15.亡き父と対談した武野要子先生との出会い ~月刊誌「財界九州」にハニーファイバーが載る!?~

昭和55年は弊社が創業してちょうど140年目を迎えた年です。これを記念して弊社の社史をまとめた「目で見るハニーファイバーの140年」が出版されました。主に創業からの歴史や活動内容そして歴代社長の紹介などが掲載されているのですが、他に「特別対談」として当時社長であった亡き父原田憲明が数人の著名人と行った対談のページがありました。その中で博多の歴史を研究されていた当時福岡大学の教授であった武野要子先生との対談に興味を持ちました。綿や博多の歴史についての対談なのですが、武野先生が弊社の歴史を研究しているうちに意外な事実があった事を話しておりその内容が非常に面白いものでした。私は対談を読みながら無性に武野教授に会いたくなりました。先生は1929年にお生まれになっており現在お元気であれば73歳です。私はインターネットで調べる事にしました。すると2年前に岩波新書から「博多」という本を出版されていることが分かりました。そして現在は兵庫大学で教授をされていることが分かり、私は早速電話をかけました。

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昭和56年頃の故・原田憲明氏と武野要子教授の対談風景

何しろ亡父との対談も20年ほど前の事ですから電話で伝わる先生の声も驚きに満ちていました。しかし当時の事を良く覚えていてくださり私がお会いしたい旨を伝えると先生は「ぜひお会いしましょう」と即答してくださいました。 武野先生は現在でもハニーファイバーが会社を継続している事を喜ばれたのですが電話の最後に「お会いした時にご相談したい事があります」とおっしゃりました。先生は1週間のうち兵庫と福岡を行き来しており私も福岡に定期的に出張することから福岡の先生の事務所でお目にかかることになりました。 武野要子先生は1929年に静岡県でお生まれになりました。長崎市で育ち、53年には九州大学経済学部を卒業。同大大学院修了後に九州産業大を経て70年に福岡大学教授に、その後名誉教授になられ99年からは福岡大学の名誉教授、兵庫大教授になられました。「博多の豪商」「神屋宗湛」「博多」など数多くの著作があり、現在は福岡市に在住しておられます。先生は現在大学で教壇に立つ傍ら新聞や雑誌などへの執筆活動を精力的に行っておられます 。

私はついに今年の春に先生にお目にかかることが出来ました。緊張しながら事務所のドアをノックすると助手の女性が出てきて私は自己紹介を済ませ奥に案内されました。するとそこには社史に出ていたあの武野先生が座っておられました。先生は現役で教授をされているからか姿勢もまっすぐで、また顔色も良く大変お元気そうでした。 「まあ憲明社長に似ていますねえ・・いやいや懐かしい。」と父を見ているかのような顔で先生は私を迎えてくれました。社史で亡き父と対談した先生が目の前にいる。そう思った瞬間私は感動のあまり言葉に詰まってしまいました。 先生からは当時の父との対談の様子や弊社の歴史などのお話を、そして私は現在の事業内容、そして自分の活動内容、将来の夢、などについて話しました。そして父がお世話になった方々にお会いして会社の歴史やふとんの歴史を聞き歩いている事、また今回先生とお会いしたかった主旨を話しました。

しばらくすると先生は「先日電話で話したご相談したい内容とはですね・・」と話し始めました。その内容とはハニーファイバー株式会社が現在でも会社を継続している事実を博多の方々に広く知らせたい、というものでした。現在先生が寄稿されている財界九州社発行の月刊誌「財界九州」(九州で有名な財界誌)に弊社の事を書かせてほしいとおっしゃるのでした。 「寝具業を撤退したと聞いて私は会社そのものも解散したと思っていました。(苦笑) でも憲明社長のご長男がこうして会社に入られ、夢を持って活動していることを博多の方々に知らせたいと思います。九州も色々歴史ある会社がなくなったり買収されたりと寂しい話しも多いですが、駅前が徐々に再開発されはじめたり各企業も商人の魂を消してはいけないと必死に頑張っています。それに『おたふくわた』というネーミングを懐かしむ人も多いと思います。連載で書きますね」という事でした。

そして今年「財界九州」9月号、10月号に弊社の歴史などが武野先生によって詳しく紹介されたのです。 この記事について九州の方々から数多くの問い合わせもあり、また内容も好評だったので次回から2回に渉り武野先生が書かれた財界九州「九州の商人 ~ 追想おたふくわた~」を抜粋してご紹介しようと思います。その後は和田哲の和田会長との出会いを書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年9月に執筆されたものです

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14.個人の体型に合ったふとんを作る・・・・野原久義氏

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「皆さんそれぞれ体型が違うし寝ている時の環境も違いますよね。それぞれの事情に合わせたふとん作りが出来るのが専門店の強みだと思うんです」と話すのは神奈川県大和市で寝具店を営む野原久義氏。野原氏はまさに「一生懸命」という言葉が似合う方です。 野原氏は一昨年の「第19回技能グランプリ」の寝具職種で初参加ながら総合第2位という快挙を成し遂げた方。ちなみに「技能グランプリ」とは熟練の技能者が技能の日本一を競い合うもので、寝具の他に機械組立、園芸、服製作、染色、料理、建具、ガラスなど様々な競技があり、まさに日本最大の技能競技大会です。大会の優勝者には、内閣総理大臣賞が贈られます。寝具技能者にとってこのレベルの高いグランプリで優勝することは超難関でありまた最高の名誉といっても過言ではありません。初参加でこの快挙を成し遂げたことが評価され野原氏は石原慎太郎東京都知事から表彰状を授与されました。そして昨年3月に行われた「第20回技能グランプリ」では見事総合優勝をされました。

野原氏は一昨年に「円座ぶとん」という種目で苦戦を強いられたため、その後1年間円座作りのために独自の縫い方を考え出すなど「一生懸命」研究した努力が報われました。その研究熱心さは寝具についても例えば敷きふとんの中心部は体重がかかりやすい部分なのでどんな職人も通常真ん中に少し綿を多く入れるのですが、野原氏は「肩口の部分にも少し綿を多めに入れます。人が寝ていて一番汗をかき湿気の多くなるのが背中から肩にかけての部分なのです。また背中は寝返りなどで力が加わるので綿を少し多めに入れることにしています。」と独自のふとん作りをしています。

今回私はふとんのたたみ方も教えていただきました。 「敷きふとんを広げてみると分かりますが四辺に縫い目がない部分が一箇所あります。そこが枕を置く部分になります、まず寝ている表面をひっくり返して(ふとんの表面にある綴じ糸の結び目が上です)枕と逆の部分から3分の1程度に折りたたみ、回転させるようにもう一度たたみます。そしてひっくり返して起します。そうすると『の』という字みたいになりますがこれだと上半身にかかっていた部分が緩やかな曲線にたためるのでシワになりにくく湿気が中にこもらずに済みます」と教えてくれました。(話がそれますが座布団も縫い目が無いほうが前で、あるほうを後ろにして敷くといいます、そして縫い目を正面にすると縁の切れ目といって縁起が悪いという意味と、親しい仲に対しては都合が悪いという意味があるそうです)

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ラベル空白の部分に購入日付を入れることにより 打ち直しの
目安が分かります。

綿というのは年数が経つとどうしてもカサが減るのですがお客様の要望によっては綴じ糸を多めに使い綿を抑え数年後にその糸を外すと抑えていた綿が膨らむような工夫もされています。こうした工夫を日ごろ考えていらっしゃる野原氏には感服してしまいます。 お客様に対してのサービスも徹底しています。(最近は他店でも採用していますが)野原氏はなんと20年も前から「敷いて3年 着て5年」と書いたラベルの下に次回の打ち直しの目安の日付を記入しておくなど常に「お客様本位」の職人さんです。不況の影響は寝具業界そして専門店にも当然ありますが、このように日々努力されている寝具店を見て私は寝具業界にもまだまだ希望が持てる、と確信しました。

木綿の話や寝具全般についての質問を沢山しましたが野原氏は嫌な顔一つせず丁寧に答えてくださいました。 「木綿を昔の作りでやれば当然重くなるが例えば高齢の方には、下に敷きパットのようなものを使っていただき、その上に綿を少なめに入れた軽い木綿ふとんを使っていただくようにアドバイスをさせていただいている。」とお店の真ん中に置いてあるベッドを使って説明してくれました。最後に「私は羽毛や羊毛に行ってしまった人をもう一度呼び戻したいんです。そのためであれば労力は惜しみません」とおっしゃいました。 帰り道「この人にふとんを作ってもらいたい。」と私は素直に思いました。 実は野原氏にはあるお願いをし、協力してもらうことになりました。このお話はまたの機会に書きたいと思います。 次回は亡き父と対談したことのある武野教授との出会いについて書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年9月に執筆されたものです

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13.渋谷にもいた頑固職人・・・・ 自転車でふとんを運ぶ中島昭之助氏

前から気にはなっていました。昭和30年代に建てたであろうそのふとん屋さんは自宅の近くにあり、たまに帰路のコースを変えてそのお店の前をゆっくり歩きながら通っていました。ある時建物の横にあるプレハブ2階の窓からふとんを作る初老の職人さんの姿が見えたので「まだ現役で頑張っていらっしゃるんだな」と思いながらしばらく立ち止まってその姿を眺めていました。お店の前には掲示板があり大きい紙にご主人が書いたと思われる筆字で「木綿ふとんが見直されています」という見出しを張り出していました。「木綿ふとんは保温性・吸湿性が良く四季を通じて快適です。そして程よい硬さと弾力性があります。また自然の恵みから出来た植物繊維なので体にも優しくアレルギーにもいいことが分かってきました。重いふとんが苦手な方でも羊毛などと同じ目方に仕立てられます。」という内容が大きい字で書かれていました。

私は週末に開店を見計らってお店に行くことにしました。お店に入るなり名刺を渡し自己紹介をするとご主人は「ああ、おたふくわたさんね・・・あそこの綿はね私は嫌いだったよ」と開口一番に言いました。初めておたふくわたを批判する方に出会えた事といかにも頑固そうな人柄に私は一層興味を持ちました。 中島ふとん店は渋谷区の神山町という場所にあります。ご主人の中島昭之助さんは現在73歳です。物心ついたときから「親方にこの鯨尺で叩かれながらふとんの作り方を覚えた」そうです。(鯨尺とは若い方はご存知ないかもしれませんが竹製で出来た長い物差しです。)現在でも木綿ふとんを注文するお客さんは多く中には若い主婦なども「子供の頃使ったあの程よい重さの木綿ふとんに戻したい」と求めてくるそうです。「近くに東急百貨店本店があるから羽毛は皆そこで買うんだろう。うちの方にも同じ品質で更に安いものもあるんだけどこの辺りの人は店の外観で選ぶようだな(苦笑)」

木綿ふとんの事が書かれてある表の掲示板のことを話すと「あれは月に何回か書き直して貼っているんだ。木綿ふとんは最近見直されているだろう。このあたりの住民はそういうものをなかなか知らないだろうから、ああやって宣伝しているんだ。変に印刷するより手書きで書いたほうが おや、なんかあったのか? と思うだろ(笑)」となかなかの演出ぶりですが、綿の良さを知ってるからこそ、それをもっと広めていきたいという気持ちが私にも伝わってきます。そして話題はおたふくわたの思い出話になりました。 昔よく「おたふくわた」の営業マンが中島氏のところに売り込みに来たそうです。「うん毎日来ていたなあ。安河内さんという方かな?私が30歳ぐらいの頃は確か東京に進出したての頃だろうな。あの頃のおたふくわたは物凄く勢いがあったよ。その結果このあたりのふとん屋さんにはほとんど納めていたからね。安河内さんははまめな営業をしていたよ。」

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でも中島さんはおたふくわたの綿が嫌いだったんですよね?と、私。 「いや高級綿だからね柔らかいんだよ。インド綿もさらさらしていていい綿だったんだけど私は個人的に硬めの綿が好きなんだよ。おたふくわたさんは柔らかいというイメージがあったね。」 昔、関西と関東では木綿ふとんの好みが違ったと聞きます。使う機械にも多少の違いがあったのですが関西は柔らかい綿を好み関東では硬い綿を好むという傾向があったようです。中島氏に今後のお店についてお聞きしたところ「死んだら閉店だよ。子供には継がせません。お得意さんもいるから生きている間は困らない。」そのお得意さんの中でも有名なのが近くにあるNHK本社だそうです。時代劇の番組で使われる雪は中島氏が売っている合繊を使っているそうです。

中島氏は、とても73歳とは思えないほどお元気なのです。画像にも出ていますが2枚の板を自転車の後ろに積んで今でも渋谷から20キロはある五反田や目黒あたりまでふとんを載せて運んでいるそうです。 すぐ近くに木綿を愛している大先輩がいたことに私は嬉しくなり、それから私は中島氏のお店の前を毎日通ることにしました。ある夜もお店は閉めていましたが2階でタオルを巻いてふとんを作っている中島氏を見かけました。 次回は昨年技能グランプリで総合優勝を果たした神奈川の野原氏について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年8月に執筆されたものです

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12.タケダふとんセンター「武田製綿」とおたふくわた

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内部の綿の様子が見られます

埼玉の「JR大宮駅」から車で40分、比企郡という山のふもとにタケダふとんセンター「武田製綿」があります。緑が多い、のどかなこの場所で武田社長はご子息を含む若い作業員の皆さんを熱心に指導しながら綿を作っています。 実は当社が寝具を営んでいた頃、上尾に自社工場があったのですが、打ち直しなどの量も多かった為に協力工場が必要でした。武田製綿さんとはその頃からのお付き合いです。 現在ではいくつかの卸問屋に頼まれたブレンドでそれぞれのオリジナルブランド名をつけて玉綿を主に作っています。道路を歩いているとかすかに聞こえてくるガシャンガシャンという音を頼りに私は工場へ向かいました。そして工場のドアを開けると沢山の機械の中で皆さん懸命に綿を作っていました。

 

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綿を折りたたんで完成です

武田社長は当社の協力工場としての関係がなくなった後は打ち直しだけではなく玉綿を作ろうと機械や工程を徹底的に見直しました。その時ハニーファイバーの元従業員で現在綿花商として活躍されている方が武田社長に綿の作り方や機械の見直しについて連日アドバイスをし、今に至ったそうです。この方は今でもよくこの工場を訪れているそうです。   現に掛蒲団によく使われる「メキシコ綿」は繊維が細く長いため、あまり機械にかけすぎると傷みやすいので、廻し切り機という工程を抜きダクトを通って次の機械にいくなどの工夫がされています。このダクトには綿がきちんと通過しているかどうか見れるよう透明状の小さな窓があります。また通常の製綿工場よりもカード機を多く使っているのでなめらかな綿を作ることも出来ます。

綿を折りたたんで完成です 「専門店さんの中でもおたふくわたを良くご存知な方が多いのでそのお客様を裏切らないように品質の良い綿を作ることを心がけています。」と武田社長は流れていく綿を見ながらおっしゃいました。 綿の品質を更にあげていこうとする武田社長の熱意を見ただけでも私は工場に来た甲斐があると思いました。決して大きい工場ではないのですが、玉綿を作るのに充分な機械は揃っており、また綿にくっついている小さい塵や葉ごみなどを落とせるクリーナーもありました。製綿だけではなく、蒲団を丸洗いする洗濯機や乾燥機などもありましたし、クッション用の機械や自動的に綿を蒲団中に入れる機械などもあります。 武田製綿さんはこのように様々な設備が整っており、そのため硬い・やわらかいなど目的に合わせた綿を作ることができます。まさに「贅沢に綿を作っている」綿工場という印象です。

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これがインド産の綿俵です。

「ハニーさんの協力工場時代は打ち直しを主にしていたので、ここまで綿にこだわった機械は揃えていなかった。その後、ハニーさんの元従業員の方や専門店の方のアドバイスのおかげで皆さんの前に出せる立派な玉綿が出来上がったと思います。私の信条はとにかく丁寧に作ること、これが一番だと思います。」と武田社長はおっしゃいます。 工場を一旦出て向かい側の倉庫に行く途中「早くここから出してくれ」と言わんばかりの綿が出ているインド綿俵を見つけました。「国によって梱包が全く違うのは分かるんだけど、同じ国の物なのに梱包が全然違う時があるからねえ」と武田社長は苦笑していました。 これがインド産の綿俵です。 ちなみにこの綿俵は国によって重さが違います。大きいものではエジプト綿の約330キロから小さいものでは中国の約85キロまでとなっています。 写真のインド綿は約170キロです。  

後日私は専門店さんの協力で製品化した武田製綿の玉綿を手に入れることができました。 素人目でも分かるようなふっくらとした綿で武田社長が話されたまさに「丁寧な」綿だと思いました。後日、会議で東京にいらした名古屋の丹羽氏に無理に時間を作ってもらい、この綿の一部を持っていき見てもらいました。丹羽氏は目をつぶりゆっくりとその綿を触り、背広の内側から小型の顕微鏡を取り出して覗くと「ほぉ、なかなかいいですね。この綿」とおっしゃいました。自分で作ったわけでもないのに私は無性に嬉しくなりました。 武田社長という方は多くを語らない、どちらかというと無口に近いタイプでしたが、こうした品質の高い製品作りをしていることに私は感動し、やっと「信頼できる工場を見つけた」という想いがしたのです。

次回は渋谷のど真ん中にいた超頑固職人・中島氏について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年7月に執筆されたものです

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11.澤田清子先生と初めての座布団作り

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「さあはじめましょう」と
言われ困る私

主婦、講師、職人、・・・3つの顔を澤田清子氏は持っていらっしゃいます。 澤田氏は東京都江東区北砂にある「さわだや寝具店」でご主人の尚彦氏とおふとんを売っています。澤田氏は寝具1級技能士資格を持ち、また以前ここで書かせて頂いた東京蒲団技術学院 の講師もしていらっしゃいます。そして2ヶ月に1回、地元の江東区で区内の寝具店を営んでいる方たちと「小座ぶとん講習会」を開いています。この講習会は江東区で行われているリサイクル事業への参加と木綿ふとんの特長である「打ち直し」を幅広い世代に普及するために古綿を使った座ぶとんづくりしています。

私は江東区民ではないので厚かましいお願いと思いつつもこの講習会への参加を澤田氏にお願いしました。その理由は、まず澤田氏が木綿の良さを伝えていこうと積極的でいらっしゃる事、そして中綿には100%綿を使用する事にこだわっていらっしゃる事・・こういう考えを持った方が行う講習会とはどんなものか。そしてこの講習会に参加していらっしゃる方々がどういう方たちなのか興味があったからです。 「ええ!ぜひどうぞ!楽しいと思いますよ」という澤田氏の電話での声に安心して当日会場に向かいました。当日は雨にもかかわらず会場は活気があり満員でした。

「うわあ・・・参ったなあ」私は参加されている方が全員女性であることに少々気まずく なっていました。しかし澤田氏の「原田さん生地を選んではじめましょう」と言う一言がきっかけで序々にはじめての座ぶとん作りに集中していくのです。 澤田氏が作業ごとに参加者を集め、実技を見せながら次の作業を説明していきます。そして澤田氏はじめ区内の寝具店の方々が細かく生徒のところをまわり指導していきます。 作業中に私の横にいた主婦の方は「木綿が打ちなおし出来るなんて素晴らしいのに私の世代でも知らない人が多い事に驚きましたよ。」と話されていました。「だから他の人もどんどんこの講習会に誘いたいんですよ」

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澤田氏に角を教わる

さて座ぶとんの方ですが綿がなかなか思い通りに切れないのです。ただ適当に長さを合わせて切ってしまうと完成時にでこぼこしていることが分かります。またこの座ぶとんも、通常の「蒲団」と同じで角が命です。この角をしっかり整えないと綿が引き締まらず後に崩れてしまいます。この角作りが一番職人の実力が出るところとあって、素人にはなかなか難しい作業です。 私は澤田氏に助けていただき、どうにか角も出来て座ぶとんが完成しました。澤田氏のおかげできれいに出来た座ぶとんを見て私は素直に感激しました。そして小さい座ぶとんでさえ綿の型作りが難しく、また角の作りや綿の切り方、敷き方で綿の形が変わってしまう事に驚きました。 澤田清子さん 澤田氏に角を教わる。

講習会が終わった後、澤田氏のお店にお邪魔させていただきました。澤田氏に作っていただいたお茶と御菓子を頂きながら世間話をしました。さっきまでとは違い澤田氏は主婦の顔になっていました。澤田氏は実は海外産の木綿だけではなく要望があれば日本の木綿でも蒲団を作っています。この綿は鳥取地方を原産地とする木綿で「弓ヶ浜」という場所で育ったものです。国内の寝具業や紡績業は綿花を全て海外諸国から輸入しており、国内での木綿栽培は統計上、数字には出ていません。しかし今でも「和綿」と呼ばれ、こうしてわずかですが栽培されています。品質は昔のアジアの方から在来したデシ綿に似ているそうです。しかしデシ綿でも澤田氏曰く「相当高級な格のデシ綿に近い」といいます。澤田氏だけでなくいくつかの寝具店さんもこうした考えに同調し積極的に動いています。

「私の夢は国内栽培の綿花が更に増えて昔のように日本人がほとんど国産綿で作られた蒲団で寝ることなんです。」と話された時の澤田氏はまた先生の目に戻っていました。 こんなに木綿を愛している方がここにもいらっしゃるんだ!と感動しながら帰路につきました。 次回は埼玉で活躍されている製綿工場について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年6月に執筆されたものです

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10.亡き父そして経営者 原田憲明

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社長就任披露パーティー(福岡)
左から2番目が憲明社長、
3番目が平五郎会長

私の父、原田憲明は昭和57年1月2日に他界しました。私がわずか9歳の時です。父は 旧制福岡高等学校文科を卒業後上京し昭和26年3月に東京大学経済学部を卒業、その後はおたふくわた株式会社と深い関係にあった三星繊維株式会社に入りました。 しかし当時の社長であり憲明の父(私にとって祖父)である原田平五郎社長がおたふくわたの東京進出を機に父を三星繊維株式会社から呼び戻し東京で営業活動をさせました。 父はその時から平五郎社長を超えようと必死に働き、また取引先には息子だということを伏せて仕事をしていたそうです。そして入社して3年後に父は綿の勉強をするのは原産国に実際に行くことが一番だということでインド・パキスタンに出向します。

昭和36年におたふくわた株式会社の専務取締役になり昭和41年にはハニーおたふくわた株式会社と社名を変更し3年後に父は社長に就任しました。(祖父は会長になります)綿以外にも力を入れてふとんカバーに花柄などを入れたファッションカバーの開発、脱脂綿、不織布など次々と製品を拡充していきました。そして全農や百貨店などへの流通を新しく築きました。 そしてわたの会社から寝具メーカーとして、また販社として大きく変身していったのです。しかし連続放火魔による九州工場の火災、オイルショックなど、在任中にいくつもの危機があったものの社内一丸となって乗り越えました。 そんな中、国内での評価が高かった不織布の海外進出を目指し数々の海外企業と提携を実現させ社名も「ハニーファイバー株式会社」と完全な横文字に変えました。当時日本企業は輸入輸出が盛んになりはじめたのを機に多くの社名が横文字に変えられていきました。

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米国ナショナルノベルティ社と
合弁会社設立(昭和49年・1974)

祖父・平五郎を超えようと父が新たな道を歩み始めた矢先の昭和51年に平五郎会長が他界しました。父は後見者を失いながらも難局を乗り越えようと必死にハニーファイバー株式会社の世界進出と国内でのナンバーワン企業を目指しました・・しかしその6年後の正月に祖父の後を追うようにこの世を去りました。私は9年間しか父と付き合えませんでした。 私の記憶にあるのは、週末の土曜日は父にサイクリングに連れて行ってもらい、翌日曜日には私を助手席に乗せて、今、私がいるこの神宮前のビルまで来て父は残っている仕事をし、その間、私は廊下を騒ぎながら走りまわっていたことぐらいです。当然、経営に関する教えなどは聞けないまま父と別れてしまいました。

 

父は倒れる直前、タクシーの運転手さんに「もう暖かいですねえ」と言いました。それが私の耳に入った最後の肉声です。20年経った今でもあの時の声は覚えています。父が他界したあとのハニーファイバー株式会社はどんどん変化していきました。父はその変化を天からどのような気持ちで見ていたのでしょうか。

私が大学在学中にハニーファイバーは寝具業から不動産業に転じました。それを私は今、復活させようと試みています。いったんやめた事業を再びやるのは愚かな挑戦だと言う声もありますし、簡単に復活してビジネスとしてやれるほど甘い世の中ではない事も判っている積りです。しかし、私はどうしても綿を使ったふとんを作り、売りたいのです。綿は繊維の中でも人間の体に一番やさしいと思います。 天然であり、植物であり、アレルギーになりにくい。しかし反面、重いといわれている綿ふとんですが時代に合わせた綿ふとん作りは必ずできると思います。最近、天然をキーワードにした商品が数多く出ています。ふとんも例外ではないと私は思います。 「いいふとん」とはどういうものか・・この研究は今後も進めていきます。

次回は日本の綿で蒲団を作っている女性の職人・澤田清子氏について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年5月に執筆されたものです

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9.綿の歴史を知る・・・ 産業技術記念館

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これがわた繰りです。
繊維と種を分ける道具です。

天竹神社、産業技術記念館など実り多い名古屋の訪問でしたが最大の目的は丹羽正行氏との再会です。丹羽氏との出会いについては前回のコラムを読んでいただくとして。 私は地図を片手に緊張の面持ちで今回名古屋は熱田区にある「丹羽ふとん店」へ向かいました。お店に入ると丹羽氏の奥様がおられ、私は自己紹介とお世話になっている話をしていました。しばらくするとレジの横にあるスピーカーから「どうも!」と大きい声で丹羽氏が話しかけてきました。「今、作業場にいます。すぐ降りていくから待って下さい。」と言いました。私はその間お店の商品を眺めていました。棚に置いてあった綿ふとんの柄や形が実に綺麗なのでしばし見入っていると丹羽氏が降りてきました。 久しぶりの再会に緊張と興奮が同時に起こった私はあれこれ綿の話をしようとしましたがその姿に「まあまあ抑えて」という感じで丹羽氏は笑いながら「昼食でも行きましょう」と誘ってくださり、まずは名古屋の長者町繊維街にある豆腐料理を食べながらお話を伺いました。 (余談ですがこの豆腐料理がまた絶品でした)

丹羽氏は蒲団という字の由来が元々「蒲團」という字で水辺に生える蒲穂の茎を使って作った円座(座禅用)を意味していたという説と元々「團」という字は「色々なものを集めて丸くした」という意味をもっているので、実は茎ではなく先端のふわふわした部分を指しているのではないかというお話をしてくれました。そして中国、インド、韓国などの木綿(モメン)の語源や発音が似ている事からモメンという言葉はアジアから来たのではないかとご自分で研究されたお話を伺う事が出来ました。あっという間に時間が過ぎました。

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小さい綿打ち弓で綿をほぐす丹羽氏

そして昼食後はいよいよ丹羽氏の自宅に戻り作業場へと案内されました。 丹羽氏は作業場を二つもっておりそのうち一つは空手教室の道場としても使われており まさに男の世界です。作業場にはきれいな玉わたが積んであり、昔綿屋が使っていた道具や海外で使われている道具などがずらりと揃っていました。ベランダや庭には丹羽氏が育てた綿花が元気よく咲いていました。作業場ではまず綿繰りの道具(ロクロといいます)で繊維や実を分ける作業や小さい綿打ち弓を使って綿をほぐしてくれたりしました。私も挑戦してみましたがこれが難しい・・・なかなか綿が弓から取れません。

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角にも綿が詰まっているのが
良い蒲団の条件です。

しかし丹羽氏が触るとまるで水を得た魚のようにぽんぽん綿が弓から離れてほぐれていくのです。昔の人は更に大きい綿打ち弓を使い毎日繰り返し作業をしていたのですから大変な事です。そして丁度お客から注文されていた敷き蒲団を作り始めました。その姿はまさに蒲団作りというよりも陶芸作品を作っているような芸術的な手つきです。玉わたはご自分で原綿を仕入れ機械でほぐしたまさに自家製の玉わたを使っています。丹羽氏の玉わたはまさにクリームシチューのようなふわふわした表面であたたかさがあります。それを使って丁寧に丹念に蒲団を作り上げていきました。そして丹羽氏は最後にある繊維をぱぁーっと広げてそれを綿の上にかぶせました。私はその組み合わせに最初驚きましたが、丹羽氏曰く側生地と綿ふとんが使用していくうちに汗などでくっついてしまわないよう、その繊維を入れることにより通気性も良くなりまた側生地、中綿がそれぞれ活かされていくそうです。その繊維は丹羽氏のこだわりと思いあえて書きませんが寝具でもおなじみのものです。

一時間ほどで作業が終わり頭の手ぬぐいを取った丹羽氏は休む間もなく(あたかも作業が 終わるのを待っていたかのように)新聞社から取材依頼の電話が入りました。 完成した蒲団は見た目もふんわりしていて、その上で大の字で寝てしまいたくなるような 蒲団でした。お店に行っても「寝てみたくなる蒲団」というのはそんなにないと思います。 私は丹羽氏から後日掛け蒲団を購入しました。「気を遣って買わなくてもいいんだよ」と言われましたがそうではなくあの作っている姿や蒲団を見たら誰もが欲しくなります。 そして私は今でも定期的に丹羽氏の蒲団を干しています。就寝時には干した後に香る綿の独特の匂いに喜びながら寝ています。「人に喜ばれる寝具を作りたい!」私は丹羽氏との再会でその気持ちが更に強くなりました。

次回は「おたふくわた」の変革を挑んだ、亡き父原田憲明についてお話します。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年4月に執筆されたものです

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8.綿の歴史を知る・・・ 産業技術記念館

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産業技術記念館

名古屋の西区にある産業技術記念館はトヨタグループが共同で設立した建物です。トヨタの発祥の地であるこの場所は現在でも旧豊田紡績本社工場の建物などを一部残しています。トヨタグループというのは明治初期の紡績業が盛んな頃、自動織機を開発した豊田佐吉とその長男豊田喜一郎が紡織機械と自動車の製造を基にしてできたグループです。 豊田家の歴史を知ることが出来るのと同時に最近見ることの出来ないモノ作りなども経験出来ます。道具から機械への展示、紡績機械の展示、繊維機械から自動車産業に移っていく歴史、代表車種の展示、自動車の研究や技術開発、部品など展示されており、急成長していった日本の生産技術の歴史が学べます。

 

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これが綿打ち弓。
手前の槌を使いながら弓で綿をほぐします。


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世界各国の綿の紹介

ここには江戸時代に木綿織りで使われた糸車などの手織りの歴史が分り、また各国の糸車も展示されていました。また現在日本に入ってくる綿の種類なども分り易く展示されています。やはりこれを見ると各国の綿の特長が一目で分ります。そして以前から私が触りたくて仕方がなかった道具も置いてありました。「綿打ち弓」です。綿打ち弓というのは綿花を採った後に実と繊維を分けてその繊維をやわらかくほぐすために使っていた道具です。幕末から明治初年にかけて綿弓を使って綿をうち商売していた時この道具が活躍していたのです。福岡大学の名誉教授であり博多の商業史を研究されている武野要子先生によると初代原田忠右衛門は博多で唯一専業として綿弓を使って綿を製品化し商いをしていたといいます。この綿打ち弓はほぐす時独特の音がします。 ビューンビューンという何ともいえない音です。

松尾芭蕉もこの綿打ち弓の独特の音を俳句にしています。 「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」綿打ちの弓の音が琵琶のようにきれいな音が出て心が晴れると感動して詠んだといわれています。竹弓の頃は弦は木綿、麻などを使っていましたが中国から伝えられた木製の唐弓の頃は鯨の頭にある脳筋という部分を使っていました。そしてこの弓はかなり大きく結構体力を使うのと高度な技術を要するため賃金も当時にしては相当高かったようです。

この産業技術記念館では糸車や綿打ち弓を使った実演もしており丁度社会科見学で来ていた子供たちが真剣な眼差しで見ていたのが印象的でした。 かつて日本は外国に負けない独特の「モノ作り」を行い国を発展させていきました。最近はこのようなモノ作りが減り、またTVゲームやインターネットなどのデジタル化が進み子供たちの遊び方にも変化が起きている中こうした経験は子供たちにとって大変いい経験だと思いました。皆楽しそうに糸車を廻し笑いながら綿打ち弓で綿をほぐし、真剣な目で綿花を眺めていました。私も子供に交じって綿打ち弓をしようと思いましたが恥ずかしくてやめました。しかし名古屋の丹羽職人が多くの種類の野綿繰りや糸車、綿打ち弓道具を持っているのです。

次回はこの丹羽職人さんと再会し見せてくれた職人技などについて書こうと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年3月に執筆されたものです

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7.天竹神社で起きたハプニング「亡き祖父との再会」

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ショーウィンドウ

今年初めに大阪・博多へ出張することになったので、この機会にと私は名古屋へ行くことにしました。名古屋といえば「知多もめん」など綿織物の一大生産地で有名でありまた先日このコラムで紹介させて頂いた丹羽氏との再会そして日本に始めて綿を持ち込んだと言われる崑崙人を奉った神社があるので、期待を胸に名古屋を訪問しました。『「もめん」~ふとんとわたの歴史~』でも書きましたが日本の綿栽培は桓武天皇時代の 延暦18年(西暦799年)に愛知県の三河地方海岸に小船で流れ着いた崑崙人(コンロンジン=アジア系)の青年が手に持っていた綿の種子が始まりと言われています。 日本後紀には漂着の様子が細かく記されているようです。この崑崙人が種の蒔き方や栽培方法を大宰府、紀伊、淡路、讃岐、伊予及び土佐などの 暖かい気候の土地を中心に教えていったそうです。その後の消息は諸説がありますが、神社の資料によると僧となって近江の国分寺に入ったと伝えられています。

 

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鳥居柱(右側)

とにかくこの崑崙人が日本の綿業界の繁栄をもたらした第一人者であることは間違いありません。この神社はそういった彼の徳を偲び村民達が棉租の神として地蔵堂に奉っていましたが、明治16年5月24日に天竹神社として本社殿を建築しました。ちなみに「棉」と「綿」という字の違いですが実を収穫して種を取り除いた段階までが 「棉」そのあと機械や道具で打ってほぐしたものが「綿」と区別されています。名古屋駅から約45分「鎌谷駅」という無人駅で降りました。神社まで徒歩20分。大きい道路はあるものの畑が多い町でした。日が沈みはじめ寒さもいっそう厳しくなり、また街灯も少ないので早く行かないと帰りが大変だと思い急ぎ足で神社に向かいました。年に一回は行事があるのですがあとは無人の神社。お賽銭箱も本社殿の中にしまわれていたので本社殿に向かって数秒祈りをささげました。

神社の中にはショーウィンドウの資料館があり崑崙人が着ていたと考えられる衣服や綿の種類や糸車などの道具が置いてありました。丹羽氏の綿を打つ姿の写真もありました。 しばし資料を眺めていたら夕焼け空になっていることに気がつき急ぎ足で駅に向かいました。ところがこういうときに限って用を足したくなってしまい、仕方なく神社の便所に戻りました。一息ついてハンカチで手をふきながら歩き出そうとした瞬間鳥居の足元に目がいきました・・・・なんと祖父の名前・原田平五郎と彫ってあるではありませんか! 私は思わずしゃがみこみ涙が出てしまいました。そこには他の製綿会社もありましたが、きっと鳥居を建てたころ寄贈者として名を彫ってもらったのでしょう。 会社の社員やOBの方に聞いても誰も知らずきっと亡き父も耳にはしたことがあってもこの目で見てはいないと思います。私はしばらく立てませんでした。

「この馬鹿者ここまで来ておいて私を無視する気か!」と出来の悪い孫にあきれて私に尿意を持たせてここに戻らせたのかと考えてしまいました。「来てよかった。」私は素直に思いました。 日本に綿を最初に持ってきた青年が奉られている神社を出る瞬間、祖父に「おたふくわたの復活なんて甘いものじゃないがやるだけやってみろ」と背中を押されて見送られたような気持ちで私は駅に向かいました。そもそもなぜそこまでして神社を見に行くことにこだわっていたのかも今考えると不思議なものです。

次回は名古屋の産業技術記念館の見学について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年2月に執筆されたものです

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6.中村畦碩学院長のパワー。88歳の偉大なる学院長

昨年の冬に私は昭和48年の開校以来3000人以上の卒業生を送り出した東京は板橋区にある「東京蒲団技術学院」を訪ねました。 この学校は蒲団屋さんの後継者を教育することを主にしているのですが、綿・合繊蒲団作りの実技だけでなく寝具店での経営のノウハウ、また寝具関係の教養や人間形成なども厳しく指導している有名な学校です。私は少々緊張した声で「お邪魔します!」と学校のドアを開けると2階のほうから「はい!ただいまお伺いします!」という若くて元気な声が聞こえてきました。しばらくすると一人の青年が階段から飛び降りるように私の前に現れ正座し深々と頭を下げながら「こんにちは。ようこそいらっしゃいました。」と言って挨拶をするではありませんか。まるでどこかの高級旅館にでも来たような錯覚になりました。 私は社名と自分の名前と名乗ると「はい承知しております。」青年に案内され2階へと行きました。最近あまり見かけられない気持ちの良い素晴らしい応対振りにこの学校の「味」の全てを知ったような気がしました。

「やあやあ」と学院長室から姿勢がよい中村畦硯(けいせき)先生が出て来られました。学院長は開校以来今でも現役で生徒の指導にあたっておられます。勲三等をはじめ数々の賞を受賞しておられ、またテレビ番組にも何度か出演されている偉大な方なのです。この学院長80歳を超えていらっしゃると聞いていましたが、もっとお若く見えます。無礼な私は椅子に座るなり「学院長は御幾つになられたのですか!?」と聞いてしまいました。先生は笑いながら「来年で88歳になるんだよ。来年は米寿のお祝いをね、かつての卒業生が集まって開いてくれるんだ。それまで頑張るよ!」と大声で話されました。世間話をした後、私は綿について色々聞き始めました。

学院長は生徒さんが入れた緑茶をおいしそうに飲みながら「なぜこんなに綿が寝具で使われなくなったのか。それは綿を沢山売りたいという企業と綿を沢山入れて売りたいという蒲団屋さんの関係も原因だと思う。要するに重い蒲団を売る事が主流になっていた。」 と話しました。「綿ふとんイコール重いというのが世間では常識みたいになっている。羽毛が売れ始めたころ、綿ふとんも時代に合わせて軽いように工夫して作るべきだった」と強い口調で言いました。「今は羽毛とあまり変わらない重さの綿ふとんだってある。そもそも綿ふとんを重いと感じるのは我々の若い頃に比べ今の人たちは体力が低下している証拠だ。野球選手などのスポーツマンや定期的に運動をしている人は綿ふとんじゃなければ寝れないという人が多い。だから個人の体型や年齢に合わせて綿ふとんを作ればいい。程よい重さがあったほうが体力アップにもつながる」と強調していました。なるほど。

「自分の寿命がなくなるにつれ蒲団も軽くしていくんだよ。寿命がなくなる直前はガーゼだって重く感じるんだよ(笑)」と話す学院長の目は長年教育してきた自信があふれ出ていました。かつては年間数百人もの生徒がいましたが今では十数人にまで減少しました。それでも若い男性や女性が訓練所で一生懸命に座蒲団や蒲団を作っていました。中村学院長は生徒達を眺めながら「人間が生きている限り蒲団も絶対になくならない。だからそれを作る職人も絶対ゼロにはならない。だから1人になろうと私は教育を続ける。この学校は技術だけ教えているわけではない。重要なのはしっかりとした人間になることだ。いくら技術が良くても魅力ある人間にならなければ素晴らしい蒲団は作れない」と生徒に話しかけるような口調で私に話しました。最後に私が「どういう綿ふとんを作るべきですか」と聞くと学院長は私の顔を見て 「味噌汁と同じだよ。ダシがなければ旨味はない。蒲団にもダシがいる。掛け蒲団には軽いメキシコ綿だけではなく、そこに少しインド綿のような短繊維や ほんの少しの合繊などを入れて味を作るべきだと思う。だからどういうダシを作れば いいのかをこれからあなたは学ぶべきだよ」とおっしゃってくださいました。

人生の先輩方から「最近の若者は・・」という言葉を良く聞きますが、ここにいる生徒さんの目つき、やる気そして素直な姿は「最近の若者」ではないように思いました。
次回は「亡き祖父との再会」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年1月に執筆されたものです

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