25.ついにおたふくわた復活へ行動開始!? 原田浩太郎オリジナル綿を作りました。

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いよいよ開始です!わくわくしました。

弊社ではこの2月より木綿ふとんについてのアンケートを取っているのですがアンケートに答えていただいた皆様から来るメールの中で「程よい重さがないと寝にくい」という声が予想以上に多かった事に驚いています。私は現在木綿ふとんを使用していますが、以前は羽毛ふとんを使用していました。確かに急に羽毛から木綿に変えた初めの頃は少し重たい印象を持っていましたが、最近はこの適度の重さが体に安心感を与えてくれ、羽毛では逆に軽すぎて寝にくくなっています。また部屋が寒くても夜中に目が覚めることもなくなり、朝もふとんの中はぽかぽかしています。アンケートの中でも木綿ふとんに対して「せんべいふとん」だとか「とにかく重い」という昔からのイメージを持っている方もいらっしゃいましたが、きちんと手入れをしていて、質の良い綿を選べばこのようなことはなくなっていきます。 私はおたふくわた復活プロジェクトを書き始めてから、自分の理想のふとんを作ってみようと考えていました。そして前回ここのコラムで書きましたタケダふとんセンター「武田製綿」さんの協力でようやくその夢が叶ったのです。まずは武田社長と入念な打ち合わせを行いました。私が考えていたのがとにかく肌さわりがよく、仮に中身を見ても消費者が職人さんが驚くような白くてきれいで気持ちいい綿を使うことでした。私が考えていた綿はふとんだけでなく衣類にもよく使われる高級繊維で作ることなのですがこれを掛ふとんとして作るのはなかなか作業が大変なのです。というのは細い繊維なので機械のローラーにくっついてしまうこともあるのと、かさがあまりでないのでふっくら感がないということ、そして何よりこういった綿を入手するのはなかなか難しくコストが高いなどが主な理由です。しかし武田社長と打ち合わせを重ねてついに試作品を作ることにしました。原料は綿の商社の方の協力で手に入れることが出来ました。保管状態が良かったせいか肌さわりもよく繊維もイメージ通りのきれいなままでした。さていよいよ機械で綿をほぐしていくのですが武田社長も初めてのことなので真剣な目つきで機械から目を離すことなく綿の様子を見ていました。開始してから何回も機械を止めて手で修正するなどの作業が何回も続きました。商社の方が一言「うーん、難しいかな・・。でもあきらめたくないな。」と言いました。私は無言のまま武田社長の様子を見ていました。「頼む。これが出来ないとおたふくわたが復活できない」と内心は思っていました。しばらくすると綿が出てきました。そしてその後も連続で綿を作り続けました。最後には機械も慣れて見事にふとんとしての形が出来ました。開始してから4時間後には商品にしても不思議ではないふとんの形が出来ました。

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武田社長が真剣な目で綿を追っています。

何パターンか重さを変えて作りましたが手で持った感じなどを見るとイメージしていた重さは感じられませんでした。 武田社長や皆さんの協力でこうしてオリジナルの綿が出来上がりました。 そしてこれを職人さんにふとんらしい形にしてもらい実際寝てみようと思いました。 私はこの綿を後日送っていただき、この綿でふとんを作ってもらいました。 何人かの方に試作品として寝ていただきましたが「思ったより軽い!」、「心地が良い」、「干すとかさが戻るので気持ちいい」、など嬉しい声をいただきました。 羽毛、羊毛に押されている木綿ですがまだまだ魅力があります。私はおたふくわたブランドでもう一度ふとんを売りたいという気持ちが更に強くなりました。
次回は亀川氏との再会について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年2月に執筆されたものです

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24.一粒の種から綿を育てる「綿の会」との出会い

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大夫堀公園内にある民家園です。
糸紡ぎ教室を行ったり展示品が置いてあります。

「綿の魅力に引かれて皆さんこの世界に入ったんですよ。」と話すのは綿の会の14年度リーダー北見ミホさんです。「綿の会」との出会いは昨年3月24日に丹羽氏が綿の会の活動拠点である世田谷区立次大夫堀公園民家園で講演をしたのが最初のきっかけです。 この会は民家園の近くに住む世田谷区民の皆さんのボランティア活動団体なのですが、公園内にある自分達で作った綿畑から綿を収穫してその綿で糸紡ぎの教室や実演、イベントなどを行っています。民家園は都内とは思えない静かな場所にあり、昔ながらの茅葺屋根の作りはのどかな雰囲気を出しています。民家園には週末になると家族連れやカップルなどが訪れ糸紡ぎ教室を偶然見かけて飛び入り参加する人も大変多いそうです。

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教室では多くの方が参加しています。
左に写っているのが14年度リーダーの北見さんです。

教室では多くの方が参加しています。 左に写っているのが14年度リーダーの北見さんです。 私がお邪魔したときも子供さんなどが楽しそうに参加していました。 丹羽さんにもらった世界の綿をこの日おみやげとして持参して皆さんにお見せしました。 世界にこんなに綿があるのかと驚かれたことと綿といっても国によって綿の色や品質が違うということを知り皆さん大変感激していました。 私はこの日多くの家族連れが北見リーダーの綿の話や糸の作り方の話に集中して聞いているのを見て関心しました。そして子供に付き合って教室に参加したお父さん、お母さんも徐々に子供のような顔になりながら綿をほぐしたり糸紡ぎをしていました。また綿畑から集めた綿を引っ張ったりさわったりして楽しんでいました。 大人にも子供にもこのように手作りのおもしろさや大切さを学べる良い機会なんだと実感しました。 綿の会はこのように教室や講演を行っているほかは綿畑の管理や糸紡ぎの道具を作る方もいたりと「とにかく純粋に綿に興味がある人たちの集まりなんです(笑)」(北見リーダー) 子供も真剣なまなざしで糸紡ぎを習っていました。

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子供も真剣なまなざしで糸紡ぎを習っていました。

私は北見リーダーと知り合ってからたまに週末民家園の縁側に座り、会員の皆さんとしばし綿の歴史やみなさんの綿の疑問や質問などを(私の知っている範囲ですが・・)答えるなどの綿談義をしています。この縁側での些細な会話がおたふくわたを復活させようと決意したきっかけでもあるのです。というのは皆さん綿の種類や作り方などは非常に勉強されているのですが木綿ふとんなどの寝具に関することは興味があっても知る場所がなかなかないという声を聞いたからです。綿のことを知っていくうちにどうして、木綿ふとんが最近減ってきているのかも気になっていたというような声も聞くことができました。北見リーダーは実はこの3月に新しい生命が誕生するというおめでたい話があるのですが、この会に入ってから綿の研究を進めていくうちにやはり子供用のふとんも木綿ふとんにすると決意してそうです。「やっぱり一日寝ている自分の子供にポリエステルや動物のにおいを吸わせるというのはどうも気が引けます・・。」ということで丹羽氏におふとんを作ってもらうそうです。私はこうして綿の会の皆さんと話しをしていると、もしかして一般の消費者の中でもこのように木綿に興味があったり木綿ふとんを使いたいと考えている方などもまだまだ沢山いるのではないかと思いました。北見リーダーは私と世代が一緒なのですがこうした会に入って初めて綿の魅力に気がついて綿のとりこになってしまった一人です。 ということは木綿自体にはまだまだ数多くの魅力があり、一般の方により正確な情報を伝える事により木綿ふとんはまだチャンスがあるのではないかと思いました。綿の会と知り合えた事でこの自信は更に深まったので、今回はおたふくわたとは直接関係がないのですが書かせていただきました。またヒントを見つけにあの民家園に行きたいと思っています。 次回は武田製綿さんで作った原田浩太郎オリジナルの綿作りについて書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年1月に執筆されたものです

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23.日本にもある綿畑 知多市歴史民俗博物館で見た美しい綿畑

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巨大な打瀬船です。帆は木綿を使用して
いました。 木綿は雨や海水を吸いすばや
く放出するので戦国時代でも帆は木綿を
多用していました。

名古屋在住の丹羽氏の紹介で私は昨年愛知県知多市にある歴史民俗博物館に行ってきました。「古式綿打ち保存会」でもある丹羽氏はこの博物館内で講演や木綿のはた織りなどのアドバイスなどもしています。博物館は知多周辺で行われていた生業やその時代の人々の生活などの資料や道具を展示しています。また民俗、歴史、考古、美術などに関する企画展なども開催していています。知多半島で有名な産物・・・といえばやはり「知多木綿」ではないでしょうか。江戸時代の初め「知多木綿」はすでに江戸に送られていたといわれています。知多半島といっても地域によって、はた織り機の形や操作方法などもさまざまで、はた織り機で藍染はんてん、常着(つねぎ)、ふろしき、寝巻きなどを作っていました。また美術館の中にある全長15メートルの巨大な「打瀬船(うたせぶね)」の帆布も頑丈な木綿が使われていました。


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綿が朔から出ています。

博物館の館長である平松秀貴氏や職員の方に館内の展示物を丁寧に詳しく説明いただいた後、私はしばらくこの打瀬船をながめていました。そしてしばらくすると職員の方に案内されて私は外に出ました。すると・・・博物館の外に綿畑があるではないですか! 私は子供のように畑めがけて走ってしまいました。農林水産省によると綿花の国内生産として昭和40年(1965)に茨城、鳥取、佐賀での生産があったのを最後に統計上は記録されていません。ですがまたこうして日本のあちこちで小さい綿畑があるのです。 以前も書きましたが松尾芭蕉がこの綿畑に感動して「名月の花かと見えて綿畑」と詠んだほど見た目も美しいものだったに違いありません。私がお邪魔したときはまだ花が咲き始めたばかりの頃でしたがいくつか花がすでに咲いていたり朔(さく)がさけて白い綿があふれでているものもありました。綿花について簡単に説明するとつぼみがついて3週間ぐらいすると開花します。花が咲いたあと2、3日でしぼみやがて青い朔が出来ます。 そして実が熟すと破れ目ができてあの白い綿が顔を出すのです。


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左右微妙に葉の色が違うのが分かります。
(左がアジア綿、右が米綿です)。

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米綿(植物名ヒルスツム)の花です

綿花は害虫駆除などでけっこう手入れが大変で、きれいに綿が出てくるようにするのは素人ではなかなか難しいようです。 この博物館にあった綿花はアジア綿と米綿の2種類です。アジア綿はインドから渡ってきたといわれていますがかつて日本や中国もこの種類のものだと考えられます。短繊維でコシがあるので敷きふとんによく使われています。 一方米綿は繊維は細長く寝具では掛けふとんに使われますが、それ以外でも広範にわたって使われている実用性の高い種類なので国内に輸入している紡績の糸はほとんどがこの米綿です。

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アジア綿(植物名アルボレウム)の花です。
日本もかつてはこの花があちこちで咲いていたのでしょう。

綿畑は地元の子供も興味があり喜んでその成長を見に来るそうです。そしてこんなに広く大切にされている綿畑を見ていると心が和んできました。自然の恵みでできたこの白い綿をふとんに使うことはやはり体にとっていいのではないかと再確認しました。 羽毛や羊毛も確かにすばらしい繊維であると思います。しかし鳥の巣や動物の毛を取る人間の姿を考えてしまうとなんだか複雑な心境になります。木綿がすべてではないと思いますが朔から白い綿が出てきたとき「この白い綿はあなた方への産物です」と思ってしまうほどすばらしい天然繊維なのだと改めて感激しました。 「育てていくうちにかわいくなってしまうんですよね。」博物館の職員の女性は笑いながらいいました。木綿の良さを伝えればきっとふとんも再評価されるのではないかと思いました。 次回は世田谷で活動している「綿の会」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年1月に執筆されたものです

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22.地方でも元気な企業がここにあります。 おたふくわたの魂を見つけた宮田織物

私は早朝たまにFMのラジオ番組を聴いています。 慌しい中で聴いている状態なのでなんとなく耳に入る程度なのですが、私がスイッチを付ける時間帯は気になるお店や会社を紹介しています。ナビゲーターが電話でインタビューをしているのですが、ある朝この番組を聴いていると「はんてん」や「作務衣」について聞いていました。 そういえばおたふくわたも寒い季節に入るとはんてんを売っていたなあと懐かしがっていると、番組の最後に紹介された会社名は聞いたことがあるところでした。 「宮田織物」・・・福岡県は筑後市にあるこの会社が東京のラジオ番組で紹介されていました。 実はハニーファイバーに勤務していたOBの方々から「一度は宮田織物さんを見学されるとおもしろいと思います」と言われていたので私は興味が湧いて宮田織物見学を決意しました。ホームページもなかなか凝っていておしゃれなサイトです。ぜひ一度ご覧ください。

仕事で博多に出張することが多いので日程を調整し、以前宮田織物さんと仕事をしていたという社員の協力を得て、会社にお邪魔することになりました。 当日は大雨だったのですが駅からタクシーで向かうと大きな宮田織物と出た看板の会社が見えてきました。 「わざわざお越しいただいてすみません」と長身でハンサムな方が奥から出てきました。 その方は事業推進部の吉開部長という方でした。宮田織物はハニーファイバーが寝具業を営んでいる時、「はんてん」などを作っていただいた事があるので、当時の苦労話なども聞かせていただきました。しばらくすると宮田常務が出てきました。宮田常務は私より少し年上ですが、経営者らしく落ち着いた雰囲気を持った方でした。 「ハニーファイバーさんには大変お世話になったんですよ。それに・・大変恩を感じているんですけどね。まっそれは後で教えますよ。まずは見学でもしましょうか。」 そういって宮田常務と吉開部長は会社を丁寧に案内してくれました。

私は実はこの会社に来て会いたかった方がいるのです。それは宮田織物のホームページTOPの下に出ている店長日誌というコーナーがあるのですが実は吉開部長の奥様であり宮田常務の姉にあたる吉開店長です。店長の日記は毎日更新しているのですがあの短い文章とはいえよく毎日おもしろくそして時にはほのぼのした温かい内容を書いているものだと感心していました。「いやあ、照れくさいですね。でもありがとうございます。」と笑顔で話す店長はイメージ通りの方でした。 工場に行くとラインがフル稼働していました。そして何より驚いたのが従業員が多いことそしてその従業員がほとんど休む暇もなく働いている姿を見たときです。

「作務衣が売れているんです。着易い、肌さわりがいい、外出などしても違和感のない格好などが評価されているのだと思います。はんてんは中綿に木綿を使っているので温かいことが一番の理由ですね。昔から愛用されている方もいらっしゃるし若い方でもあまり家の中で頻繁に暖房を使いたくないなどの理由で着ている方も多いのでしょう。」 実用的でかつ品揃えが豊富。そして何より高い品質を持っていることが宮田織物の強みだと思いました。印象的だったのは、中国などの外国などから研修生を受け入れていることです。彼女達は私のカメラ撮影や話声など全く見向きもせず目の前の生地を見つめて真剣に作業していました。「とにかくまじめなんですよ。だから商品もいいものが出来るんです」吉開部長も感心した目で彼女達を眺めていました。

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フラッシュなども一切気にせずに仕事に集中している中国人の研修生。
見習いたいものです・・。

最後にはんてんの中に入れる綿をほぐす工程を見せてくれました。と・・・そこにはおたふくわたの顔が印刷されているダンボールがあるではありませんか! 「ハニーファイバーさんや関連会社さんがはんてんを作っていた頃のものですよ。」と宮田常務に言われ私は思わずシャッターを押してしまいました。

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おたふくわたブランドではんてんを売っていた頃のダンボールが
残っていました。 これには感激してしまいました。

「ここの中綿を作っている機械はハニーファイバーさんが寝具をやめられれた後に譲り受けたものなんですよ・・本当に・・感謝しています。」恩があると話していたのはこの事なんだなと思いました。宮田常務はその後更に何か言おうとしたようですが私はおたふくわたが使っていた機械が、今もこうして汚れなどが全くないきれいな状態で使ってもらっていることに感謝の気持ちで一杯になりました。

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九州工場時代の機械の一部を宮田織物さんがきれいに使っています。

次回は名古屋にある小さな綿畑について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年12月に執筆されたものです

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21.「羽毛ふとんは軽くて体にいいと思いますか?」 ~「武蔵屋」亀川秀男氏が教えてくれた意外な事実~(下)

前回も書きましたが東京・吉祥寺で「武蔵屋」という名前でふとん屋さんをしている亀川秀男氏はこのコラムではおなじみの名古屋の丹羽氏と同様、寝具業界に警鐘を鳴らしているふとん屋さんの一人です。私は横浜国立大学で行われた「第十八回睡眠環境シンポジウム」の後日に亀川氏に電話をしてお店に伺いたいという話をしました。亀川氏は「いいですよ、私でよければ何でも協力します。」と言ってくださいました。そしてその数日後私は吉祥寺のお店に向かいました。 お店は吉祥寺サンロード商店街の入り口から数軒のところにありました。お店も明るい雰囲気でしかも人通りが多いので大変条件が良い場所と思いました。 お店に入ると店員さんが何人かいたのですが、奥のほうから素敵な初老のご婦人が出てきました。「おたふくわたの原田さんですか。どうもお待ちしておりました。わざわざお越しいただきありがとうございました。」ととても丁寧な口調で私を迎えて頂き、私は思わず恐縮してしまいました。そして亀川氏が待つ2階へと案内されました。

「こんにちは!」亀川氏は先日のシンポジウムでの厳しい表情とは変わり笑顔で迎えてくれました。ふと机の上を見ると私が書いている「おたふくわた復活プロジェクト」がプリントアウトされていました。亀川氏は私の視線に気づき「読ませていただきましたよ。綿についてよく研究していますね。」そして奥様が入れてくださった緑茶とお菓子を食べながら亀川氏としばらくお店や綿の話、そして先日のシンポジウムについてあれこれ熱く話していました。「このあたりのデパートにはほんとんどやはり木綿ふとんは置いていないんだけど、木綿ふとんが欲しいという老若男女が結構いるようでね、デパートの店員さんが木綿が欲しいならとうちの店を教えるらしいんですよ。だからうちの店は木綿ふとんが売れていますよ。」とおっしゃいました。私は先日のシンポジウムでの発言について亀川氏にもう一度真意を聞いてみることにしました。「いまスーパーや百貨店に行くとベビー寝具が沢山売られているが特にスーパーでは何千円という驚くべき安い値段で売られています。」亀川氏の表情が変わってきました。

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亀川氏

「赤ちゃんの健康に絶対良くない繊維が100%で中綿に使われているんですよ。大人より長く寝て繊維とくっついて寝ている事を考えると恐ろしくなってきます。」そして亀川氏はある資料を見せてくれました。この資料は数年前に株式会社環境分析センターというところが某有名百貨店などと協力して作った素材別に調査した寝床内温度のデータです。この調査はそれ以降なぜか取りやめてしまったというのですが… 寝床内温度とは掛けふとんの内側の温度の事です。このデータは成人女性を何人か使って温度20度 湿度65%という条件で行ったのですが恐ろしいデータが出ていたのです。 ふとんに入ってからわずか1時間で、綿は34度~35度、合繊は35度前後の温度なのに羽毛はなんと37度というデータが出ているのです。 「一回の睡眠で20回近く寝返りをうっているからいいものの、寝返りが少ないとこの温度は人間の深部体温に近い状態ですよ。これでは体に負担を与えるし確実に快眠ができない。」と亀川氏はいいました。亀川氏自身も似たような研究をしておりその結果も同様のものでした。

そして6年前に日本テレビの「おもいっきりテレビ」で某医学部元教授がこのデータなどをもとに「このような悪条件のもとで寝ていると免疫機能が低下して死に至る」と発言し問題になった新聞記事もありました。データ自体環境温度が不平等であり保温性などのプラス面を伝えてないなどの抗議があり日テレ側は謝罪したといいます。羽毛自体も非常に温かいのですが、国内の羽毛ふとんの側地はほとんど毛が出ないように加工しているので糸が密接になっており通気性があまりないのでこのような高温になるのです。亀川氏は羽毛の良さも知っているのであえてこのような批判をしていたのです。「加工方法やアレルギー問題を避けて羽毛=軽い、体にいいというイメージで売り続け、羽毛に頼りすぎた結果、寝具業界は迷走時代に入ってしまいました。」と本音を語りました。「木綿にえこひいきしているのではなく、自然の繊維なので体に優しいという情報を羽毛や羊毛ぐらいに業界が流してほしいんです。木綿だけ仲間外れなのはおかしいです。」と話されました。 最後に亀川氏は「店もいつか閉めなきゃいけない時期はいつか来るけど死ぬまで木綿を頑張って広めたいです。」と言いながらプリントアウトした私の書いているコラムを取り出し「実はこの方に会いたいんです。色々なところで噂は聞いていました。」とおっしゃいました…この方とは丹羽氏です。私は3人で会う約束をしてお店を失礼しました。綿というたった一つの繊維でつながってきた出会い・・今年は本当に幸せな一年でした。そして皆さんの励ましも支えになりました。 来年はおたふくわたのふとんが実現するように頑張りたいと思います。一年間ありがとうございました。 次回は宮田織物とおたふくわたについて書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年12月に執筆されたものです

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20.「羽毛ふとんは軽くて体にいいと思いますか?」 ~「武蔵屋」亀川秀男氏が教えてくれた意外な事実~(下)

それは10月9日~11日まで横浜国立大学で行われた「第十八回睡眠環境シンポジウム」2日目のパネルディスカッション「寝具寝装品に対する消費者の要望」で起きました。 ふとん屋さんのご主人やマスコミ関係の編集者、先日おたふクラブにも書かせていただいた板倉氏など7人のパネラーが参加し、2名の司会者がいました。

睡眠環境の他に熱エネルギーや体温調整、自律機能についてなど初日からシンポジウムはまさに中身の濃い内容だったのですが正直私は2日目のこの午後にして睡魔が襲いかけていました。ステージではそれぞれパネラーの自己紹介をしていたのですが、その時ある方のこの発言で一気に目が覚めました。 「私は吉祥寺でふとん屋をしているのですが、相変わらず羽毛に頼っているこの寝具業界に正直あきれております。羽毛が体にいいとか根拠のない宣伝をいつまで消費者に言っているのでしょうか。ふとん内の温度が熱くなる寝具は体に負担になるはずなのになぜ見直していかないのか不思議で仕方ない」と大声で話したのです。羽毛関係の団体の方が司会をしていたのですがみるみる顔が紅潮していったのは言うまでもありません。

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マイクで過激発言をした時の亀川氏(中央:マイクをもっている人物)です。
この時場内は騒然となっています。しかしこの発言を機に討論は大変盛り上がりました

しかし観客席はもとよりパネラーからも一部拍手が出ていたのも事実です。この雰囲気は「よく言ってくれた!」という感じでした。そしてパネルディスカッションはこの方の発言で大きな盛り上がりを見せはじめました。観客席にいた寝具店の関係者や一般出席者から次々と質問の手が挙がりました。「業界関係者はポーランド産とハンガリー産などの違いを消費者に説明できるのか?」「羽毛はあと数年で100%近い普及率になるのだが業界は次の策を考えているのか」などなど・・・この盛り上がりはシンポジウムの中でも一番だったと思います。そのため時間超過で途中で打ち切ってしまったことが残念で仕方ありませんでした。観客席からも消化不良のような雰囲気を感じ取りました。なぜならまだ何人も手を挙げたままだったからです・・。私はその発言をした方の紹介をパンフレットで見ました。吉祥寺で「武蔵屋」という名前でふとん屋さんを経営している亀川秀男氏という方でした。パンフレットにも羽毛に対して「冬は暖かく夏は涼しいという事実に反する販促を続けるべきではない」という文章が書いてありました。 私は直感で「もしかしたらこの方は木綿好き?」と思いシンポジウム終了後恐る恐る亀川氏に近づきました。私は「先ほどのお話驚きました。」といって名刺を渡しました。

自己紹介をすると亀川氏は驚いた顔で「おたふくわたさんがここにいるなんて嬉しいですなあ!。なつかしいです。そうですか綿の研究ですか? いやあ嬉しい嬉しい」と言ってくださいました。「亀川様はもしかして木綿を評価してくださっているのですか」と聞くと 「人間にとって木綿は自然からの最高の贈り物ですよ。下着とか洋服などは今でも木綿を一番使っている。なのに寝具業界はどうして無視していったのか。業界も反省していると思います。でも羽毛は軽くていい!と売ったから今更木綿に戻れないでしょ。」とおっしゃいました。 亀川氏は羽毛ふとんの良さもあると言いつつも木綿を衰退させていったこの流れが気にいらないということでした。亀川氏は「ぜひ、頑張ってくださいよ。私も木綿のよさをもう一度広めていきたいとは思いますが・・もうね・・なかなかね。ああいう席でしかいう機会がなかなかないので」と話していらっしゃいました。亀川氏のせりふと表情になにか寂しさを感じました。亀川氏はその後行われた懇親会の会場に向かう送迎バスが到着したので握手をして亀川氏と別れました。 私は後日亀川氏に電話をしました。そして吉祥寺の武蔵屋に足を運ぶことにしました。そこにはまた私を驚かせた出来事があったのです。 次回は亀川氏との出会いの後編を書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年12月に執筆されたものです

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19.えっ?おたふくわた復活!?丹羽氏宅で理想の綿作りへ

私がハニーファイバーに入社してから1年と4ヶ月が過ぎましたがこの間色々な方のご協力で多くの寝具業界の関係者に会うことが出来ました。このコラムに紹介させていただいている方以外にも素晴らしい出会いや感動があり、私がここまで「わた」に力をいれられたのはこうした皆さんの応援があったからだと思います。その中で特にお世話になっている丹羽氏の協力でいよいよ私は自分の理想の綿作りをしてみようと決心がつき、夏の終わりごろに丹羽氏のいらっしゃる名古屋の熱田区まで行ってきました。最初にまず丹羽氏から各国の綿をおさらいする事になりました。

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さあいよいよ綿作りがはじまります

エジプト各地方、オーストラリア、アメリカ、和綿、インド各地方、ウィグル自治区、中米のニカラグア、ペルーなど同じ綿でも国によって品質がまったく違うことに改めて驚きました。同じ白い色をした綿でも微妙に色が違い、また赤や茶色といった色の綿もありました。驚きのあまり口をあけながら綿をさわっていると丹羽氏は大きな声で「さてそろそろ作業しますか」と学校のチャイム代わりに言葉を発しました。 いよいよ工場での授業が始まります。


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私が綿を巻いているところです。慣れてない姿です。

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綿の様子を見ている丹羽氏

丹羽氏の自宅から歩いて数十秒のところに工場があります。工場の2階には前回も書きましたが丹羽氏は空手の先生でもあるので空手道場があります。まずはそこで着替えです。髪の毛が落ちないに頭にタオルを巻き、そして綿ほこりが口に入らないようにマスクをしました。着替え終わり私は丹羽氏に自分で考えた綿のブレンド表を見せました。ふつう綿を作るときは一国のものを100%使うか、ポリエステルを混ぜます。中には8対2ぐらいの割合などで2カ国の綿を使うこともあります。私は一国の100%綿以外にも色々な国の綿をブランドしてみようと思っていたのでその表を見せたわけです。丹羽氏の指導で私はブレンドの割合などを少し変えてみました。電源を入れて機械が作動した瞬間「さあ自分で考えた綿がどんな品質になるのか」と興奮気味になっていました。 綿の様子を見ている丹羽氏 「いい経験だから自分でやってごらん」と言われて私は最後の綿のたたみを機械ではなく板でぐるぐる巻いていく作業をすることになりました。綿俵から取り出した綿は割りと硬くなっているので機械でまんべんなくほぐしていかなければいけません。そして綿を梳いていくのですが同時に葉ごみなどを取り除いていくので結構時間がかかります。いよいよ1枚目の綿がきれいに流れてきました。私は思わず空港で荷物を待ち続けてようやく廻ってきたあの気持ちを思い出しました。「おおよかった!」 今回私は繊維が細長く掛ふとんに向いているメキシコ綿やテキサス綿、繊維が太くこしがあるインドのチョイス綿やアッサム綿を色々なパターンでブレンドして作ったのです。 オリジナルの綿ができました!

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オリジナルの綿ができました!

朝から夕方まで休憩を少しはさみながら綿を作り続けていましたが、いつか自分で考えた綿でふとんを作りたいなと思っていました。全ての綿が作り終わり、丹羽氏から「ごくろうさん。よしこれを包んで東京に送ってあげよう」といわれ私は梱包を丹羽氏とはじめました。 お店に戻り帰りの支度をしていると丹羽氏が大きなビニール袋を持ってきました。中には朝方見せていただいた各国の綿が入っていました。「これを浩太郎さんにあげましょう。毎日これを見てさわって研究してください。そしていつか自分で良いと思った国の綿でおたふくわたを復活させてください。」といわれました。丹羽氏は私がいつかおたふくわたのオリジナル綿をもう一度作りたいという気持ちを分かっていたのかと思うとまたいつものごとく涙が出そうになりました。 私は小さい箱を作って丹羽氏から頂いた綿を入れて会社に置いています。仕事で訪問されるお客様もこの世界の綿をみて興味を持ってくれています。そして皆さん異口同音にこういいます。 「なつかしいですね。昔はみんな木綿で寝ていたんですよね。なんで減ってきちゃったんでしょうね」(履歴ライブラリー参照 )
次回は寝具業界に警鐘を鳴らした亀川氏について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年10月に執筆されたものです

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18.「かっこいい三代目」・和田哲会長 和田亮介氏との出会い ~社訓の「/ ! ? △ ○」とは?~

大阪は昔から商人の町として有名な「船場」に私は始めて足を踏み入れました。 この場所は商社、生地の問屋やメーカー、などが数多くかつては活気があったそうですが最近では企業や町も様変わりし、更に不況で経営悪化の企業も多く町全体が喘いでいると聞きます。それでも私が行ったときの印象は「人も明るく町の雰囲気も明るい」と東京とはまた違う関西の気質を感じました。今回私が訪問することになった「和田哲株式会社」とは東洋紡から仕入れを行いふとんの側生地を作っている業界でもトップの寝装品問屋です。かつてハニーファイバーもこの和田哲から多くの生地を仕入れていました。当時の社長、和田亮介氏(現・会長)は当時ハニーファイバーの社長であった父、原田憲明とビジネス以外でも親交が深く、そのような関係で父の一周忌の時に出た本に和田会長は原稿を寄せて下さいました。

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和田哲会長・和田亮介氏

和田会長は大学卒業後に「東レ」に入社しましたが後に和田家に入婿し「和田哲」に入社しました。業界でも和田会長の人柄は有名ですが、とにかく素晴らしい「文才」があります。著書もいくつか出版されているのですが「暑いとき(好景気)には大きく開き、不要時(不景気)には小さく畳める扇子のような状況に合わせた経営を行うべき」と話す「扇子商法」という本は今の時代に必要な事をかつての経験などを交えながら書いています。 私は約束の時間に「和田哲」を訪問し総務の担当の方について会長室へ向かいました。会長室に入った瞬間、急に汗が出て極度の緊張状態になりながら私は会長室のソファーに座っていました。そしてしばらくすると和田会長がお見えになりました。「おおう。原田憲明さんの息子さんかあ。そうかそうかあ。どうもこんにちは」という和田会長の声は低くて力強いものでした。そして大きく厚い手で握手を求められました。私は和田会長のその姿を見て一瞬で「オーラ」を感じました。和田会長は大きい手を広げたりしながら父との仕事の話や、一緒にお酒を飲んだ時の思い出話をしてくださいました。私は現在のハニーファイバーの状況や綿の研究活動、職人さんとの出会いなどの話をしました。

あっという間にお昼の時間になってしまい、和田会長に連れられ私はおしゃれな西洋風のレストランに行きました。和田会長は席に着くなり突然「原田君は・・・もしかしておたふくわたを、またやりたいのかな?」と切り出しました。私が答えに困っているとそれを察した和田会長は「伝統というものは非常にやっかいなんだよな。後ろから押してくれることはしないんだがやたらに引っ張るんだよね。つまり変化しすぎるのはいかんということだ。」と話し「原田家が家業としていた綿を、もう一度やりたいと思っているなら伝統を頭に入れながら頑張りなさい」と私の顔を見つめ、力強く話してくださいました。和田会長はかつて自分が和田家に婿として入った思い出を話しながら「親子の情と会社は別なものでね、会社を興した人間は子供より伝統や、のれんが可愛いんだよ。それに実の息子だとけんかなどが起きてしまうが娘婿に来た男だと、遠慮しながら父親として冷静にあれこれ言いやすいからね。こういった考えは昔の船場では当たり前だったんだよ」と教えてくださいました 。

和田哲は昨今羽毛が中心となっている寝具業界の中でも木綿ふとんの生地の開発なども積極的に行っています。和田会長とお会いした翌日はちょうど大阪の各所で問屋のふとん生地の展示会が行われていたのですが、和田哲が他社に比べて木綿ふとん用の側生地を多く出展しているのを見て私は会長の話した「伝統」を思い出しました。 ちなみに和田会長は現在71歳なのですが会社には毎日出勤し、休暇では頻繁に海外旅行に行かれるなど、その若々しさには驚いてしまいます。和田会長は「いやあ明るく生きなきゃだめだよ。とにかくどんな時も明るくいなきゃ。泣いて生まれたんだから笑って死にたいもんね。」 和田会長のその生き方に私は素直に「かっこいい」と思ってしまいました。和田会長とはその後も親しくさせていただいており現在の社長であり和田会長の娘婿でもある野村史郎社長とも親しくさせていただき生地の勉強や研究にご協力をいただいています。 ちなみに題名にあった「/ ! ? △ ○」とは和田会長の社訓で、実際は筆字で/も他の記号の上にのせているように書いているのですが「/は永続、!は感動、?は革新、△は人、○は和」の意味を持っているのです。 和田会長は最後に「人との出会いは大事だよ。だから胸の筋肉を大きく広げた姿勢で人と接してごらん。あなたを受け入れますよ!という形に見えてくる。相手もそれを見て気持ちがいいはずだよ。」と話してくれました。別れ際またあの大きい手で握手してくださいました。私は憧れの経営者に会えた感動の余韻に浸りながら大阪を後にしました 次回は丹羽職人の協力で初めて私が「ふとん綿作り」に挑戦したことについて書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年10月に執筆されたものです

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17.「財界九州」9月号九州の商人~追想 おたふくわた(下)~より

 前回に引き続き、武野要子先生(福岡大学名誉教授・兵庫大学教授)が執筆した「財界九州」10月号から九州の商人~追想 おたふくわた(下)~の抜粋をご紹介します。
(先日来、問い合わせがいくつかありましたが、この雑誌は九州以外でも購入することが出来ます。大きい書店にもあるようですが、財界九州に依頼し直接郵送 してもらうのが一番確実かと思います。連絡先は(株)財界九州 092-715-1221

追想 おたふくわた(下)
福岡大学名誉教授・兵庫大学教授 武野 要子

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兵庫大学教授 武野 要子氏

新生「おたふくわた」
昭和2(1927)年になっていわゆる金融恐慌が広がるや、ハニーファイバーは外販用にアメリカ製オートバイを購入、販売員は満州、台湾、朝鮮方面へと販路を開拓した。個人経営であった原田製綿所が、株式会社おたふくわたと法人化されたのもこのころのことである。資本金50万円、従業員260名であった。今日「昭和4 年3月31日現在 資産負債内訳表 おたふくわた株式会社」が、ハニーファイバーに残っている。これによれば、当時のハニーファイバーの資産から負債、お 得意様、取引先まで全部わかる大変貴重な史料である。ちなみに得意先の一部を上げれば、岩田屋、伊佐商店、奥村商店、渕上呉服店、光安糸店...。同9(1934)年ごろの同社の店頭の模様を写真で見れば、外販用自転車は姿を消し2輪、3輪のオートバイに完全に切り替わっている。同10年の新興熊本大博覧会の宣伝隊に、商標おたふくの人形が出場。無料休憩所にも”おたふくわた”の字と標識が高くそびえている。まだ当時としてはめずらしい”おたふくわた”のネオンサインが東中洲の夜景を美しく彩った。昭和17(1942)年3代忠右衛門が急死。平五郎が4代目社長となった。第2次大戦の終戦前夜のことであった。戦争の終決でハニーファイバーは海外資 産のすべてを失った。いわば創業以来最大の難関にさしかかったのである。戦中ハニーファイバーは、仁川、奉天に工場を、京城、牡丹江、大連などに出張所を 持っていたのである。私的お話で恐縮ですが、わたくしは昭和25(1950)年に九州大学経済学部に入学した。16~7年住んだ長崎は、文字通りの国際都市として、南蛮風、 オランダ風、中国風、日本(江戸、大阪、堺、京都)の文化がほどよくミックスされ、その独特の魅力的な雰囲気は、わたくしの心をしっかりと捉えた。そんな長崎から福博へ来てまず感じたことは”やぼったい”ということだった。しかし一方、わたくしは福博に長崎とは違った長崎が持たないものを感じ取った。それは都市としてのどっしりとした構えであった。長崎は日本列島のどんず まりだが、福博は東に中国、近畿地方、南には熊本、鹿児島を控え、その真ん中にで~んと座っているという感じがした。わたくしは自分の将来と福博の街を重 ね合わせて考え、感じ取っていたのである。家庭教師のバイトに行っていた北九州も、政府の傾斜生産方式の影響で沸きに沸いていた。

いまに生きる家憲と社是
 同じころ起きた糸ヘン景気を皮切りに、ハニーファイバーも本格操業を修復。戦時中に興した合成樹脂のオタライトも本格的な化学部門として充実させた。昭和24(1949)年発刊の「福岡商工名鑑」の広告には、おたふく産業株式会社 おたふく化学工業株式会社が並列し、合成樹脂及び成型業の化学工業に力点が置かれていることがわかる。この方針は5代目社長原田憲明氏の事業に引き継がれていった。 =対談「21世紀に向かって」=と題する、(財)流通システム開発センター研究員・工藤正敏氏と憲明社長の対談で、社長は「4本柱の戦略」として第1に寝 具、第2に不織布、第3に合成成型材料(オタライト)、第4に保全サービス部門を上げている。固定資産や高齢人材の再活用、活性化は企業構造変革の大きな 課題である。ビルの開発、事業施設の管理と清掃、保険業務を全部合わせた保全サービスを指しているようだ。「(1)~(3)の柱を4本目の柱が担うとなれ ば、戦略的にも期待ができる。もっとも4本目は福岡の地域性とすこぶる関係がありますね」というのは工藤氏の意見。社長は「第4番目の柱こそ歴代当主の” 積善の徳”の21世紀的実行だ」と応じている。そこでハニーファイバーの家憲、社是をひもといてみよう。初代原田忠右衛門は次のように言う。

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「 家憲
たとえ四角なる豆腐を丸ろく切るが如き加工と雖も必ず物を値打ちのあるよう精製しこれを世にほどこすをもって家業となすべく候 仕事場は職人と道具とを雨露より守る傘の如くにてあれば軽やかなるほど宜しく金に糸目をつけぬは傘にあらず傘の内にこそあるべく候 明治拾年  初代 原田忠右衛門 」


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「 三者鼎立
企業は出資者と従業員と消費者の三本の柱によって支えられる どの一本が短くとも企業は傾く   社 長 」


5代目憲明社長の急死後、敬介社長、豊也社長が経営を引き継ぎ、着物研究家の毛利ゆきこや、デザイナーの君島一郎とのデザイン提携など、新しい展開を試みられた。が、残念ながら豊也社長の時に、寝具製造、販売部門から撤退。故憲明社長の妻允子(ちかこ)氏が社長に就任。その後不動産賃貸業は順調に進んでいる。原田浩太郎氏-先月の本誌の冒頭に書いた電話の主-は、現在同社専務取締役。浩太郎氏は不動産業のみではあきたらないようだ。浩太郎氏が目指すのは、新規事業かさもなくば木綿わたの再生か...。21世紀の福博が、浩太郎氏のようなフレッシュな感覚を必要としているのは間違いないようだ。 次回は父と仕事仲間だった和田哲の会長・和田亮介様との出会いについて書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年9月に執筆されたものです

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16.「財界九州」9月号九州の商人~追想 おたふくわた(上)~より

前回皆様にお知らせした通り、今回は武野要子先生(福岡大学名誉教授・兵庫大学教授)が執筆した「財界九州」9月号の九州の商人~追想 おたふくわた~の中からいくつか抜粋してご紹介したいと思います。私は弊社の歴史や博多の歴史などを調べた武野先生の研究熱心さに感服いたしました。ぜひ一度ご覧ください。 (先日来、問い合わせがいくつかありましたが、この雑誌は九州以外でも購入することが出来ます。大きい書店にもあるようですが、財界九州に依頼し直接郵送してもらうのが一番確実かと思います。連絡先は(株)財界九州 092-715-1221です。)

追想 おたふくわた(上)
福岡大学名誉教授・兵庫大学教授 武野 要子

それは突然の電話から始まった
勤務先の兵庫大学の研究室で、締め切りが迫った原稿を書いている。 私は原稿用紙2、3枚書いて4枚目にかかろうとしていたとき、電話がった。横にいた女性が、「原田さんからです」といった。原田さん?正直いって私はピンとこなかった。原田さんは福岡にも広島にも知り合いがいる。はてなと思って受話器をとった。開口一番、「ハニ-ファイバーの原田です」という若い張りのある声が聞こえてきた。同社は憲明社長の急死以来、もう閉業されていたのではないか?と、とっさに考えた。 電話の主はいわれた。「いま不動産業をやっています。”目で見るハニ-ファイバーの140年”を読んでいると、先生と父が対談なさっているので、本当に嬉しく懐かしく思います。母が、一度先生にお目にかかりたいと申しております。わたくしもぜひお会いしたいと思います」。 私はすぐさまOKのご返事をした。

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明治37年に製作された金看板

インド伝来の綿弓業
私は若いころのことを思い出した 。そのころ私は、福岡大学商学部の紅一点の若き教授として貿易史と一般商業史を講議し、研究に熱中していた。 原田氏は、私のプロムナード大手門にわざわざ来てくださった。その折、いろいろ抱負を述べられ、本誌に父上やおじいさまの仕事を紹介することを約束した。 もう20年も前になるだろうか。ある一人の男性から、「”ハニ-ファイバー”の社史を編纂するのですが、博多に古くから住んでいた商家で屋号が麹屋というのはわかっているのですが、その他のことはさっぱりわかりません。何か手がかりはありませんでしょうか?」という電話があった。 私は何か手がかりはないものかと半日考えた。ふと思いついて「博多店運上帳」を急いでめくってみた。確かに麹屋があった。私は小躍りして喜んだ。職業の欄には綿弓8挺とある。 私はさっそく大阪(吹田市)の国立民族学博物館に問い合わせた。同館には世界各国の綿弓が数個保存されていた。私はインド綿弓の写真を頼んだ。 インドでは、いまでも使っているらしい。その写真には、男の人が綿弓の横に立っており、綿弓の高さと男の人の背は大体同じくらいであった。 綿弓といっても、日本のそれは、日本人の背丈に合わせてインドのより少し小さかったのではないだろうか。それにしても私が育った長崎には、綿の打ち直し屋、ほんのわずかであった。 博多の「店運上帳」を私は丹念にめくることにした。その結果次のようなことがわかった。 幕末から明治の初めごろの博多には、綿弓が91挺あること。1挺持ちは60軒、2挺持ちは20軒、3挺持ちは2軒、4挺持ちは3軒であった。5挺は1 軒。ひときわ目立っていたのが8挺持ちの商家であった。それが麹屋。つまり「ハニ-ファイバー」であった。 私は、欣喜雀躍とはまさにこんなことをいうのだろうと、本当に嬉しかった。それにしても、なぜ麹屋なんだろうか。酒屋か醤油屋でも先祖がやっていたのかしら、、、。 麹は昔の人の食の中心である米や麦や豆、ぬかなどを蒸して菌を繁殖させ、味噌や醤油を作るわけだ。こんにちの食生活からは想像もできないが、醤油や味噌は中世から江戸、近世、近代を通じての日本人の必需食品、つまり蛋白源なのだ。 農家は味噌や醤油は自給していたが、町ではそうはいかない。つまり町では麹屋が商売になったのだ。麹屋から綿弓屋へ転職!「ハニ-ファイバー」の基礎はこうして築かれたのだ。

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昭和10年頃の東中州 当時としては珍しい
ネオンサインは博多っ子の話題を呼んだ

幼いころの布団の記憶
私は子供のころを思い出した。あれはあたりがムンムンする暑いころだった。小学校2、3年のころだったと思う。私は母にいわれて、母が広く伸ばした真綿の端っこを手でできるだけ引っ張った。「もっと広く薄くするのよ」と母はいった。私はいわれた通りに一生懸命に引っ張った。 真綿は敷布団の布に薄く一面に敷かれた。母はうず高く積まれた打ち直しの済みのふわふわの綿をひとつ取り上げた。母はぽんぽんと手際よく綿を手広く広げていった。 なんとなく眠気がさして、うとうとしていたら、「最後だから手伝ってね」という母の声で起こされた。寝ぼけまなこの目をこすりながらふと見ると、ふかふかの敷布団がそこにあった。 あの夜の布団の寝心地の良かったことはいまだに忘れられない。あの布団の感触はいったい何だろう。古きよき時代のお布団?木綿の綿ならではの感触? 布団の作り変え、綿の打ち直しは、昭和の中ごろまではどこの家でも年中行事であったし、それは主婦の仕事でもあった。私を含めていま布団を作れといわれてやれる主婦はまずいないだろう。
~追想 おたふくわた(下)~

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年9月に執筆されたものです

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