9.魅力ある町、東京・神田神保町 歩く人すべてが仲間に見えてくる。

「良く飲みに行くエリアはどこですか」と聞かれれば会社や自宅に近い表参道か外苑、麻布・・気の合う友人達とは銀座や新宿。 「良く行く遊び場所はどこですか」と聞かれればこれまた車で出かける事が多いのでお気に入りの場所はいくつもある。
しかし「長居したくなる町はどこか」と、もし聞かれるような事があれば私は「神保町」と答えるだろう。

東京・千代田区の神田神保町。ここは大学や専門学校、資格スクールそして古本屋さんなどの書店が多く立ち並んでいる事から「学生の町」と言われている。学生以外でも読書家や教育者なども多く利用しており、また最近ではオフィスビルも増えているのでこのあたりは日中、老若男女かなりの人間が歩いていてやけに賑やかだ。また、かくれ家的存在の食の店や中古レコードショップなども裏通りにいくつかあって歩いているだけで楽しい。週末になると近所である水道橋の後楽園に競馬好きのおじさん達があふれるように歩いているので、平日とはまた違う雰囲気を楽しめる。

私は小学校の時に野球好きの姉に連れられて後楽園球場へ野球を観に行ったり、野球道具やスキー用品を買いに神保町には良く来ていた。また学生時代は自他ともに認める「プロレスマニア」だったので、後楽園ホールや東京ドームにプロレスを観に行き、その帰りにマニアが欲しがるような商品を多く置いていた神保町のショップに仲間と毎回のように通っていた。実は神保町は「プロレスファンには、たまらない町」とも言われていてかなりの店が多い。

プロレスとは関係ないが予備校も神保町の学校に通っていた。
予備校時代の仲間は今でもたまに会う事があるが、 「何かあの場所はいいよなあ」と話す。私の持論だが神保町は予備校生にとってはなかなか良い場所ではないかと思う(自分は例外にしておく)。
近くには日本大学があり少し歩くと御茶ノ水に明治大学があるので我々受験生は 学校内で楽しく話している大学生 を見ては刺激され自分の「合格」 を心に強く誓えるし、学習時 間の合間に仲間と時間を決めて、 喫茶店や書店などで息抜きをして、一人で勉強したい時は少し歩いて九段の図書館まで出かける。また学生の町だけあって安くてうまい店が多いので腹ごしらえするには最高の環境だ。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年3月に執筆されたものです

[add_pager]

8.僕の片思い ~バイヤーとの商談がまとまるにはあと3年はかかるだろう~

はじめは僕はひどく不愉快だった
僕は片思いしている・・といっても恋の話ではない。国内屈指の某有名百貨店のバイヤーについてである。このバイヤーはとても魅力がある人だ。毎回打ち合わせの度にヒントをくれるので僕の心は「やられてしまう」。僕は最終的にこのバイヤーと取引させていただくことが百貨店の高き最終目標と考えている。
僕たちの会社では社員ほとんどが飛び込み営業に近い形で取引先を作ってきた。当然、その中には人の協力や紹介があるけれど、それも連絡先を教えてくれるというぐらいで、ほとんど飛び込みに近い状況である。さらに商談先も最近若い人が増え「おたふくわた」という名前を知らない人が多い。僕たちもその方が名前に頼らず営業としてのの本領を発揮できるからやり甲斐はあるが・・・。
僕があまり問屋さんを頼らないで飛込み営業ばかりする理由はそこに人と出会う「感動」があるからだ。そもそも前の会社でも飛び込み営業をすることだけが僕のとりえだから、動くのは容易いのだ。最近当社の社員もその感動を経験している。
ところでこの大好きなバイヤーも一応そういった人の紹介があった(これも連絡先を聞いただけ)のだが、それ以外は何もない。だから、はじめて会った時には紹介と思えないぐらい無愛想だった。「何の用?」「いまさら木綿ふとん」という雰囲気を出していた。
最初の出会いは今から2年前ぐらいになる。正直言うと僕は最初は不愉快だった。「だったら会わないでください」と言いたくなるぐらい色々といじわるな質問をされたり話を聞いた。そして忙しいとは言え商談中は何十回も鳴り響くバイヤーの携帯に出ては会話していた。これじゃ全然打ち合わせにならないのだ。僕は帰り際のエレベーターで「老舗とはいえこんなものか」と悔しくて握りこぶしを握っていた。
だが・・・数日経つと僕はそのバイヤーの姿を思い出して色々考えた。今までの商談は相手先も多少興味があって会ってきた。だからおたふくわたに好意的な態度が多かっただけだと・・。前の会社でも散々嫌な目に遭ったり悔しい思いをして会社で泣いたりしたのにこの会社に入ってからその心を忘れているのではないか。全く興味を持たない人を振り向かせることが営業の真骨頂であると思い出したのだ。「甘えるな!」と自分に言い聞かせて僕は再びあのバイヤーとアポを取ろうと色々策を考えた。寝具業界の話題から自分たちの商品開発のアドバイス・・・時には天気の話題や芸能ネタでも何でもいい。とにかく敵的に訪問していくことを決めたのだ。
そして2回、3回と会っていくうちに僕は気がついたことがある。それはバイヤーはどんなに忙しくても必ず時間を取ってくれるのだ。この2年間「今週はダメ」とか「今、時間がないんですよ」と言わないのだ。聞いたことがない。そして必ず「うちとしたいならさ例えば・・」とヒントをくれる。やっぱり何度も会わないと分からない事が多い。
寅さん営業と名付けよう!
そうか!あの1回目のいじわるな質問は僕を確かめていたのだ。いじわるな質問に答えられないようじゃ客を説得できない。国内で大流行しているわけでもない木綿ふとんを今の時代に百貨店で常設するのは難しいことだ。だからこそ語れる「ポリシー」を作りなさい・・・。そういうことを言いたいのだろう。
 僕はすんなりここの商談がいかなくて良かったと思う。バイヤーも木綿ふとんにいまさら力を入れる会社なんて当社しかないから真剣なんだと思う。確かに人気や話題の商品というレベルではないから僕はこことの取引はあと3年はかかると思っている。いやそれぐらいの気持ちの方がいい。

そういえば春先に新しいカタログを持っていったらバイヤーから一言帰り際「こういうパンフレットを見るとがんばってるなっていうのは感じるよ。」と言われて僕は涙目になった。それは長い時間をかけて商談しているからこそ得た感激のシーンだった。
最近はエレベーター前まで僕を見送ってくれるのだ。恐縮してしまう・・。飲んでいる席で「そこの百貨店は難しいからあきらめたら?」とネガティブに言ってくる仲間もいる。
2年であきらめてどうする?と僕は反論している。だがまだまだ片思いであることは確かである。僕はこのバイヤーとの商談を「寅さん営業」と名付けて活動していこうと思う。寅さんだって片思いばかりしているが他人が味わえない幸せを経験しているんだ!

次回は「悲しい!ウルトラマン5つの誓い」について書きます。
新年も引き続きご愛読を宜しくお願いいたします。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年9月に執筆されたものです

[add_pager]

8.久しぶりに味わったあるタクシードライバーのサービス魂

「えっ?いいんですか?」
久しぶりに味わったあるタクシードライバーのサービス魂


タクシーをよく利用する人と会話していると必ず共通の不満がある。それはプロであるドライバーにも関わらず「まだ良く分からないので道を教えてください」というあの台詞だ。タクシーの規制緩和が実行されてから各タクシー会社は運賃の差別化だけでなく営業車を増やしドライバーを大幅に採用し競争力を高めてきた。都会ではその影響であちこちに空車のタクシーが走り、深夜になると客待ちのタクシーが増えてしまい渋滞の原因になっている。タクシーといえば目的地まで運んでもらいドライバーに距離の分お金を払う。電車などに比べてドアtoドアで運んでくれるので運賃は高い。また目的地まではぐっすり寝られるしタバコを吸いたい人はいくらでも吸える。そういう快適な空間というサービスまでついているのが本来の姿と思う。

しかしドライバーを急に増やしたので研修はしているかもしれないが地理を把握していない人が多い。こちらはずっと体を前に起こし運転手さんに目的地まで道を案内しなければならない。「こっちにお金を払ってください(苦笑)!」といいたくなる時もごくごくたまにある。最近はナビをつけているタクシーが多いが、そのナビにも慣れていないドライバーも多く、しかも私などはナビ通りに行かずくねくねした近道などを教えるので覚えたい運転手さんには悪い気がするが・・。

手を上げて拾った瞬間「あちゃー!」と思うのは研修中のタクシーを拾った時だ。急いでいる時に限ってこういうのに当たる。助手席に先輩ドライバーが腕章をつけ新人ドライバー(といっても若くはない)が緊張しながら運んでくれるのだが、会話が全くないし前の席では厳しい目で座っている教官ドライバーがいるので男3人のもう何ともいえない嫌な雰囲気になる。
でもまあ無事に運んでくれたので支払い時には「がんばってください」と言う事にしている。

1taxi

ところがそんな時、とある勉強会があり時間がぎりぎりなのでタクシーを拾った。 私は目的地を伝えるとドライバーは愛想良く返事して車を走らせた。運転もうまいし世間話も色々してあっという間にその会場に着くなと安心した瞬間・・会場のかなり手前から会場に入る車と一般の車が合流の渋滞が置きていた。ドライバーに「うわあ・・凄い渋滞していますね。ここで降りましょうかね・・。」というと「いや混んでいますけどここから歩くとせっかく乗ってもらったのに悪いですから。このペースなら歩くよりは車で会場に着くほうが早いと思います」と返してきた。しかし私から見ればこの渋滞は全く車が動いていないので少しあせりはじめていた。
この人は何の根拠で「動く」と判断したのだろうか・・・。
すると数分してから急に動きだした。1台の車の原因でつまっていたかのようにすいすい動き出した。私はこの瞬間、ドライバーの「勘」に恐れいってしまった。

しかもこの後更なるサービス魂を見せつけられた。支払い時にメーターよりも数百円安い値段を言ってきた。私は「えっ?何でですか?」というと「いや間に合いましたけど渋滞していて引き止めたのは私ですからあそこからここまでのメータは引かせてもらいます」と言ってきたのだ。数十円ではないので私はとまどった・・しかしドライバーは間髪入れず「お客さんいいんです。私の言った額で払ってください」と言うので私は「ありがとうございます」を何回も言って車を降りた。
私は大げさではなくそのタクシーが会場を去るまで見届けた。「ああいう営業マンがまだタクシーにもいたんだな」とその時私は感激してしまった。しかしあの人は損した分、自分の財布から負担するのだろうと思うと気がもやもやしていた。

私はタクシーに乗る機会が多くあるのでサービスが良くて運転がうまいタクシーに乗ったときは数十円程度のおつりの時は「取っておいてください」と言って渡している。それは気前がいいというのではなくあのドライバーに対してのお返しと思っている。

私はあのタクシードライバーから、ある客に心を込めたサービスをすれば今度は違うお客から嬉しい言葉や注文を頂いたりするのが「真の商売」だということを学んだ。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年2月に執筆されたものです

[add_pager]

8.綿の歴史を知る・・・ 産業技術記念館

1kinenkan

産業技術記念館

名古屋の西区にある産業技術記念館はトヨタグループが共同で設立した建物です。トヨタの発祥の地であるこの場所は現在でも旧豊田紡績本社工場の建物などを一部残しています。トヨタグループというのは明治初期の紡績業が盛んな頃、自動織機を開発した豊田佐吉とその長男豊田喜一郎が紡織機械と自動車の製造を基にしてできたグループです。 豊田家の歴史を知ることが出来るのと同時に最近見ることの出来ないモノ作りなども経験出来ます。道具から機械への展示、紡績機械の展示、繊維機械から自動車産業に移っていく歴史、代表車種の展示、自動車の研究や技術開発、部品など展示されており、急成長していった日本の生産技術の歴史が学べます。

 

2watadougu

これが綿打ち弓。
手前の槌を使いながら弓で綿をほぐします。


3watanoshurui

世界各国の綿の紹介

ここには江戸時代に木綿織りで使われた糸車などの手織りの歴史が分り、また各国の糸車も展示されていました。また現在日本に入ってくる綿の種類なども分り易く展示されています。やはりこれを見ると各国の綿の特長が一目で分ります。そして以前から私が触りたくて仕方がなかった道具も置いてありました。「綿打ち弓」です。綿打ち弓というのは綿花を採った後に実と繊維を分けてその繊維をやわらかくほぐすために使っていた道具です。幕末から明治初年にかけて綿弓を使って綿をうち商売していた時この道具が活躍していたのです。福岡大学の名誉教授であり博多の商業史を研究されている武野要子先生によると初代原田忠右衛門は博多で唯一専業として綿弓を使って綿を製品化し商いをしていたといいます。この綿打ち弓はほぐす時独特の音がします。 ビューンビューンという何ともいえない音です。

松尾芭蕉もこの綿打ち弓の独特の音を俳句にしています。 「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」綿打ちの弓の音が琵琶のようにきれいな音が出て心が晴れると感動して詠んだといわれています。竹弓の頃は弦は木綿、麻などを使っていましたが中国から伝えられた木製の唐弓の頃は鯨の頭にある脳筋という部分を使っていました。そしてこの弓はかなり大きく結構体力を使うのと高度な技術を要するため賃金も当時にしては相当高かったようです。

この産業技術記念館では糸車や綿打ち弓を使った実演もしており丁度社会科見学で来ていた子供たちが真剣な眼差しで見ていたのが印象的でした。 かつて日本は外国に負けない独特の「モノ作り」を行い国を発展させていきました。最近はこのようなモノ作りが減り、またTVゲームやインターネットなどのデジタル化が進み子供たちの遊び方にも変化が起きている中こうした経験は子供たちにとって大変いい経験だと思いました。皆楽しそうに糸車を廻し笑いながら綿打ち弓で綿をほぐし、真剣な目で綿花を眺めていました。私も子供に交じって綿打ち弓をしようと思いましたが恥ずかしくてやめました。しかし名古屋の丹羽職人が多くの種類の野綿繰りや糸車、綿打ち弓道具を持っているのです。

次回はこの丹羽職人さんと再会し見せてくれた職人技などについて書こうと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年3月に執筆されたものです

[add_pager]

7.鹿児島・知覧で見た「若者の覚悟」と「戦争」

イラク復興の支援として日本の自衛隊がイラクに派遣された。新聞やテレビでは自衛隊が南部のサマーワで活動している姿をほぼ毎日見る事が出来るがその姿を見て「自衛隊もこういった戦闘地域に行くようになったんだな」と改めて思う。

そういった自衛隊の姿を見て私は鹿児島に昨年行ったことを思い出してみた。 昨年、妻と母と3人で鹿児島の知覧に行った。知覧といえば特に有名なのが「特攻平和会館」だ。私にどうしても見せたいという妻の強いリクエストでこの旅行が実現した。

昭和16年から勃発した大東亜戦争の中で当時、知覧は少年飛行兵の操縦訓練所として建てられた。しかし昭和20年になると日本は徐々に力を失いピンチに立たされた。

0403_1
知覧にある飛行場の跡地には
こういった石碑がいくつもある

太平洋戦争も終盤にさしかかり敵の大艦が沖縄まで攻め込んできた時、日本はとんでもない奇策に出る。それが若者の兵士による「体当たり攻撃」である。はじめて記念館の入り口についた瞬間、私は心痛む2つの像が目に入った。一つは特攻機の前に立つ特攻隊員の銅像。そしてもう一つは少し離れた場所にありその特攻隊を見つめるような姿で立っている母親の像があった。隊員の像は昭和49年に平和の守護神として建てられ昭和61年には母親が建てられたという。「特攻平和会館」は年々観光客や特攻隊の遺品などが増えてきたため昭和60年に建て直されたという。

私はまず会館の外にある三角兵舎の復元を見た。三角兵舎とは特攻隊員が出撃するため寝泊りした場所である。兵舎といっても20人ぐらいが寝られるスペースで薄い毛布と敷き布しかない。そしてこの場所で若き隊員達は両親や恋人に遺書を書き、酒を飲み、ゲームをして仲間と最後の夜を過ごしたという。中には涙で枕がびしょびしょに濡れていたものもあったという。そして出撃の日の朝、毛布をたたみ出発した。当時の写真を見ると翌日に、国のために命を捧げる若者とは思えないくらい心澄んだ笑顔で仲間と談笑している。私はこの若者達の覚悟というか心の強さに尊敬の念を抱いた。記念館に入ろうとするとある老齢の女性に話しかけられた。この記念館にほぼ毎週来ているこの女性は特攻隊の出撃の際、花を持って見送った経験があり今でも観音像にお線香をたいているのだという。私は突然その女性に握手されて「ぜひ、あなたの仲間や若い人にこの記念館の事を話して下さい・・」と言ってきた。私はもう涙が止まらなかった。戦争が終わり長い時間が経つが、戦争を経験した人にはまだ何も終わっていないし時間も止まっている。まだ深い傷は残っているのだと感じた。そして傷を少しでも癒せるようにとこの記念館に足を運び彼らと話をして帰るのかと思った。私は記念館に入った。当時の戦闘機の復元や1035人の隊員の写真、遺書、遺品などが展示されている。特に隊員の遺書には驚きと悲しみが同時に襲う。10代、20代の若者とは思えない達筆な字で思いを伝えている。
 「俺が死んだら何人泣くべえ」
 「帰るなき機をあやつりて征きしはや開聞よ母よさらばさらばと」
 「今から敵をやっつけてきます」 「僕は花になって帰ってきます」
 「○○ちゃん、おかあさんを大切にするんだよ。お父さんは天国から見守っているからね」
 「特攻隊として知覧に呼ばれたわけではないのでお父さん、お母さん安心してください」

死への覚悟、そしてそれを強い姿を見せて出撃した彼らの本当の心の奥は知ることが出来ない。遺書や手紙にも検閲があったようだし、戦争に対しての本音はあまり言えなかったはずである。確かに手紙や遺書の中にも含蓄ある文章がいくつかあるが、人に打ち明けた話しが一番そういった本音を知ることが出来る。

「とめさん、この戦争は間違えているよ。日本は戦争に負けるよ」と出撃前日に「知覧のおかあさん」と言われた食堂を営んでいた鳥浜とめさんに語った若者もいたという。「死にたくない」と語った者もいた。自分が朝鮮人ということを隠し出撃の前日とめさんに「アリラン」を歌った若者もいた。 また一方では特攻隊として出撃準備をしていたが戦争が終わり生き残った隊員も多くいる。そういった人たちは亡くなった隊員達に申し訳ないと毎日悩む日々を過ごしてきた。その姿を見て、とめさんは「なぜ生き残ったのかを考えなさい。何かあなたにしなければならないことがあって生かされたのだから」と励ましてきた。隊員達は心救われ今では戦争の辛さや当時の思いを広く伝えていこうと活動している。そして「戦争をしてはいけない」と強く訴えている。 記念館を出た後、私は体が震えていた。怒りというか悲しみというか表現できない気分になっていた。その後、実際に隊員が飛び立ったという飛行場の跡地などをまわった。 戦争、自衛隊派遣、小泉首相の靖国参拝などについて、私はどうこう言える知識はない。しかし、罪のない若者が国のために親や恋人と別れ命を捧げて戦いに行った若者の心情を少しでも見ると、やはり戦争は誰にも得にならず、心の痛みや苦しみだけが想像以上に長く残るということが分かる。戦争は終わっても人の心の傷は治らない。

最近は修学旅行でこの地を訪れる若者も多いという。帰り際に案内の人が「特攻会館を訪れて大粒の涙を流す学生を見て、あっ日本はまだこういう心を持った若者が多いんだと分かるから嬉しいです」と話していたのが印象的だった。

0403_2

「平和会館にある鳥浜とめさんの顕彰碑」

散るために 咲いてくれた 桜花 ちるほどものの 見ごとなりけり   (鳥浜とめ)

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年1月に執筆されたものです

[add_pager]

7.天竹神社で起きたハプニング「亡き祖父との再会」

jinja
showcase
ショーウィンドウ

今年初めに大阪・博多へ出張することになったので、この機会にと私は名古屋へ行くことにしました。名古屋といえば「知多もめん」など綿織物の一大生産地で有名でありまた先日このコラムで紹介させて頂いた丹羽氏との再会そして日本に始めて綿を持ち込んだと言われる崑崙人を奉った神社があるので、期待を胸に名古屋を訪問しました。『「もめん」~ふとんとわたの歴史~』でも書きましたが日本の綿栽培は桓武天皇時代の 延暦18年(西暦799年)に愛知県の三河地方海岸に小船で流れ着いた崑崙人(コンロンジン=アジア系)の青年が手に持っていた綿の種子が始まりと言われています。 日本後紀には漂着の様子が細かく記されているようです。この崑崙人が種の蒔き方や栽培方法を大宰府、紀伊、淡路、讃岐、伊予及び土佐などの 暖かい気候の土地を中心に教えていったそうです。その後の消息は諸説がありますが、神社の資料によると僧となって近江の国分寺に入ったと伝えられています。

 

torii
鳥居柱(右側)

とにかくこの崑崙人が日本の綿業界の繁栄をもたらした第一人者であることは間違いありません。この神社はそういった彼の徳を偲び村民達が棉租の神として地蔵堂に奉っていましたが、明治16年5月24日に天竹神社として本社殿を建築しました。ちなみに「棉」と「綿」という字の違いですが実を収穫して種を取り除いた段階までが 「棉」そのあと機械や道具で打ってほぐしたものが「綿」と区別されています。名古屋駅から約45分「鎌谷駅」という無人駅で降りました。神社まで徒歩20分。大きい道路はあるものの畑が多い町でした。日が沈みはじめ寒さもいっそう厳しくなり、また街灯も少ないので早く行かないと帰りが大変だと思い急ぎ足で神社に向かいました。年に一回は行事があるのですがあとは無人の神社。お賽銭箱も本社殿の中にしまわれていたので本社殿に向かって数秒祈りをささげました。

神社の中にはショーウィンドウの資料館があり崑崙人が着ていたと考えられる衣服や綿の種類や糸車などの道具が置いてありました。丹羽氏の綿を打つ姿の写真もありました。 しばし資料を眺めていたら夕焼け空になっていることに気がつき急ぎ足で駅に向かいました。ところがこういうときに限って用を足したくなってしまい、仕方なく神社の便所に戻りました。一息ついてハンカチで手をふきながら歩き出そうとした瞬間鳥居の足元に目がいきました・・・・なんと祖父の名前・原田平五郎と彫ってあるではありませんか! 私は思わずしゃがみこみ涙が出てしまいました。そこには他の製綿会社もありましたが、きっと鳥居を建てたころ寄贈者として名を彫ってもらったのでしょう。 会社の社員やOBの方に聞いても誰も知らずきっと亡き父も耳にはしたことがあってもこの目で見てはいないと思います。私はしばらく立てませんでした。

「この馬鹿者ここまで来ておいて私を無視する気か!」と出来の悪い孫にあきれて私に尿意を持たせてここに戻らせたのかと考えてしまいました。「来てよかった。」私は素直に思いました。 日本に綿を最初に持ってきた青年が奉られている神社を出る瞬間、祖父に「おたふくわたの復活なんて甘いものじゃないがやるだけやってみろ」と背中を押されて見送られたような気持ちで私は駅に向かいました。そもそもなぜそこまでして神社を見に行くことにこだわっていたのかも今考えると不思議なものです。

次回は名古屋の産業技術記念館の見学について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年2月に執筆されたものです

[add_pager]

7.島田洋七さんとの「がばい出会い!」 ~洋七さんとの仕事は楽しくやっていけそうだ~

まずは動いてみること。
「縁」なんていつどこではじまるか分からない。だから人生って面白いんだろうなあ。僕が島田洋七さんと出会ったのも突然の「縁」だった。もともと映画「佐賀のがばいばあちゃん」で、おたふくわたの看板を九州のイメージとして使ってくれた事がきっかけで映画監督である倉内均さんとお会いしたのが始まりだった。もちろん洋七さんと会うなんて簡単に出来ることじゃないとは分かっていたし、倉内監督も「機会があれば」と話してくださってはいたが、もしこちらから会いたいと言えば「ギャラいくらです。」なんていう世界なんだろうなあ・・と考えていた。
 でもおたふくわたを九州のイメージとして使うと決めたのは洋七さんの意見が入っていたに違いないと僕は思っていた。原作者の意向を無視して看板など選定するはずがない。だから、会うことは無理でもお礼だけ言いたい。なので僕はとりあえず「動いてみた」それは・・・洋七さんのブログを見つけてそこにお礼を書いたのだ。 あれこれ悩むより動くことだ。だって小池百合子環境大臣(当時)にふとんの環境問題の事でメールしたときも秘書官を通じてきちんとアクションが返ってきた。そのおかげで現在も環境省やチームマイナス6%と仕事を進めている。
 それから何ヶ月だろう。突然、洋七さんの関連会社を運営している舛田社長から直接電話がかかってきた。舛田社長いわくブログのコメントを読んだ洋七さんが突然思い出したように「おたふくわたの人からコメント来てたなあ」という話になったらしく、社長が映画の人気も高いので一度お礼を言いたいという連絡が入った。うーんあの書き込みしてからどのぐらい経っていたか分からないけどなんだか面白い展開じゃないかって興奮してきた。とにかくなんでもダメもとで動くことだなと感じだ。
 舛田社長は撮影におたふくわたの看板を使ったことに御礼を言ってくださり、その後に洋七さんがおたふくわたを懐かしんでいるという話を教えてくれた。僕は優しい口調で話す同世代の舛田社長と話しいるうちにいつものように調子に乗ってしまい、最後には「せっかくだからざぶとんでも記念で販売してみましょうか」と言ってみた。社長は目を大きくして「うん!それは面白い。ぜひ師匠に聞いてみましょう。」・・・そして僕は有言実行、早速、がばいざぶとん試作品に動き出した。久留米の問屋さんと機織元の協力で多くのサンプル生地を入手して社長さんを通じて洋七さんに生地を選んでもらうことにした。
 ある日、舛田社長から電話が掛かってきて「師匠がざぶとん企画に本腰を入れて取り組みませんか?ぜひお会いお話ししましょうということになりました」となった。下品な例えだが飲み会で目当ての子に勢いでデートに誘い、すんなりOKしてくれて驚いたような気分である。(そんな経験はないが・・・)
洋七さんと僕は両方緊張していた。
 洋七さんとの対面は大阪で実現することになった。洋七さんは吉本興業の漫才の仕事があり、僕も大阪で仕事があったのでお互い日程が合う日を選んで大阪で決まった。
 久留米絣で仕上げたざぶとんは予想以上の出来栄えだった。僕はそれを持って大阪で仕事していた洋七さんに会いに行った。かつて一世を風靡した超人気番組「オレたちひょうきん族」で笑わせてくれたあのおもしろい人と会える・・・急にそんな事を思い始めると移動の新幹線の中で急に緊張してきた。吐き気の連続である。「お前は妊婦さんか?」と心の中で一人ツッコミをしていたがなかなか緊張はおさまらなかった。

youhichi

大阪のある料理屋さんで待ち合わせしたのだが、洋七さんは約束の時間ぴったりに来た。「いやあ!どうも!どうも!」大きな声で入ってきた。テレビのままである。入ってきた瞬間、緊張と喜びが一気に起きたせいか僕はなぜか大笑いしてしまった。でも洋七さんも少し緊張しているように見えた。お互い照れ隠しのような言葉を交わしていた。

洋七さんと沢山の話をしたがこのコラムでは書ききれないのでご勘弁を。でも色々苦労してきた話をギャグを交えて平然と話すし、大声で「ビートたけしとばあちゃんにはこの先もずっと感謝し続けていくよ」と何回も話していた。この言葉には嘘はないと思う。さらに「ばあちゃんが生きていないから俺がばあちゃんの話を伝える。そしたらこの話が売れてきた。ホントばあちゃんのおかげだ。」洋七さんの正直な生き方を見ていれば周りの人が応援したくのもうなずける。
 洋七さんは試作品のざぶとんを見て「これやこれや!」と言ってざぶとんに抱きついていた。そして食事中もざぶとんをずっと抱いたまま「この柄で良かったわ!ばあちゃん久留米絣でざぶとんとふとんを夜中に作っていて・・・」と思い出話をしていた。確かに傍で見ていただけあって、ふとんやざぶとんの作り方を良く知っていた。
 握手してから3時間以上経過していた。別れ際にまた握手して最後に写真を撮ってくださった。そして小さい声で「次は博多で飲もう。博多は大好きだし、佐賀から近い。」といってタクシーに乗り込んでいった。そうか!洋七さんは確か佐賀に会社と自宅があることを思い出した。ばあちゃんビジネスに対する本気度をタクシーを見送りながら改めて感じたのだ。そういえば洋七さんは今でも漫才をする時にマイクに向かう数秒間は「ガタガタ震える」と話していた。やっぱり今日の握手もそういうことだったのかもしれない。
 がばいばあちゃんとおたふくわた・・どちらもあったかいイメージがある。だからあまり肩に力を入れすぎずマイペースに「がばいざぶとん」を販売したい。なかなかユニークなおまけもついているしぜひ大好きなおじいちゃん、おばあちゃんに買ってあげてください・・・と最後は宣伝になってしまったが洋七さんと僕の力作だと思うのでお楽しみに!

次回は「僕の片思い」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年8月に執筆されたものです

[add_pager]

6.「僕にとっての「昭和プロレス」長編」~僕にとっては猪木が昭和プロレスである~

僕の憧れは裕次郎から猪木に変った
 「ねえ、今日はプロレスを観ようよ」「いやだよ、太陽にほえろを見るんだよ!」
これは小学生の時に従兄弟とチャンネル争いをしたときの会話だ。僕は後者の方。
当時の僕は親父を亡くし心にぽっかりと大きな穴が開いていた。それでも子供なりに前を見て懸命に生きていこうとしていた。親父は休日などに、紺のブレザーを着てワイシャツの中にスカーフを入れてサングラスをかけるスタイルが多かった。参観日にその姿で現れ同級生に「お前のお父さんってかっこいいな」なんて言われて嬉しかったのを覚えている。だから亡くなった後はそういう親父に少しでも似ている人間を追っていた気がする。
「太陽にほえろ!」に登場する石原裕次郎は顔のふっくら度など外見の雰囲気が親父に良く似ていた。だから結構、この番組は楽しみにしていたのだ。それが我が家に遊びに来ていた年上の従兄弟にチャンネルを奪われた。しかもプロレスなんて「野蛮な」スポーツという印象を持っていたのでプロレスを仕方なく観ながら内心はイライラしていたのを覚えている。(従兄弟は当時のこの事を全く覚えていない)
 その時はじめて「タイガーマスク」を観た。当時、プロレスブームが起きていてとくにその主役がこのタイガーマスクだったわけだが、僕にはあまりピンと来なかった。アニメと実写が当時の僕にはどうもしっくり来なかった。やはりアニメはアニメのままで良かったような気がする。

それが・・・メインイベントで登場した黒タイツのアントニオ猪木でガラリと変わった。
あの時猪木の「強さ」を観て涙が出そうになった。でかい外人や怖そうな日本人相手にも「来い!この野郎!」とか言いながら当たっていく。親父がいなかった当時の僕には強さの憧れが一瞬で「裕次郎」から「なんだこの野郎!」の猪木に変った。「強さ」という概念がリングの戦いという形で観ているほうが僕にはかっこよく思えたのだろう。
猪木はこの頃、絶大な人気があった。
それからずっとプロレスを観た。特に猪木と藤波、長州の新日本プロレスは毎週観ていた。例え、嫌なことがあって泣かされても金曜日の8時に「猪木!猪木!」と応援して心をすっきりさせていた。そしてプロレスごっこをして相手に技をかけられてその痛みを知り「レスラーはやっぱりすごい !」とさらに憧れが強くなる。当時は外人レスラーも豊富だったし、藤波、長州などのスターも多かったので毎週ストーリーが激しく展開していたから面白かった。学校で勉強したことはきれいに浄化されているが今でもプロレスラーの得意技、本名、各地にある会場の名前、当時活躍していた記者の名前などほとんど覚えている。

猪木病感染
猪木はリングの上だけでなくプロレス以外でもあちこち話題を振りまいていた。当時ボクシング王者だったモハメッド・アリと異種格闘技戦をしたり、新宿のデパートでライバルレスラーに襲われたり(確かに今考えると居合わせること事態がおかしいが)、参議院議員に当選したり、イラクで人質を解放したり、北朝鮮でプロレスを開催したり、と世間を驚かせてきた。
僕はこういった猪木のプロレス外の活躍にも影響を受けていたので中学生の時に生徒会長に立候補して当選したのも実は猪木のようにトップに立ちたいという夢があったからだし、人を驚かせることを言い出したり、奇抜な行事や行動を取ったのも猪木の真似だった。今考えると完全に猪木病だったんだろうなあ。
休み時間にはマスクをかぶって仲間と戦い、赤い絵の具で額を赤くして次の授業中にはバンソウをしっかり貼っていたのだ。アホもここまでいくと誰も何も言わなくなる。
高校時代に留学したときも「世界戦略だ」とあきれるようなことを言っていたし、留学先のニュージーランドでは世界のスターであったホーガンと日本でしか有名じゃない猪木のどっちが強いか本気で外人と議論していた。
社会人の時も猪木だったらこうするだろうと常に想像して営業活動をしていた。しかしあえて人のやらないような事をやってきたことが結果として成功したことがある。それが前の会社で「全国営業マンコンクール優勝」と「社長賞」を受賞したことだろう。あのときはチャンピョンベルトを獲った気持ちだった。会社のPCの上には猪木と長州のフィギアが置いてあったが上司に一度も怒られなかった。今考えれば怒られないぐらい営業を動きまわっていたからだろうと思う。
今でも少しは影響を受けている。例えば10年以上も今も欠かさずウェイトトレーニングを続けているし人前でスピーチや挨拶を頼まれる時など「元気ですか!」と言っている。さすがに会議や株主総会などでは言えないが心の中では「いくぞ!」と自らの緊張を和らげようと叫んでいるのだ。

猪木から「原田」へ
昭和プロレスというのは昭和の頃に最盛期だった猪木、馬場、藤波、長州、タイガーマスク、前田日明やハルク・ホーガン、スタン・ハンセン、ブルーザーブロディ、ウォリアーズなどが活躍していた時代を指す。平成に入ってからはショー化と格闘技路線とスタイルを多く誕生し、さらに若手の台頭などで時代が急激に変化しているのであえて昭和と平成と線引きして話すファンが多いからこのような呼称になった。
猪木を批判する本、プロレスの裏話など今ではインターネットなどでも多く見ることが出来るがそんなもの読んでも仕方がないし、マニアであれば別に知っているよというようなものも多い。とにかくあの頃はみんなが楽しく見れたんだからどうでもいいと思う。
そういえば僕は7歳ぐらいの頃、デパート屋上のステージ裏で当時人気のヒーローゴレンジャーの青レンジャーがお面を取って座りながらジュースを飲んでいる姿を見てしまったがそれでも彼らには幻滅していない。

引退しても猪木は人気があるけれど最近はあえて見ないようにしている。
だが僕の人生はほとんど猪木などに支えられたのは間違いない。今まで生きてきた人生でやってきたことは猪木の真似が多い。しかしこれからは猪木から旅立ち「原田」として独立して動いていかなければならない。家族や社員、取引先など多くの人間を守る立場にいる以上やっぱり「破天荒」だけでは生きていけない。だが我が家には猪木以上に「怖い」伴侶がいるので皆様にご迷惑をかけないことだけは確かだが・・・。

次回は「島田洋七さんとの「がばい出会い!」」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年7月に執筆されたものです

[add_pager]

6.中村畦碩学院長のパワー。88歳の偉大なる学院長

昨年の冬に私は昭和48年の開校以来3000人以上の卒業生を送り出した東京は板橋区にある「東京蒲団技術学院」を訪ねました。 この学校は蒲団屋さんの後継者を教育することを主にしているのですが、綿・合繊蒲団作りの実技だけでなく寝具店での経営のノウハウ、また寝具関係の教養や人間形成なども厳しく指導している有名な学校です。私は少々緊張した声で「お邪魔します!」と学校のドアを開けると2階のほうから「はい!ただいまお伺いします!」という若くて元気な声が聞こえてきました。しばらくすると一人の青年が階段から飛び降りるように私の前に現れ正座し深々と頭を下げながら「こんにちは。ようこそいらっしゃいました。」と言って挨拶をするではありませんか。まるでどこかの高級旅館にでも来たような錯覚になりました。 私は社名と自分の名前と名乗ると「はい承知しております。」青年に案内され2階へと行きました。最近あまり見かけられない気持ちの良い素晴らしい応対振りにこの学校の「味」の全てを知ったような気がしました。

「やあやあ」と学院長室から姿勢がよい中村畦硯(けいせき)先生が出て来られました。学院長は開校以来今でも現役で生徒の指導にあたっておられます。勲三等をはじめ数々の賞を受賞しておられ、またテレビ番組にも何度か出演されている偉大な方なのです。この学院長80歳を超えていらっしゃると聞いていましたが、もっとお若く見えます。無礼な私は椅子に座るなり「学院長は御幾つになられたのですか!?」と聞いてしまいました。先生は笑いながら「来年で88歳になるんだよ。来年は米寿のお祝いをね、かつての卒業生が集まって開いてくれるんだ。それまで頑張るよ!」と大声で話されました。世間話をした後、私は綿について色々聞き始めました。

学院長は生徒さんが入れた緑茶をおいしそうに飲みながら「なぜこんなに綿が寝具で使われなくなったのか。それは綿を沢山売りたいという企業と綿を沢山入れて売りたいという蒲団屋さんの関係も原因だと思う。要するに重い蒲団を売る事が主流になっていた。」 と話しました。「綿ふとんイコール重いというのが世間では常識みたいになっている。羽毛が売れ始めたころ、綿ふとんも時代に合わせて軽いように工夫して作るべきだった」と強い口調で言いました。「今は羽毛とあまり変わらない重さの綿ふとんだってある。そもそも綿ふとんを重いと感じるのは我々の若い頃に比べ今の人たちは体力が低下している証拠だ。野球選手などのスポーツマンや定期的に運動をしている人は綿ふとんじゃなければ寝れないという人が多い。だから個人の体型や年齢に合わせて綿ふとんを作ればいい。程よい重さがあったほうが体力アップにもつながる」と強調していました。なるほど。

「自分の寿命がなくなるにつれ蒲団も軽くしていくんだよ。寿命がなくなる直前はガーゼだって重く感じるんだよ(笑)」と話す学院長の目は長年教育してきた自信があふれ出ていました。かつては年間数百人もの生徒がいましたが今では十数人にまで減少しました。それでも若い男性や女性が訓練所で一生懸命に座蒲団や蒲団を作っていました。中村学院長は生徒達を眺めながら「人間が生きている限り蒲団も絶対になくならない。だからそれを作る職人も絶対ゼロにはならない。だから1人になろうと私は教育を続ける。この学校は技術だけ教えているわけではない。重要なのはしっかりとした人間になることだ。いくら技術が良くても魅力ある人間にならなければ素晴らしい蒲団は作れない」と生徒に話しかけるような口調で私に話しました。最後に私が「どういう綿ふとんを作るべきですか」と聞くと学院長は私の顔を見て 「味噌汁と同じだよ。ダシがなければ旨味はない。蒲団にもダシがいる。掛け蒲団には軽いメキシコ綿だけではなく、そこに少しインド綿のような短繊維や ほんの少しの合繊などを入れて味を作るべきだと思う。だからどういうダシを作れば いいのかをこれからあなたは学ぶべきだよ」とおっしゃってくださいました。

人生の先輩方から「最近の若者は・・」という言葉を良く聞きますが、ここにいる生徒さんの目つき、やる気そして素直な姿は「最近の若者」ではないように思いました。
次回は「亡き祖父との再会」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2002年1月に執筆されたものです

[add_pager]

6.学生時代に経験した理想の家庭像

学生時代に経験した理想の家庭像

最近、雑誌や新聞で想像を絶するような事件や犯罪の記事が多いが、こういった背景には必ずといっていいほど子供の教育や親子、夫婦間の関係などが絡んでくる。ある雑誌では「これからの父親は仕事を定時で切り上げ、家族といる時間を増やすことが重要だ」といった内容があったが全くその通りだと思う。

私は幼少時に父を亡くし、そのあと歳がはなれた姉が結婚したので母と二人の生活が続いた。父が生きていた頃、日本は高度成長期にあり父も非常に多忙な毎日を送っていたので、父の帰宅時には私はすでに眠りについていた。だから家族団らんの食事というのは数えるほどしかなかったと記憶している。

hituji

牧羊犬と羊たち(ニュージーランド)

私が家族団らんの経験をしたのは高校時代だった。ニュージーランドの高校に2年ほど留学していたのだが、前半は寮生活、後半はホームスティという経験をした。このホームスティの家庭が私にとっては大きな財産であり今でも理想の家庭像として心の中に残っている。父親は貿易会社を経営していたが学生時代はボクシング部に在籍していたという体育会系の格好いい人だった。ひげ面はちょうどひげをたくわえていたころの歌手エリック・クラプトンに似ていた。母親は専業主婦、息子は私の一つ年下で同じ高校に通っていた。お姉さんはなかなかの美人でニュージーランドの雑誌に何回も出ていた高校生兼モデルの女性だった。家族構成は偶然私の家族と同じだった。

父親は厳しくて優しい人だった。「ヒロ、俺はお前を本当の息子と同じように接する。たまに手を出すこともあるだろう。日本にいるヒロの母親から送るお小遣い、通帳は大切に保管しておくがその都度判断してヒロに渡すようにする。」といわれていた。手を出すことはなかったが(息子にも)大声を出すとかではなく静かにゆっくり話すその怒り方は半端ではない威圧感だった。

また「本当の息子」扱いされていた私は母親が寝る前に息子にキスをするのだが私にも毎晩キスしてきた。内心は少し嫌だったが「優しさ、温かさ」に感動しそのうち慣れてきた。 また「お前は少し太っている」と言って早朝5時に起こされ登校前に父親、息子と3人でジョギングをしたりレース用の本格的な自転車を購入してくれて、それに乗らされていた。おまけに3人で週末になると「トライアスロン」のようにスイミング競技がない、マラソンと自転車競技のみの「バイアスロン」という競技に出され、いつもビリから3番目ぐらいだったが「日本人が参加している」という珍しさから毎回ギャラリーが温かい拍手を送ってくれていたので気分は「1位」だった。現在でも週2回はジョギングとウェイトトレーニングを続けているのは、このころの影響だと思う。

夕食時には父親は帰宅してすぐネクタイを外し台所に入る。そして母親にキスをして今日の報告を聞く。支度は母親がやり席につくと家族の長である父親がメインディッシュであるローストビーフや鳥の丸焼きなどをナイフで切り、家族それぞれの皿に乗せる。

そして食事がはじまると父親は家族の会話を大切にしたいので、すかさず電話機の受話器を外して息子や娘から一日の出来事を聞く。息子と娘は父親に面白い話を早く聞かせたいのか、毎回いつも話す順番で揉める。(私は揉めている間に頭の中で報告を英語に直しているので食事どころではない)その報告をネタにワイワイと盛り上がり食事が済む。後片付けは息子がお気に入りのラジオをかけて私を含め子供達がやる。役割分担が完璧なのだ。父親が尊敬され、家族でたくさんの会話をして、週末は家族で出かける。この体験は私にとって本当に居心地が良かった。そしていつまでも私には忘れることの出来ない財産だ。

日本とは文化、歴史、社会情勢なども全く違うので単純に比較することは出来ないがこういった家庭が日本でも増えればきっと悲しいニュースも少なくなると思うのは間違いだろうか。 学生時代まで頻繁に手紙をやりとりしていたが私が受験を境に返事を書かなくなってしまい途中で連絡ができなくなってしまった。最後の手紙には母親が重い病気にかかり自宅も引っ越すという内容だった・・・。

私は今年の冬ニュージーランドに行く計画を立てている。このコラムを書いている前日に私の通った高校の立派なホームページを発見した。そして私はこの家族を探すべく作業をついにはじめた。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年12月に執筆されたものです

[add_pager]