)僕は気になってネットで「ウルトラ5つの誓い」を調べてみた。

ふとんの日干しが復活の兆し!?
すると・・・・この数十年後の1998年頃に放映されたにウルトラマンダイナに出てくるスーパーGUTSという地球警備隊では「隊員5つの心得」というものが出てくる。そこにはウルトラ5つの誓いをアレンジしたものが表記されていたのだが・・
1.晴れた日は空を見上げること
2.友達を大切にすること
3.おこづかいを落としても泣かないこと
4.道を歩くときは車に気を付けること
5.最後まであきらめないこと
うーん似ているようだが微妙に違う。ふとん屋の僕がまっさきに気がついたのは・・・ふとんを干すことが消えているのだ!その代わりといったら変だが、「晴れた日には空を見上げよ」となっている。う~ん、子供たちはふとんを干す必要のない繊維で寝ていて、さらに学校や塾に追われる毎日で空を見る余裕さえなくなったのでこのような表現にしたのか・・これはやはり羽毛ふとんの普及が考えられる。いやそう考えるのは決しておかしくない。なぜなら子供向けのふとんでもここ数十年は羽毛や羊毛ふとんが主役であり、確かにこれらのふとんは頻繁に干すこともないし、干すとしても日陰干しをすすめているのでまぶしい空を見ることがなくなった・・・という思いがあるのではないだろうか。絶対そうだと考える。
実にこれは悲しい。それだけ綿のふとんの需要が減ったということだ。僕はかなり落ち込んでしまった・・・。最近綿ふとんが見直されてきているのだがまだまだ子供へのメッセージとしては伝えられないぐらい弱いのかと。
ところが・・!!去年夏ごろウルトラマンメビウスの中で「ウルトラ5つの誓い」があったとマニアの知人から聞いた!ネットで調べると確かにドラマ中に話していたようだ。そうか・・やはりふとんを干す習慣が見直されて今出しても古臭くないとテレビ側も判断したのだろう。くだらない!と思うかもしれないが、僕はこういう小さいところから、商売のヒントにもなるし励まされる。
いや綿ふとんを商売としている人が聞いたら「ふとんを干す!」のを堂々と復活させたことはうれしいと思う!太陽の下で干してくださいと堂々といっているのは綿ふとんだけなのだから・・・。シュワッ!

次回は「皿と声」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年10月に執筆されたものです

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8.僕の片思い ~バイヤーとの商談がまとまるにはあと3年はかかるだろう~

はじめは僕はひどく不愉快だった
僕は片思いしている・・といっても恋の話ではない。国内屈指の某有名百貨店のバイヤーについてである。このバイヤーはとても魅力がある人だ。毎回打ち合わせの度にヒントをくれるので僕の心は「やられてしまう」。僕は最終的にこのバイヤーと取引させていただくことが百貨店の高き最終目標と考えている。
僕たちの会社では社員ほとんどが飛び込み営業に近い形で取引先を作ってきた。当然、その中には人の協力や紹介があるけれど、それも連絡先を教えてくれるというぐらいで、ほとんど飛び込みに近い状況である。さらに商談先も最近若い人が増え「おたふくわた」という名前を知らない人が多い。僕たちもその方が名前に頼らず営業としてのの本領を発揮できるからやり甲斐はあるが・・・。
僕があまり問屋さんを頼らないで飛込み営業ばかりする理由はそこに人と出会う「感動」があるからだ。そもそも前の会社でも飛び込み営業をすることだけが僕のとりえだから、動くのは容易いのだ。最近当社の社員もその感動を経験している。
ところでこの大好きなバイヤーも一応そういった人の紹介があった(これも連絡先を聞いただけ)のだが、それ以外は何もない。だから、はじめて会った時には紹介と思えないぐらい無愛想だった。「何の用?」「いまさら木綿ふとん」という雰囲気を出していた。
最初の出会いは今から2年前ぐらいになる。正直言うと僕は最初は不愉快だった。「だったら会わないでください」と言いたくなるぐらい色々といじわるな質問をされたり話を聞いた。そして忙しいとは言え商談中は何十回も鳴り響くバイヤーの携帯に出ては会話していた。これじゃ全然打ち合わせにならないのだ。僕は帰り際のエレベーターで「老舗とはいえこんなものか」と悔しくて握りこぶしを握っていた。
だが・・・数日経つと僕はそのバイヤーの姿を思い出して色々考えた。今までの商談は相手先も多少興味があって会ってきた。だからおたふくわたに好意的な態度が多かっただけだと・・。前の会社でも散々嫌な目に遭ったり悔しい思いをして会社で泣いたりしたのにこの会社に入ってからその心を忘れているのではないか。全く興味を持たない人を振り向かせることが営業の真骨頂であると思い出したのだ。「甘えるな!」と自分に言い聞かせて僕は再びあのバイヤーとアポを取ろうと色々策を考えた。寝具業界の話題から自分たちの商品開発のアドバイス・・・時には天気の話題や芸能ネタでも何でもいい。とにかく敵的に訪問していくことを決めたのだ。
そして2回、3回と会っていくうちに僕は気がついたことがある。それはバイヤーはどんなに忙しくても必ず時間を取ってくれるのだ。この2年間「今週はダメ」とか「今、時間がないんですよ」と言わないのだ。聞いたことがない。そして必ず「うちとしたいならさ例えば・・」とヒントをくれる。やっぱり何度も会わないと分からない事が多い。
寅さん営業と名付けよう!
そうか!あの1回目のいじわるな質問は僕を確かめていたのだ。いじわるな質問に答えられないようじゃ客を説得できない。国内で大流行しているわけでもない木綿ふとんを今の時代に百貨店で常設するのは難しいことだ。だからこそ語れる「ポリシー」を作りなさい・・・。そういうことを言いたいのだろう。
 僕はすんなりここの商談がいかなくて良かったと思う。バイヤーも木綿ふとんにいまさら力を入れる会社なんて当社しかないから真剣なんだと思う。確かに人気や話題の商品というレベルではないから僕はこことの取引はあと3年はかかると思っている。いやそれぐらいの気持ちの方がいい。

そういえば春先に新しいカタログを持っていったらバイヤーから一言帰り際「こういうパンフレットを見るとがんばってるなっていうのは感じるよ。」と言われて僕は涙目になった。それは長い時間をかけて商談しているからこそ得た感激のシーンだった。
最近はエレベーター前まで僕を見送ってくれるのだ。恐縮してしまう・・。飲んでいる席で「そこの百貨店は難しいからあきらめたら?」とネガティブに言ってくる仲間もいる。
2年であきらめてどうする?と僕は反論している。だがまだまだ片思いであることは確かである。僕はこのバイヤーとの商談を「寅さん営業」と名付けて活動していこうと思う。寅さんだって片思いばかりしているが他人が味わえない幸せを経験しているんだ!

次回は「悲しい!ウルトラマン5つの誓い」について書きます。
新年も引き続きご愛読を宜しくお願いいたします。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年9月に執筆されたものです

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7.島田洋七さんとの「がばい出会い!」 ~洋七さんとの仕事は楽しくやっていけそうだ~

まずは動いてみること。
「縁」なんていつどこではじまるか分からない。だから人生って面白いんだろうなあ。僕が島田洋七さんと出会ったのも突然の「縁」だった。もともと映画「佐賀のがばいばあちゃん」で、おたふくわたの看板を九州のイメージとして使ってくれた事がきっかけで映画監督である倉内均さんとお会いしたのが始まりだった。もちろん洋七さんと会うなんて簡単に出来ることじゃないとは分かっていたし、倉内監督も「機会があれば」と話してくださってはいたが、もしこちらから会いたいと言えば「ギャラいくらです。」なんていう世界なんだろうなあ・・と考えていた。
 でもおたふくわたを九州のイメージとして使うと決めたのは洋七さんの意見が入っていたに違いないと僕は思っていた。原作者の意向を無視して看板など選定するはずがない。だから、会うことは無理でもお礼だけ言いたい。なので僕はとりあえず「動いてみた」それは・・・洋七さんのブログを見つけてそこにお礼を書いたのだ。 あれこれ悩むより動くことだ。だって小池百合子環境大臣(当時)にふとんの環境問題の事でメールしたときも秘書官を通じてきちんとアクションが返ってきた。そのおかげで現在も環境省やチームマイナス6%と仕事を進めている。
 それから何ヶ月だろう。突然、洋七さんの関連会社を運営している舛田社長から直接電話がかかってきた。舛田社長いわくブログのコメントを読んだ洋七さんが突然思い出したように「おたふくわたの人からコメント来てたなあ」という話になったらしく、社長が映画の人気も高いので一度お礼を言いたいという連絡が入った。うーんあの書き込みしてからどのぐらい経っていたか分からないけどなんだか面白い展開じゃないかって興奮してきた。とにかくなんでもダメもとで動くことだなと感じだ。
 舛田社長は撮影におたふくわたの看板を使ったことに御礼を言ってくださり、その後に洋七さんがおたふくわたを懐かしんでいるという話を教えてくれた。僕は優しい口調で話す同世代の舛田社長と話しいるうちにいつものように調子に乗ってしまい、最後には「せっかくだからざぶとんでも記念で販売してみましょうか」と言ってみた。社長は目を大きくして「うん!それは面白い。ぜひ師匠に聞いてみましょう。」・・・そして僕は有言実行、早速、がばいざぶとん試作品に動き出した。久留米の問屋さんと機織元の協力で多くのサンプル生地を入手して社長さんを通じて洋七さんに生地を選んでもらうことにした。
 ある日、舛田社長から電話が掛かってきて「師匠がざぶとん企画に本腰を入れて取り組みませんか?ぜひお会いお話ししましょうということになりました」となった。下品な例えだが飲み会で目当ての子に勢いでデートに誘い、すんなりOKしてくれて驚いたような気分である。(そんな経験はないが・・・)
洋七さんと僕は両方緊張していた。
 洋七さんとの対面は大阪で実現することになった。洋七さんは吉本興業の漫才の仕事があり、僕も大阪で仕事があったのでお互い日程が合う日を選んで大阪で決まった。
 久留米絣で仕上げたざぶとんは予想以上の出来栄えだった。僕はそれを持って大阪で仕事していた洋七さんに会いに行った。かつて一世を風靡した超人気番組「オレたちひょうきん族」で笑わせてくれたあのおもしろい人と会える・・・急にそんな事を思い始めると移動の新幹線の中で急に緊張してきた。吐き気の連続である。「お前は妊婦さんか?」と心の中で一人ツッコミをしていたがなかなか緊張はおさまらなかった。

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大阪のある料理屋さんで待ち合わせしたのだが、洋七さんは約束の時間ぴったりに来た。「いやあ!どうも!どうも!」大きな声で入ってきた。テレビのままである。入ってきた瞬間、緊張と喜びが一気に起きたせいか僕はなぜか大笑いしてしまった。でも洋七さんも少し緊張しているように見えた。お互い照れ隠しのような言葉を交わしていた。

洋七さんと沢山の話をしたがこのコラムでは書ききれないのでご勘弁を。でも色々苦労してきた話をギャグを交えて平然と話すし、大声で「ビートたけしとばあちゃんにはこの先もずっと感謝し続けていくよ」と何回も話していた。この言葉には嘘はないと思う。さらに「ばあちゃんが生きていないから俺がばあちゃんの話を伝える。そしたらこの話が売れてきた。ホントばあちゃんのおかげだ。」洋七さんの正直な生き方を見ていれば周りの人が応援したくのもうなずける。
 洋七さんは試作品のざぶとんを見て「これやこれや!」と言ってざぶとんに抱きついていた。そして食事中もざぶとんをずっと抱いたまま「この柄で良かったわ!ばあちゃん久留米絣でざぶとんとふとんを夜中に作っていて・・・」と思い出話をしていた。確かに傍で見ていただけあって、ふとんやざぶとんの作り方を良く知っていた。
 握手してから3時間以上経過していた。別れ際にまた握手して最後に写真を撮ってくださった。そして小さい声で「次は博多で飲もう。博多は大好きだし、佐賀から近い。」といってタクシーに乗り込んでいった。そうか!洋七さんは確か佐賀に会社と自宅があることを思い出した。ばあちゃんビジネスに対する本気度をタクシーを見送りながら改めて感じたのだ。そういえば洋七さんは今でも漫才をする時にマイクに向かう数秒間は「ガタガタ震える」と話していた。やっぱり今日の握手もそういうことだったのかもしれない。
 がばいばあちゃんとおたふくわた・・どちらもあったかいイメージがある。だからあまり肩に力を入れすぎずマイペースに「がばいざぶとん」を販売したい。なかなかユニークなおまけもついているしぜひ大好きなおじいちゃん、おばあちゃんに買ってあげてください・・・と最後は宣伝になってしまったが洋七さんと僕の力作だと思うのでお楽しみに!

次回は「僕の片思い」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年8月に執筆されたものです

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6.「僕にとっての「昭和プロレス」長編」~僕にとっては猪木が昭和プロレスである~

僕の憧れは裕次郎から猪木に変った
 「ねえ、今日はプロレスを観ようよ」「いやだよ、太陽にほえろを見るんだよ!」
これは小学生の時に従兄弟とチャンネル争いをしたときの会話だ。僕は後者の方。
当時の僕は親父を亡くし心にぽっかりと大きな穴が開いていた。それでも子供なりに前を見て懸命に生きていこうとしていた。親父は休日などに、紺のブレザーを着てワイシャツの中にスカーフを入れてサングラスをかけるスタイルが多かった。参観日にその姿で現れ同級生に「お前のお父さんってかっこいいな」なんて言われて嬉しかったのを覚えている。だから亡くなった後はそういう親父に少しでも似ている人間を追っていた気がする。
「太陽にほえろ!」に登場する石原裕次郎は顔のふっくら度など外見の雰囲気が親父に良く似ていた。だから結構、この番組は楽しみにしていたのだ。それが我が家に遊びに来ていた年上の従兄弟にチャンネルを奪われた。しかもプロレスなんて「野蛮な」スポーツという印象を持っていたのでプロレスを仕方なく観ながら内心はイライラしていたのを覚えている。(従兄弟は当時のこの事を全く覚えていない)
 その時はじめて「タイガーマスク」を観た。当時、プロレスブームが起きていてとくにその主役がこのタイガーマスクだったわけだが、僕にはあまりピンと来なかった。アニメと実写が当時の僕にはどうもしっくり来なかった。やはりアニメはアニメのままで良かったような気がする。

それが・・・メインイベントで登場した黒タイツのアントニオ猪木でガラリと変わった。
あの時猪木の「強さ」を観て涙が出そうになった。でかい外人や怖そうな日本人相手にも「来い!この野郎!」とか言いながら当たっていく。親父がいなかった当時の僕には強さの憧れが一瞬で「裕次郎」から「なんだこの野郎!」の猪木に変った。「強さ」という概念がリングの戦いという形で観ているほうが僕にはかっこよく思えたのだろう。
猪木はこの頃、絶大な人気があった。
それからずっとプロレスを観た。特に猪木と藤波、長州の新日本プロレスは毎週観ていた。例え、嫌なことがあって泣かされても金曜日の8時に「猪木!猪木!」と応援して心をすっきりさせていた。そしてプロレスごっこをして相手に技をかけられてその痛みを知り「レスラーはやっぱりすごい !」とさらに憧れが強くなる。当時は外人レスラーも豊富だったし、藤波、長州などのスターも多かったので毎週ストーリーが激しく展開していたから面白かった。学校で勉強したことはきれいに浄化されているが今でもプロレスラーの得意技、本名、各地にある会場の名前、当時活躍していた記者の名前などほとんど覚えている。

猪木病感染
猪木はリングの上だけでなくプロレス以外でもあちこち話題を振りまいていた。当時ボクシング王者だったモハメッド・アリと異種格闘技戦をしたり、新宿のデパートでライバルレスラーに襲われたり(確かに今考えると居合わせること事態がおかしいが)、参議院議員に当選したり、イラクで人質を解放したり、北朝鮮でプロレスを開催したり、と世間を驚かせてきた。
僕はこういった猪木のプロレス外の活躍にも影響を受けていたので中学生の時に生徒会長に立候補して当選したのも実は猪木のようにトップに立ちたいという夢があったからだし、人を驚かせることを言い出したり、奇抜な行事や行動を取ったのも猪木の真似だった。今考えると完全に猪木病だったんだろうなあ。
休み時間にはマスクをかぶって仲間と戦い、赤い絵の具で額を赤くして次の授業中にはバンソウをしっかり貼っていたのだ。アホもここまでいくと誰も何も言わなくなる。
高校時代に留学したときも「世界戦略だ」とあきれるようなことを言っていたし、留学先のニュージーランドでは世界のスターであったホーガンと日本でしか有名じゃない猪木のどっちが強いか本気で外人と議論していた。
社会人の時も猪木だったらこうするだろうと常に想像して営業活動をしていた。しかしあえて人のやらないような事をやってきたことが結果として成功したことがある。それが前の会社で「全国営業マンコンクール優勝」と「社長賞」を受賞したことだろう。あのときはチャンピョンベルトを獲った気持ちだった。会社のPCの上には猪木と長州のフィギアが置いてあったが上司に一度も怒られなかった。今考えれば怒られないぐらい営業を動きまわっていたからだろうと思う。
今でも少しは影響を受けている。例えば10年以上も今も欠かさずウェイトトレーニングを続けているし人前でスピーチや挨拶を頼まれる時など「元気ですか!」と言っている。さすがに会議や株主総会などでは言えないが心の中では「いくぞ!」と自らの緊張を和らげようと叫んでいるのだ。

猪木から「原田」へ
昭和プロレスというのは昭和の頃に最盛期だった猪木、馬場、藤波、長州、タイガーマスク、前田日明やハルク・ホーガン、スタン・ハンセン、ブルーザーブロディ、ウォリアーズなどが活躍していた時代を指す。平成に入ってからはショー化と格闘技路線とスタイルを多く誕生し、さらに若手の台頭などで時代が急激に変化しているのであえて昭和と平成と線引きして話すファンが多いからこのような呼称になった。
猪木を批判する本、プロレスの裏話など今ではインターネットなどでも多く見ることが出来るがそんなもの読んでも仕方がないし、マニアであれば別に知っているよというようなものも多い。とにかくあの頃はみんなが楽しく見れたんだからどうでもいいと思う。
そういえば僕は7歳ぐらいの頃、デパート屋上のステージ裏で当時人気のヒーローゴレンジャーの青レンジャーがお面を取って座りながらジュースを飲んでいる姿を見てしまったがそれでも彼らには幻滅していない。

引退しても猪木は人気があるけれど最近はあえて見ないようにしている。
だが僕の人生はほとんど猪木などに支えられたのは間違いない。今まで生きてきた人生でやってきたことは猪木の真似が多い。しかしこれからは猪木から旅立ち「原田」として独立して動いていかなければならない。家族や社員、取引先など多くの人間を守る立場にいる以上やっぱり「破天荒」だけでは生きていけない。だが我が家には猪木以上に「怖い」伴侶がいるので皆様にご迷惑をかけないことだけは確かだが・・・。

次回は「島田洋七さんとの「がばい出会い!」」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年7月に執筆されたものです

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5.「パン屋さんと肉屋さんの徹底している姿に僕は深い感銘を受けた。息子にもこの姿を焼き付けてほしい。」

おばあちゃんを見たとき「オーラ」を感じた・・・
 僕は子供が出来てから完全に規則正しい生活に変わった。どんなに前日遅くまで起きていても毎朝6時前後に2歳半の息子に起こされてしまう。息子が起きてしまった以上2度寝なんて許されないし出来るわけない。起き上がって息子の行動に合わせるしかないのだ。それになぜか最近は妻よりも僕を先に起こして遊ぼうとするのだ。
 起きてからしばらくして2人で家のまわりを掃除する。水撒きを終え、日によってはベビーカーに乗せてジョギングを付き合わせたり、2人で散歩したりする。息子と二人の朝7時のこの時間は最高に楽しい。
そして・・・散歩の帰り道にたまに寄るパン屋さんがある。
朝7時半過ぎになると店は開くのだが、出来たてのパンは最高においしい。パン生地のふっくらさと中身のバランスが絶妙なのだ。日によってはユニークな組み合わせのパンも作っている。僕の町の近くにはファッション、飲食の人気ショップや有名百貨店が数多くあるのだが、ここのパン以上においしいパンは食べたことがない。そういう店でパンを食べると雑誌に載っているような街の有名店が「?」である。地元であの店を知らない人はかわいそうだ。

panya
見た目は普通のパン屋さんでも味は普通じゃない!

おいしいパンとおばあちゃんとの会話。お客は幸せ者だ。
 僕がこの店を好きなのは味だけじゃない。レジに立っているおばあちゃんが最高にすてきな人なのだ。おばあちゃんは最高の商売人である。はじめておばあちゃんを見たときは「オーラ」を感じた。鈍感な僕はめったに人のオーラを感じないものだがこのおばあちゃんには久しぶりに人の「輝き」を見たような気がする。
 初めはおばあちゃんに乗せられて世間話をベラベラ話しただけなのに
 「あんた朝から元気がいいねえ。こっちまで元気になるよ。朝からありがとね」とおばあちゃんは大声で僕を見送ってくれた。仕掛けてきたのはおばあちゃんなのに相手の良さを引き出して褒めちぎる。凄い人だ。僕はこの店に通うように誘導されてしまった。こんなに朝から気分を良くしてもらうのは最高だ。僕は口だけは達者だが、今回はおばあちゃんに負けたのだ。
 息子と行くようになってからはお客がいない時、こっそりおまけにパンをくれる。
そしていつもドアを開けて見送ってくれる。
 会社の帰りにパン屋さんの前を通ると遅くまでおばあちゃんは働いている。元気な74歳!日中は休んでいるときもあるだろうけど、20時すぎまでおばあちゃんは朝と同じ姿で残り少ないパンを売っている。ここのパン屋さんは家族で経営しているのだがおばあちゃんが完全に主役である。おばあちゃんと話したくてパンを買いに来ている人も多いはずだ。おいしいパンとおばあちゃんの会話とお客は幸せ者だ。この店は50年以上続いている。

おじいちゃんは肉切台を拭いていた。もう降参である。
 そしてそのパン屋さんのひとつ先の肉屋さんがあるのだが、そこでは「おじいちゃん」が主役だ。店で肉を買わなくても誰が見せの主役か分かる。店内には家族らしき数人が肉を売っているのだが入り口付近にいるそのおじいちゃんは毎朝、毎夜、店先の肉切り台やカウンターのガラスを布きんで拭いているのだ。とにかく、いつもいつも拭いているのだ。僕が休日の昼どきに歩いているときもおじいちゃんは片手に布きんを持ったまま客と世間話をしていた。凄い。いつ見ても拭いている。
 このコラムに今年3月の東武百貨店の催事について書いた事があるが、その時の内容で時間が空いたときにふとんの手入れをしていたというのは実はこのおじいちゃんの姿を真似たのだ!(参考URL http://otafukuwata.com/wp/?p=276

パン屋さんと同じく夜まで店は開いているのだが、この前も8時過ぎに車で通ったら閉店前らしく、水を使って肉切台を拭いていた。もう降参である。僕が意識して見るようになって1年以上経つが未だに布きんを持たない姿を見たことがない。近いうち僕はここの店で肉を買うことにした。いつもひいきにしていた店があるのだが次回浮気しようと思う。

nikuya
撮影した日もやはりおじいちゃんは拭いてました。すごい!

どんな大企業も2人の宣伝力には勝てない
 かつて百貨店やスーパーの建設ラッシュで商店街が冬の時代と叫ばれてから、どのくらい経っただろうか。一部を除いていまだに商店街は元気を取り戻せずにいる。僕の知るこの2つの店もこの商店街に属している。今では数店が疎らにあるぐらいだ。しかも目と鼻の先には有名百貨店がそびえたっている。
 そのような条件でも店には活気があり、固定客もいて、店を長く続けている。それはやはり店は「人」次第であるということだ。おばあちゃんの会話、おじいちゃんの拭く姿、これは
pricelessの宣伝力だ。どんな大企業も2人の宣伝力には勝てない。
 僕はこの先輩達の姿を見て学ぶ事が多い。名ばかりのビジネス本より会社の経営の役に立つ。「続けている」ことがどんなに客の心をつかんでいるのか。そしていかに大変か。本人達は毎日同じことをしているとは思っていないだろう。だから続けていられるのだろう。
 肉屋さんだって僕が行けばおじいちゃんが一人の客を新規開拓したことになるのだ。
 息子はこうした姿をいつも見ているが、理解できる年令になった時、この2人の姿を見ながら「商売」とは何かを僕は教えたい。それまで2人には働き続けてもらいたいから更なる長生きを心から祈っている。
次回は「僕にとっての昭和プロレス」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年6月に執筆されたものです

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4.「おたふくわたはせんべいふとんです」 ~誰が何と言おうと僕は綿100%でこれからもふとんを続けていく~

なぜ私は綿100%にこだわるのか・・理由は簡単である
 突然だが僕の家内はいつも、「おたふくわたはせんべいふとんでございます」と僕をからかう。家内の実家は老舗の呉服屋さんなのだが代々、綿のふとんで寝ている。だから綿のふとんについては僕らの世代の中でも詳しいしこだわりがある。彼女が言うには昔実家にあった綿ふとんはもの凄くふっくらしていてふわふわのふとんだったという。綿ふとんというとその印象が強いらしい。
 それに比べて当社のふとんはすぐぺちゃんこになると僕に話す。僕はそれに対していつも「君の実家のふとんはポリエステルが入っているのではないか」と反論した。だが家内の実家に古くからあるふとんは年数から言ってポリエステルが入っていたとは考えにくい。
そのふわふわしていた実物を見たかったが今となってはそれを確認することは出来ない。
 なぜ私は綿100%にこだわるのか・・理由は簡単である。昔のふとんは「綿100%」だったからだ。江戸時代から続く伝統の「綿ふとん」を実現していくのが僕の考えだ。
確かに綿100%というのは綿花をさわっても分かるようにさわっているうちにへたってくる。日に干せば回復はするが例えマメに干していても復元力自体は徐々になくなってくる。それが天然というものである。こんな不便なものは現代に合っていないという人もいる。
確かに天然というのは色々面倒くさい。ふとんは日に干さなきゃいけないし、シャツなどはアイロンをかけないとすぐにシワになるし、着物で使われる木綿織物も洗い方によってはかなり縮むのは有名だ。しかしそれ以上縮むということはないし、その風合いは絹にはない親しみある心地を味わえる。綿100%のワイシャツやブラウスは何回も使っているうちに生地がつるつるになってきてクリーニングなどで糊付けしない限り新品のようなパリッとした感触はなくなるが、それは良く言えば肌に馴染んでくるという事だ。

kenbunroku04_01 ←左が1年半使用した弊社の綿ふとん右が作りたてです

kenbunroku04_02

僕は2枚敷にして寝ている
 綿ふとんは最初のうちは干しているうちにふっくらしてきてその現象に驚く人もいるが、干す習慣を少しでもサボるとあっという間にカサが出なくなる。だがそれ以上へたる事はないし換言すれば「綿が落ち着いて体にフィットする」ということだ。
  僕は実際、自宅で6.3キロと4.5キロのふとんを2枚敷きにして寝ているがあまり日には干していない。だがその両方が程よくぺちゃんこになり綿が落ち着き僕はかなり心地よく眠れる。この感覚を文章にして伝えるのは難しい。
催事などでふとんを展示しているときはふっくらしていて1枚でも十分な寝心地を味わえる雰囲気が出ている。実際、カサの回復力がなくなっても綿ふとんの落ち着いたぺちゃんこ感と程よい硬さの畳の相性で十分な寝心地は味わえるという人も多い。だが底つき感を覚える人も事実多くいる。
昨今、綿のふとんといえば多少ポリエステルを混ぜて作る人が多い。これは決して間違えてはいない。なぜならポリエステルが入っているふとんはコシがあるしカサ高はいつまでも長続きするので日に干す頻度が少なくてもあまりへたる心配はない。天然100%より面倒じゃない。天然は何度も言うがマメに干してもカサがなくなってくる。だからポリエステルが入っているふとんは「お客様思い」ともいえる。

本来はいじってはいけない作品だったと僕は確信する
 だが僕は意地でも綿100%にこだわる。ポリエステルを混ぜることは間違えではないが、江戸時代にはそのような技術はなかった。だから勝手な考えかもしれないが畳で寝ているお客様には僕はなるべく2枚敷きを勧めることにしている。江戸時代の資料などでも2枚敷きや3枚敷きで寝ている姿を見かける。(といっても身分の上の人の睡眠環境だが)、特に吉原の遊女などの図鑑を見ていると3枚敷や5枚敷の絵が多いが当時は遊女の格はふとんの枚数で表していたぐらいだ。確かに裕福な貴族が遊女やそのお付などと背の高いふとんの上で花札などの遊びに耽っている姿も多い。
 畳、着物、茶道、書道などの日本の伝統品、伝統文化は現在に至るまで何一つ技術が変わっていない。つまり当時から完成度の高いものとして確立されていたのだ。だから先代の人が開発してきた中に「綿ふとん」があるわけで本来はいじる必要がない作品だったと僕は確信する。茶道も現代に合わせて時間を短縮したものにすればたちまちその「価値」は崩れていく。
 綿100%でどれだけ寿命を持たせることができるかということは果てしない技術目標だ。しかし僕は綿100%以外はするつもりは全くない。いつまでも「せんべいふとん」でも構わないと思っている。それぐらい僕は綿マニアでいるつもりだ。

次回は「パン屋さんと肉屋さん」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年5月に執筆されたものです

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3.「催事が教えてくれた大事な事」 東武百貨店での催事は僕にとって最高の教室となった~その2~

緊張がピークに・・・弱いぞ自分!
いよいよ東武宇都宮百貨店で「大九州物産店」の催事を迎えた。開店前に朝礼があり、役員の挨拶からはじまった。低い声だが気合の入った口調である。トップが気合入っているとこちらも俄然やる気が出てくる。
その後担当マネージャーが催事中の注意事項や全体の売上目標額を言っている。
そして最後に「がんばっていきましょう!」と我々にエールを送った。だが目標額を聞いて僕はずっと緊張しまくっていた。「あ~うちだけ全然売れないんじゃないの!?」
大声で言いたくなった。ともかくスタートである。
いつもは根拠がなくても「自信」だけはあってひたすら前へ進んでいるのに今回は、めずらしく「不安」が体中に動き回っている。開店直前に周りの人たちに一通り挨拶をして、気を紛らわせようと努力したが吐き気が止まらない。弱いよ自分!
周りの店は年中、全国各地で物産展を行っているようで、すでに顔なじみの人たちが親しげに話している。別に僕が孤立しているわけではないが、なぜか高校時代にニュージーランドへ留学していた頃を思い出した。初日の教室に入った瞬間を思い出した。周りは知らない人ばかりだからそういう気持ちにもなって当然だ。ここでは新参者である。
いよいよ開店だ。どっと客が入ってきた。我がおたふくわたの看板に一瞬、目が止まる人が多かった。これはいいぞ!ここのお客は毎年催事に来る常連である。その人たちから見ればおたふくわたは初デビューでありインパクトはあった。だが・・・そのまま通過する人が多い。
なぜなら来場者のほとんどはすでに購入するものが決まっていて、一直線に目的の店へ向かう。「あんた元気だった?」「今年もやってたのね」そういった会話があちこち聞こえた。購入した後に満足感を得たお客たちはあとはウロウロと店をながめながら帰っていく。そういったお客を我々の前に立ち止らせないといけない。

同時に聞けた「あんた、今さらなんで綿なの?」と「そうよね今こそ綿よ」「懐かしいわねえ。おたふくわた・・」
そういう一言を言ってくださるだけで僕の中にあった不安がどんどん消えていく。「綿ふとん!へえ懐かしい」「あ~今こそ綿ふとんよねえ」
初日の後半にはそういう声が増えてきた。また親子連れでは母親と娘の会話が聞こえてきた。「あんた綿のふとんなんて知らないだろ。日に干していい匂いするんだよ」「へえ~」
一方厳しい意見も出てきた。「今さらなんで綿のふとんなの?」「高いわねえ、もっと安くしないと売れないわよ」「羽毛で寝るともうやめられないわよね」「手入れが面倒でしょう。」「打ち直しするふとん屋さんがまわりにないからも面倒でねえ」
「今さら」対「今こそ」この対極の声が聞けた!僕は心の中でなぜか嬉しさがこみ上げてきた。こういうお客の本音が聞こえるのは催事の良さだと思ったからだ。これは今後の商品開発に大いに役に立つ、無料で手に入れられるマーケティングリサーチである。
印象に残ったのは「どうですか綿のふとんは?」と僕が聞くと「みんなねこのあたりじゃ、ふとんが余って押入れにパンパンに入っているのよ。昔は泊まっていく親戚・友人が多かったけど最近は皆帰るでしょ。あのふとんの事考えると欲しいと思っても買う気が失せるのよ」 この会話が先日当社で行うことにしたおたふくわたGREEN&CLEAN 立ち上げにつながったのだ。

なぜ急に売れ出したかお客から聞いて驚いた。
初日は売上ゼロだった。今まで催事をしていてこんな事はなかった。おたふくわた復活してはじめて味わった体験だ。いや今まではうまくいきすぎたのだろう。
さらに、少し離れた距離でこちらも新参の博多人形の店が初日だけで500万円売れたという話を聞いて僕はある意味ふっきれた。
「明日から自然体でいこう」2日目もゼロだった。しかし暇な姿を見せるわけにはいかない。僕らはひたすらお客様に会話をしていこうと積極的に動いた。
催事3日目ぐらいから、なんと、ふとんが売れるようになってきた。なぜ急に売れてきたのか・・・客とは恐ろしいもので初日、2日目を遠くからお客は我々を見ているのだ。「初日からおたくの会社はよく動いていたせいかお客も多く立ち止まっていたでしょ。だから結構気になってね。遠くから見たらすてきなふとんだからね。旦那と相談して買うことにしたのよ」これに似た台詞は何度か聞いた。
初日、2日目と我々は無視されていたのではない。様子を見ていたのだ。おかげで3日目から最終日まで連日売れて結局20枚近く販売出来た。予定よりは少ない数だったかもしれないが催事初出場にしては大成功である。あきらめず閉店まで最後まで頑張った社員を褒めた。
何度も様子を見に来てくれた酒見バイヤーは「ふとんは人形のように手軽ではないし食べ物のように消化できるものではないですよね。初日から3日目はひたすら種まきをしていれば後半は必ず芽が出ます。良かったですね。今後の反省材料も多いと思いますが良くやってくれましたよ」芽が出る・・・心に染みた台詞だった。
酒見バイヤーは本音ではもう少し売れると計算していたはずだ。その期待に応えることは出来なかったがそれでも20枚近く売れたことは安心してくれたと思う。そして「花が咲く」ではなく「芽が出る」という言い方をしたバイヤーはきっと来年以降、当社の努力次第で「花になる」と信じてこのような含蓄ある言い方をしたのだろう。
今回は花になるような結果ではなかった。だがそれ以上に「お客の声」という教科書を手に入れたことはわが社にとても大きい成果だった。
酒見氏の協力に心から感謝し今後の商品開発に役に立たせようと思った。
次回は「おたふくわたはせんべいふとん」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年4月に執筆されたものです

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2.「催事が教えてくれた大事な事」~その1~

物産展でふとんを販売することは不安だった。
それは昨年の冬、東武宇都宮百貨店のバイヤーである酒見氏の「お時間があればお会いしたいのですが」という丁寧な口調で当社に電話を頂いたのが始まりだった。有名百貨店の商談は嬉しいものだが、同時に、どういう形での販売になるのかもに気になった。
当日、酒見氏が岩田屋でのおたふくわたの販売が好調なことを関係者から聞いて当社に興味を持ってくださったといういきさつを聞いた。そして酒見氏から出た企画は意外なものだった。「九州物産展という催事があるのですが、そこに出展してはいかがですか」物産展・・・東武百貨店では北海道と並ぶ人気の催事で、今回で26回目の開催になるという。

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大変ありがたい話だったが僕は相当悩んだ。今までイベント毎にふとんの売れ行きが好調だったのは、それらは「眠り」という空間で行われたことが成功の要因だったからだ。例えば岩田屋での2度のイベントはいずれも「寝具売場」での開催。つまり来場してくださったお客はほとんどが「眠り」に興味を持って足を運んでくれた人たちだ。そこには綿の懐かしさ、根強い人気、おたふくわたブランドへの愛着、健康への関心・・・これらの要素もあったかもしれないが、それはあくまで「眠り」という土台があったからこそ、成功したのだ。
だが今回は違う。「物産展」という別世界だ。「眠り」の目的ではないお客が主体になる。僕らは今までいた空間から飛び出し荷物一つもって全くの異国の地で商売をすることになるのだ。物産展のメインは食料、惣菜が多い、それにふとんよりも代表的な伝統品、土産が沢山ある。ふとんはここで浮きはしないか・・・せっかく好調な売れ行きを示しているのにこの催事で大失敗になったら社員の士気が下がらないか。そして僕の「自信」も揺らがないか。そう考えた。
酒見氏の「いかにお客を感動させるかが大事なんですよ」この一言が決め手だった。
それと、おたふくわたは博多創業ではあるが「九州物産」と呼んでいいのかも悩んだ。活動の中心は東京だし中綿も外国の最高級である。仕立ても神奈川の野原さんだし、製品自体には福岡とは少し距離がないのか悩んだ。僕はこれらの不安を酒見氏に正直にぶつけた。でも心の中ではやはりこのイベントに挑みたいという本音もあった。だから僕は最後に「バイヤー、おたふくわたは博多の魂が入っているんです」と声を大にして言った。
目をつぶって考え込む酒見氏を見てもしかすると「今回はやめておきましょう」と回答してくるかもしれないと予感した。
しばらくすると酒見氏は目を開けて「原田さんとお会いして分かりました。 原田さんが感じる情熱、魂を見て、おたふくわたは物産展に出していいものだと確信しました。売れるとか売れないは今回は大事じゃないんです。物産展はどれだけお客様に感動してもらえるかが大事です」酒見氏のセリフには涙が出そうになった。こんなドラマのような台詞を言われたら、やってみようという気になる。と同時に酒見氏はやはり商売のプロであると感心した。
商売をしていると良く「百貨店は条件もきつくて、売れないとすぐ撤去させられる。冷たい人間の集団だ」と聞くが僕が出会った数多く百貨店の人にはあまりこういう人はいない。いやむしろ、そういう温かい人間がいま百貨店の主役になっているのかもしれない。
さあいよいよ催事だ。どんな結果が出るか何だか楽しみになってきた。
次回は東武百貨店での催事は僕にとって最高の学校だった!~その2~をお送りします!

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年4月に執筆されたものです

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1. 「仕事のコツは妄想である」

あっという間に4月になった。新学期、新年度、など子供から大人まで皆にとって新しいスタートの月。僕のいる会社も新年度を迎え、今年度から「おた ふくわた復活劇」ではなく「結果」を問われる大事な1年となる。どういうテンションで来年の今頃このコラムを書いているか楽しみだ。
「長い間お世話になりましたが、残念ながら・・・」なんて悲しい書き出しのコラムにだけは勘弁である。どんなことあってもおたふくを続けたい!
さて新しいスタートとして新製品の発表、青山ショールームやホームページのリニューアルオープン、島田洋七原作の映画「がばいばあちゃん」とのタイアップ企画、さらに新たに社員も入り、今月はかなり話題が多いスタートとなった。また今までお世話になった会社と契約を終了させた一方、新しい出会い、提携や契約をはじめた月でもある。
だが大事なのはやっぱりその勢いを「継続」させること。最初のスタートが良くでもスローペースになれば最終的にはビリになる。運動会でいつも僕が経験してきたことを会社にまで持ち込むことはしたくない。でも継続ってホントに難しい。とにかく支えられる「何か」がないとすぐに頓挫する。
僕の支え・・それは「妄想」である。
僕には良くも悪くも「妄想癖」がある。家内はいつもあきれ顔だが仕事に関しての妄想と言えば、何年か先に綿ふとんのリサイクル方法が打ち直しだけでなく多くの方法が完成し、当然、環境面にも配慮できた体制となり、そのうち環境省から表彰されているとか、日本だけでなく世界の人口のほとんどが綿ふとんを使っているとか、それらの活動を評され国連でスピーチをしているとかいつもヒーロー妄想をしている。
でも僕にはこの「妄想癖」が大事である。妄想から目が覚めて現実を知ったとき、その差に悔しさを覚えて実行へいこうと動き出すのが僕の行動力の源である。分かりやすく言えばかっこいいアクション映画を観た後に、強い気になってけんかしたら見事惨敗した自分に腹が立ち、翌朝から鍛えはじめるという感じだ。「差の悔しさ」が僕にはバネになる。
おたふくわたを復活させた時に、いつかあの百貨店と取引してやるんだ、雑誌に出ているこのバイヤーといつかは喫茶店や打合せ室で商談をしているはずだ、来年の今頃はこういう感じでおたふくわたは新聞に出ているはずだ、・・・なんていつも考えていたが、それに近いことは多少実現できた。
来月から色々また皆さんにお知らせすることが出来るだろう。その中で読者が驚くようなニュースもあるかもしれないし、つまらん!と一蹴する内容もあるかもしれない。
それは全て僕や仲間たち「妄想」という種まきからはじまることだ。それをどう綺麗な花として咲かせるか皆さんに見てもらいたい。今年のおたふくわたも面白いはずだ。
次回は「催事が教えてくれた大事な事」・・・を書こうと思う。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年3月に執筆されたものです

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