銀座・ハンズエキスポにおたふくわたブース登場!

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6月20日(月)より、銀座のハンズエキスポ(東急プラザ銀座7F)にて、おたふくわたのポップアップブースが期間限定でオープンしています。

君野倫子の日本の夏したく」という企画内での出店です。
おたふくわたの他には、かごや(カゴ)、辻徳(懐紙)、トリエ(絞りの日傘)、にじゆら(手ぬぐい)、馬場商店(蕎麦猪口)、廣田硝子(ガラス器)、舞扇堂(京扇子)といったブランドのアイテムがずらり。(※五十音順)
期間内には、そうめん、日本茶、和菓子といったアイテムも追加されるそう。

6月25日(土)には、おたふくわたの職人が直接座ふとんのつくり方をお教えするワークショップ「マイ座ふとんをつくろう!」も開催します。
ワークショップについて、くわしくはこちら → https://hands-expo.com/event-ws/2016/06/post-5.html

お近くにお越しの際は、ぜひお気軽にお立ち寄りください。

5.スーパー職人 丹羽正行氏という人

私が丹羽正行氏と始めてお会いしたのが昨年(※2001年)11月12日の明治記念館で行われていた「全国技能士会」です。先日書いた新聞記者さんが「名古屋から綿に大変詳しい方がいらっしゃる」というので緊張しながら会場に向かいました。お会いした第一印象は非常に姿勢がよく「文化人」のような雰囲気を持った方だと思いました。丹羽氏は寝具業界では有名な方です。現在(※コラム執筆時点)51歳で名古屋の熱田区で寝装品専門店を経営しています。大学では機械工学科を卒業し国家公務員になる予定でしたが、父親の入院をきっかけに天保時代からふとん作りをしているご実家を継ぐことになりました。機械工学科出身らしくふとんを作る為に図面を引いたり、また綿の歴史を調べようとインドをはじめ世界各地を回りそこでふとん製作の研究や歴史ある綿打ち用の弓、糸車、綿繰り機などを集め、それを用いて講演会などでは独学で研究した技術を披露し会場内をいつも沸かせます。そしてふとん作りの技術はこれも独学で上手な職人さんのビデオを繰り返し見て研究したそうです。勉強を始めて数年後には全国大会で優勝しまた「内閣総理大臣賞」も受賞している実力者なのです。

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3月24日都内で行われた 講演会での
丹羽正行氏

そしてどうして綿ふとんが衰退していき羽毛、羊毛が主役になったのかをご自分なりの見解で話されたりして非常に勉強になりました。木綿の歴史、江戸時代に盛んに行われていた綿打ちの話やこれからの綿ふとんのあり方などを丁寧に話していただきました。次の仕事があったため1時間半ぐらいしかお話が出来ませんでしたが、非常に分りやすく上手に話してくれるので全く飽きることなく時間が過ぎました。「木綿、羊毛、羽毛それぞれ長所・欠点がある。だが木綿だけなぜ欠点が強調され羽毛・羊毛の欠点を表に出さないのか憤りを覚える。」と話す丹羽氏の目は輝いていました。そして何よりも綿を我が子のように大切にそして愛情を持って話すその姿に深く感動を受けました。私は丹羽氏と別れた後、新聞記者さんと駅に向かい途中で私が「いやあ大変感動しました。あんな職人さんがまだいるのですね。」と興奮した口調で話したのを今でも覚えています。丹羽氏の影響で私は更に綿の事に興味を持ち本や古い資料を集め勉強をはじめました。

とにかく綿は奥が深く調べれば調べるほど知らなかったことが沢山ありました。そしてその綿の素晴らしさ、美しさを皆さんに少しでも分ってもらおうと思い、このコラムでも出来る限り載せていくように考えています。その後丹羽氏とはメールや電話などでご相談などを受けていただいていたのですが今年の初め仕事で大阪・博多に行くことになり時間を見つけて私は遂に名古屋の丹羽氏に再会することが出来ました。このお話はまた別の機会で書きます。

次は「87歳の大先生」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2001年12月に執筆されたものです

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5.「緊張」「出会い」「感動」  第九交響曲合唱参加は人生を変えた。夢はオペラ・・・

「緊張」「出会い」「感動」
第九交響曲合唱参加は人生を変えた。夢はオペラ・・・

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以前この「ひとりごと」で第九交響曲の合唱に参加する話を書いたらかなり反響があった。友人や合唱の仲間達を抜かして、季節柄まず検索エンジンで「第九」と入れたらこのホームページにいつの間にか辿り着いた方がかなりいた。また先月「サライ」に掲載されたことも大きい。小さい記事だったが掲載後、問い合わせやホームページのアクセスが多くなった。ある雑誌の編集者から「御社のコラムを読んでいたらふとんと関係のないコラムがありなかなか面白い会社だと思いました」という電話があった。

顔も知らない方からメールで「第九がんばってください」とか購入者から「第九出るんですってね」なんて言われるとどうしても照れてしまう。この場を借りて皆さんにお礼を言いたい。「無事に最後までステージに立っていられました」

当日は朝から緊張の連続だった。妻がこれでもかというような大きい弁当を作ってくれたが感謝しつつ全部食べられないだろうと内心思っていた。

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 東京・有楽町に近いその会場は有名歌手や海外アーティストなどがイベントを行う巨大ホール。会場に着くなり「舞台関係者入口」というドアに入った瞬間までは有名人になったような気分でいられたが舞台を見学した瞬間、有名人どころか超小型人間になってしまうぐらい萎縮してしまった。
「収容人数 5000人」しかも主催者から「チケットがほぼ完売した」と聞いた。まずい。これはまずい。自分はこんな場所で歌うのかと思うと吐き気がしてきた。
私を観に来るのは家族や友人や知人およそ20人。4980人は私を観ているわけではないと言い聞かせて本番まですごした。控え室での練習、本番同様に行われるリハーサル(ゲネプロ)などを行ったが周囲もかなり疲れている様子。しかし歓びの歌なんだから辛い顔なんか見せられないという意志が伝わる。そして本番直前、指導にあたった指揮者の方や先生が大声で「今年の皆さんは非常にうまかったです。自信持って歌いましょう!」
と話すと拍手が起きた。しかしその後「無理しないでくださいね。一番前には我々プロもがいるんだから無理しないで!具合悪くなったらしゃがんでいいから」と言った。おいおい5000人の前でしゃがめる人がいるか・・という雰囲気になった。

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そして第九の演奏が始まる。我々は舞台裏にいった。いよいよ第3楽章が始まる。
関係者が「はい入って」とドアを開ける。観客はぎっしりだ。

よく「大勢の人前に出るときは人をかぼちゃと思え」と言うがあれはウソだ。人は人だ。
かぼちゃに見えない。足が震えている。練習より声が出ない。鼻がかゆい。目がくらむ。
しかし合唱団の中で若い部類に入る私がここでしゃがんだら打ち上げ会で笑われる。
「フロイデ、シェーネルゲッテンフンケン」何とか歌えた。横の人が練習ではうまかったのに間違えた、横を見ると苦笑していた。あれで何かリラックスできてきた。
無事に終わったあとはしばし呆然だった。演奏が終わり、拍手も終わりかけたそのとき2階席の真ん中でいつまでも手を振っている人がいた。位置的に見て妻だろうと思った。
妻のおかげでここまで来れた事を思うと感動してしまい目に涙があふれてきた。去年、車中で「声がいいから第九でもやれば?」その一言で今この舞台に立って歌うことができた。妻の両親も私の母も感動してくれた。

打ち上げの時、今回の有名指揮者から「おたふくちゃん、ありがとね」と握手をいただいた。(先生は福岡出身でおたふくわたをよく知っていたので練習中「おたふくちゃん」とよく話しかけてくれた。)合唱の皆と練習中にはできなかった名刺交換をして交流を深めた。職業や性別なんか関係なく半年練習を続けてきたのでかなり親しくなれたと思う。

仕事があり思うように練習はできなかったが間違いなく「第九」は私の人生を大きく変えた。私の夢は更に広くなっていった。あるプロの合唱の方から「声がいいから練習を続けたら力がつくよ」とほめていただいた。仕事と同じでこだわり出したら止まらない私は自宅に着くなり妻に「今度はオペラを教えてよ」と話した。
あきれた顔をしながら「お弁当全部食べれたの?」と言われた。
とにかく感謝

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年11月に執筆されたものです

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5.「パン屋さんと肉屋さんの徹底している姿に僕は深い感銘を受けた。息子にもこの姿を焼き付けてほしい。」

おばあちゃんを見たとき「オーラ」を感じた・・・
 僕は子供が出来てから完全に規則正しい生活に変わった。どんなに前日遅くまで起きていても毎朝6時前後に2歳半の息子に起こされてしまう。息子が起きてしまった以上2度寝なんて許されないし出来るわけない。起き上がって息子の行動に合わせるしかないのだ。それになぜか最近は妻よりも僕を先に起こして遊ぼうとするのだ。
 起きてからしばらくして2人で家のまわりを掃除する。水撒きを終え、日によってはベビーカーに乗せてジョギングを付き合わせたり、2人で散歩したりする。息子と二人の朝7時のこの時間は最高に楽しい。
そして・・・散歩の帰り道にたまに寄るパン屋さんがある。
朝7時半過ぎになると店は開くのだが、出来たてのパンは最高においしい。パン生地のふっくらさと中身のバランスが絶妙なのだ。日によってはユニークな組み合わせのパンも作っている。僕の町の近くにはファッション、飲食の人気ショップや有名百貨店が数多くあるのだが、ここのパン以上においしいパンは食べたことがない。そういう店でパンを食べると雑誌に載っているような街の有名店が「?」である。地元であの店を知らない人はかわいそうだ。

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見た目は普通のパン屋さんでも味は普通じゃない!

おいしいパンとおばあちゃんとの会話。お客は幸せ者だ。
 僕がこの店を好きなのは味だけじゃない。レジに立っているおばあちゃんが最高にすてきな人なのだ。おばあちゃんは最高の商売人である。はじめておばあちゃんを見たときは「オーラ」を感じた。鈍感な僕はめったに人のオーラを感じないものだがこのおばあちゃんには久しぶりに人の「輝き」を見たような気がする。
 初めはおばあちゃんに乗せられて世間話をベラベラ話しただけなのに
 「あんた朝から元気がいいねえ。こっちまで元気になるよ。朝からありがとね」とおばあちゃんは大声で僕を見送ってくれた。仕掛けてきたのはおばあちゃんなのに相手の良さを引き出して褒めちぎる。凄い人だ。僕はこの店に通うように誘導されてしまった。こんなに朝から気分を良くしてもらうのは最高だ。僕は口だけは達者だが、今回はおばあちゃんに負けたのだ。
 息子と行くようになってからはお客がいない時、こっそりおまけにパンをくれる。
そしていつもドアを開けて見送ってくれる。
 会社の帰りにパン屋さんの前を通ると遅くまでおばあちゃんは働いている。元気な74歳!日中は休んでいるときもあるだろうけど、20時すぎまでおばあちゃんは朝と同じ姿で残り少ないパンを売っている。ここのパン屋さんは家族で経営しているのだがおばあちゃんが完全に主役である。おばあちゃんと話したくてパンを買いに来ている人も多いはずだ。おいしいパンとおばあちゃんの会話とお客は幸せ者だ。この店は50年以上続いている。

おじいちゃんは肉切台を拭いていた。もう降参である。
 そしてそのパン屋さんのひとつ先の肉屋さんがあるのだが、そこでは「おじいちゃん」が主役だ。店で肉を買わなくても誰が見せの主役か分かる。店内には家族らしき数人が肉を売っているのだが入り口付近にいるそのおじいちゃんは毎朝、毎夜、店先の肉切り台やカウンターのガラスを布きんで拭いているのだ。とにかく、いつもいつも拭いているのだ。僕が休日の昼どきに歩いているときもおじいちゃんは片手に布きんを持ったまま客と世間話をしていた。凄い。いつ見ても拭いている。
 このコラムに今年3月の東武百貨店の催事について書いた事があるが、その時の内容で時間が空いたときにふとんの手入れをしていたというのは実はこのおじいちゃんの姿を真似たのだ!(参考URL http://otafukuwata.com/wp/?p=276

パン屋さんと同じく夜まで店は開いているのだが、この前も8時過ぎに車で通ったら閉店前らしく、水を使って肉切台を拭いていた。もう降参である。僕が意識して見るようになって1年以上経つが未だに布きんを持たない姿を見たことがない。近いうち僕はここの店で肉を買うことにした。いつもひいきにしていた店があるのだが次回浮気しようと思う。

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撮影した日もやはりおじいちゃんは拭いてました。すごい!

どんな大企業も2人の宣伝力には勝てない
 かつて百貨店やスーパーの建設ラッシュで商店街が冬の時代と叫ばれてから、どのくらい経っただろうか。一部を除いていまだに商店街は元気を取り戻せずにいる。僕の知るこの2つの店もこの商店街に属している。今では数店が疎らにあるぐらいだ。しかも目と鼻の先には有名百貨店がそびえたっている。
 そのような条件でも店には活気があり、固定客もいて、店を長く続けている。それはやはり店は「人」次第であるということだ。おばあちゃんの会話、おじいちゃんの拭く姿、これは
pricelessの宣伝力だ。どんな大企業も2人の宣伝力には勝てない。
 僕はこの先輩達の姿を見て学ぶ事が多い。名ばかりのビジネス本より会社の経営の役に立つ。「続けている」ことがどんなに客の心をつかんでいるのか。そしていかに大変か。本人達は毎日同じことをしているとは思っていないだろう。だから続けていられるのだろう。
 肉屋さんだって僕が行けばおじいちゃんが一人の客を新規開拓したことになるのだ。
 息子はこうした姿をいつも見ているが、理解できる年令になった時、この2人の姿を見ながら「商売」とは何かを僕は教えたい。それまで2人には働き続けてもらいたいから更なる長生きを心から祈っている。
次回は「僕にとっての昭和プロレス」について書きたいと思います。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年6月に執筆されたものです

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4.「おたふくわたはせんべいふとんです」 ~誰が何と言おうと僕は綿100%でこれからもふとんを続けていく~

なぜ私は綿100%にこだわるのか・・理由は簡単である
 突然だが僕の家内はいつも、「おたふくわたはせんべいふとんでございます」と僕をからかう。家内の実家は老舗の呉服屋さんなのだが代々、綿のふとんで寝ている。だから綿のふとんについては僕らの世代の中でも詳しいしこだわりがある。彼女が言うには昔実家にあった綿ふとんはもの凄くふっくらしていてふわふわのふとんだったという。綿ふとんというとその印象が強いらしい。
 それに比べて当社のふとんはすぐぺちゃんこになると僕に話す。僕はそれに対していつも「君の実家のふとんはポリエステルが入っているのではないか」と反論した。だが家内の実家に古くからあるふとんは年数から言ってポリエステルが入っていたとは考えにくい。
そのふわふわしていた実物を見たかったが今となってはそれを確認することは出来ない。
 なぜ私は綿100%にこだわるのか・・理由は簡単である。昔のふとんは「綿100%」だったからだ。江戸時代から続く伝統の「綿ふとん」を実現していくのが僕の考えだ。
確かに綿100%というのは綿花をさわっても分かるようにさわっているうちにへたってくる。日に干せば回復はするが例えマメに干していても復元力自体は徐々になくなってくる。それが天然というものである。こんな不便なものは現代に合っていないという人もいる。
確かに天然というのは色々面倒くさい。ふとんは日に干さなきゃいけないし、シャツなどはアイロンをかけないとすぐにシワになるし、着物で使われる木綿織物も洗い方によってはかなり縮むのは有名だ。しかしそれ以上縮むということはないし、その風合いは絹にはない親しみある心地を味わえる。綿100%のワイシャツやブラウスは何回も使っているうちに生地がつるつるになってきてクリーニングなどで糊付けしない限り新品のようなパリッとした感触はなくなるが、それは良く言えば肌に馴染んでくるという事だ。

kenbunroku04_01 ←左が1年半使用した弊社の綿ふとん右が作りたてです

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僕は2枚敷にして寝ている
 綿ふとんは最初のうちは干しているうちにふっくらしてきてその現象に驚く人もいるが、干す習慣を少しでもサボるとあっという間にカサが出なくなる。だがそれ以上へたる事はないし換言すれば「綿が落ち着いて体にフィットする」ということだ。
  僕は実際、自宅で6.3キロと4.5キロのふとんを2枚敷きにして寝ているがあまり日には干していない。だがその両方が程よくぺちゃんこになり綿が落ち着き僕はかなり心地よく眠れる。この感覚を文章にして伝えるのは難しい。
催事などでふとんを展示しているときはふっくらしていて1枚でも十分な寝心地を味わえる雰囲気が出ている。実際、カサの回復力がなくなっても綿ふとんの落ち着いたぺちゃんこ感と程よい硬さの畳の相性で十分な寝心地は味わえるという人も多い。だが底つき感を覚える人も事実多くいる。
昨今、綿のふとんといえば多少ポリエステルを混ぜて作る人が多い。これは決して間違えてはいない。なぜならポリエステルが入っているふとんはコシがあるしカサ高はいつまでも長続きするので日に干す頻度が少なくてもあまりへたる心配はない。天然100%より面倒じゃない。天然は何度も言うがマメに干してもカサがなくなってくる。だからポリエステルが入っているふとんは「お客様思い」ともいえる。

本来はいじってはいけない作品だったと僕は確信する
 だが僕は意地でも綿100%にこだわる。ポリエステルを混ぜることは間違えではないが、江戸時代にはそのような技術はなかった。だから勝手な考えかもしれないが畳で寝ているお客様には僕はなるべく2枚敷きを勧めることにしている。江戸時代の資料などでも2枚敷きや3枚敷きで寝ている姿を見かける。(といっても身分の上の人の睡眠環境だが)、特に吉原の遊女などの図鑑を見ていると3枚敷や5枚敷の絵が多いが当時は遊女の格はふとんの枚数で表していたぐらいだ。確かに裕福な貴族が遊女やそのお付などと背の高いふとんの上で花札などの遊びに耽っている姿も多い。
 畳、着物、茶道、書道などの日本の伝統品、伝統文化は現在に至るまで何一つ技術が変わっていない。つまり当時から完成度の高いものとして確立されていたのだ。だから先代の人が開発してきた中に「綿ふとん」があるわけで本来はいじる必要がない作品だったと僕は確信する。茶道も現代に合わせて時間を短縮したものにすればたちまちその「価値」は崩れていく。
 綿100%でどれだけ寿命を持たせることができるかということは果てしない技術目標だ。しかし僕は綿100%以外はするつもりは全くない。いつまでも「せんべいふとん」でも構わないと思っている。それぐらい僕は綿マニアでいるつもりだ。

次回は「パン屋さんと肉屋さん」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年5月に執筆されたものです

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4.好物・塩まんじゅうの人気に学ぶ

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私はたまに妻と巣鴨の「地蔵通商店街」に行く。
友人や仲間には「おじいちゃん、おばあちゃんじゃないんだから」と笑われてしまうが、おじいちゃん、おばあちゃんの原宿竹下通りとも言われるその商店街は、31歳の私でも十分楽しめる商店街なのを、その友人たちは知らない。私にしてみれば知らない方がむしろ哀れに思えてくる。
なんといってもまず、この通りにはおいしいものが沢山ある。

日本人の私たちにはなじみの深い惣菜、つけもの、梅干・・・屋台のやき鳥だってなかなかおいしいのだ。また出店では女性用のカツラを売っていて 「お嬢さん、ほらこうやって被ればバレないでしょ」と、みのもんたばりの口調で多くの人の足を止めさせ、興味を持たせている。有名易者による手相占いはなぜかコピー機で手を撮り、色々診断をする。さらに神社の中では「1分マッサージ」といって白衣を着た中年男性3人が立ちながら肩や背中を揉んでいる。これがまた凄い行列なのだ。

日曜日の午後なんかにこの場所に来ると、私は東京とはいえ少し都会から離れた気持ちになる。 確かに人は多いが、おばあちゃん子だった私や妻にはなかなか居心地がいい空間なのだ。ちなみに私の会社の近くには本当の原宿・竹下通りがあるが徒歩通勤するときはこの通りを歩く。地べたに座る若者、ボブサップのような大きな外人が修学旅行生にカタコトの日本語で店に誘う。学校はどうしたの?と言いたくなる時間帯に制服姿の子達がファーストフード店にいる。私にとっては巣鴨の方が断然心地がいい。

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話を巣鴨に戻すが、私たち夫婦が最も気にいっているのが商店街入り口すぐにある「巣鴨園」の塩まんじゅうだ。 妻の亡くなったおばあちゃんが大好きだったという思い出の大福もちだが、とにかく「うまい」。

程よく塩気の効いたあんこがたっぷり入り、それを包み込むもちの量がなんとも絶妙だ。お茶と一緒に食べれば、紅茶とケーキなんかより数倍幸福感を味わってしまう。持ち帰りもプラスティックの入れ物に輪ゴムで止めるだけなのだがこの単純な包装が不思議とまたうまく見えてしまう。店員も皆優しくて高齢者相手に丁寧に接している。塩まんじゅう以外にも数種類のおまんじゅうがあるがあくまで「塩まんじゅう」にこだわっている。他にも似たようなお店があるが、いつも混雑しているこのお店が一番と私は思う。お客さんに対する姿、そして味、これはまさに私が求めている商店であり、商人(あきんど)の姿だ。

おたふくわたも決して高級路線や豪華な演出をするつもりはない。現在の「おたふくわた」は寝具業界の中でも最小の部類に入るメーカーだと思う。しかしこの規模は私にはちょうどいい。江戸時代に先祖たちが苦労して綿を売ってきた姿と照らし合わせながら売っていけるからだ。 綿にこだわって、手作りにこだわって売っている。私はインターネット販売を主としてきたが、会社の中にお客様と直接商売が出来る空間を作ろうと決めた。きっと塩まんじゅうのように綿にこだわっている人も来ると思ったからだ。私は出来る限り作務衣などを着て綿を見せたり綿の歴史を話しながらお客様と綿談義をしていきたい。そう思った。

巣鴨に行くとそういうビジネスヒントも出てきたりする。人々が求めているのは、いや日本人が求めているのはやはり「ほっ」とする空間なのだと思う。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年9月に執筆されたものです

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4.デパートの店員さんとの会話・・・・・「ふとん売り場にて」

昨年(※2000年)の初夏に私はハニーファイバー株式会社に入りました。単純に綿に興味を持ったと言っても何から始めて良いか分からず、まずは社員の人たちに綿の良さを聞いたり寝具の現状を聞くことから始めました。また、寝具業界で有名な「寝装リビングタイムス」の新聞を再購読することに決めました。その後この新聞の発行元である株式会社日本寝装新聞社の記者と知り合い(この方には今でも本当にお世話になっています)数多くのアドバイスを頂きました。「現状を見に行くという意味では最初にデパートに行かれては」とまずはアドバイスされそれまであまり足を運ばなかったデパートの寝具コーナーに行ってみました。都内では売り場面積が相当広い部類に入る新宿駅の近くにある某有名デパートに向かいました。現場を最初に見た私の第一印象は・・・「羽毛、羽毛、羽毛」でした。

とにかく羽毛をメインにしかも大量に置いてありました。有名ブランドの寝具も羽毛だらけでした。カバーリングは目新しいものはありませんでしたが(花柄が中心)とにかく蒲団=羽毛と思わせるような光景にしばし呆然となってしまいました。よく見ると「羊毛敷き蒲団」「ウレタンフォーム蒲団」「温熱蒲団」が小さく置いてあり隅っこには「真綿の掛け蒲団」が置いてありました。しかし・・・木綿がないのです。そこで愛想が良さそうな主婦タイプの店員さんに「あの~木綿の蒲団はないのですか」と聞きました。するとその店員さんは私のことを不思議そうに眺め「敷き蒲団ならありますけど1種類しかありませんよ」と言って案内してくれました。奥のほうに隠れていた無地の側生地の固わた敷き蒲団でした。

皆さんも試してみてください。デパートの店員さんに「木綿蒲団ありますか」と聞くとほとんどの店員さんは不思議そうな顔をします。更にこの店員さんに「掛け蒲団を探してます」と聞くと更に不思議そうな顔になり「木綿はもう無いんですよ」と言い出したのです。私が「えっ?」と言うとその店員さんは「木綿は重いんですよ。体に悪いって言われてるんです。それに最近マンションなどでも外観を損なうとかで日干しが禁止されているところも多いし、それに干すの面倒なんですよ。もう木綿はないんですよ。やってないんです。ご両親に買われるのですか」と言ってきました。私の世代で木綿を知るはずがないということでしょうか。この店員さんのセリフをまともに聞くと寝具業界が木綿を使った蒲団をやめたように聞こえます。私が「じゃあ掛け蒲団は何がいいのですか」と聞くと「羽毛ですよ。羽毛は軽いし、あと木綿と違って(比較するところがにくい!)干さなくていいんです!」と言いました。

確かに羽毛は軽くて肌さわりも良く、品質の高いものではかなり快適な眠りを誘うものです。しかし羽毛は日に干さなくていいのではなく日に干したら痛み易いのです。 動物繊維であり紫外線に当てると人間の髪の毛と同じでたんぱく質が分解されるので痛んでしまうのです。こういう説明の仕方もあるものだと変に感心してしまいました。 木綿の欠点ばかり話されていましたが確かに軽さなどは羽毛がダントツです。しかし木綿は今でも蒲団屋さんのご主人や職人さんがいて手作りで綿ふとんを作ったものや機械で作った蒲団があります。通信販売やインターネットでも売っています。先日、寝装リビングタイムスのアンケート結果では次に購入したい蒲団は1位が羽毛で68%でした。しかし木綿は6%とまだまだ木綿が好きな方もいるのです。あの日干ししたあとの香りがたまらないとかあのフィット感がたまらないという人は私の周りでもいます。まだまだ木綿人気は根強く続いているのです。

今、東京都の粗大ごみの第1位はダントツで「蒲団」です。打ち直しを知らない方が多くなったのと羽毛蒲団が多いのが現実です。綿は打ち直しや座布団にリサイクルできます。最近は羽毛でもこういったリサイクルは行われていますがようやく消費者にも少しづつ知られてきたという段階です。綿は個人の体型に合わせれば綿の量や質で軽く出来たり重く出来たりします。また日干しすることにより水分を放湿し植物繊維なので弾力が太陽の力によってもとに戻ります。赤ちゃんやアレルギー体質の方のデリケートな肌にも刺激するようなことはありません。ではなぜ売れなくなったのか。昔は綿の種類が少なかったので掛敷両方同じ品質の綿を 沢山入れて売っていたこと、時代に合わない画一的なデザイン、そして日干し出来ない環境や時間的余裕が無いことなどがあげられます。しかし最近ようやく綿も見直され始めました。また上に挙げた利点を知らない人も多いのが現実です。「打ち直し」という言葉さえ知らない人もいます。実はこのような綿の良さや歴史を地道に伝えている方は結構おられるのですがなかなか目立った活動が出来ていません。しかしその中でも有名な寝装専門店の経営者がいらっしゃいます。

次回は私がハニーファイバーに入ってから多大な影響を受けた名古屋の方をご紹介します。  

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2001年11月に執筆されたものです

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3.「催事が教えてくれた大事な事」 東武百貨店での催事は僕にとって最高の教室となった~その2~

緊張がピークに・・・弱いぞ自分!
いよいよ東武宇都宮百貨店で「大九州物産店」の催事を迎えた。開店前に朝礼があり、役員の挨拶からはじまった。低い声だが気合の入った口調である。トップが気合入っているとこちらも俄然やる気が出てくる。
その後担当マネージャーが催事中の注意事項や全体の売上目標額を言っている。
そして最後に「がんばっていきましょう!」と我々にエールを送った。だが目標額を聞いて僕はずっと緊張しまくっていた。「あ~うちだけ全然売れないんじゃないの!?」
大声で言いたくなった。ともかくスタートである。
いつもは根拠がなくても「自信」だけはあってひたすら前へ進んでいるのに今回は、めずらしく「不安」が体中に動き回っている。開店直前に周りの人たちに一通り挨拶をして、気を紛らわせようと努力したが吐き気が止まらない。弱いよ自分!
周りの店は年中、全国各地で物産展を行っているようで、すでに顔なじみの人たちが親しげに話している。別に僕が孤立しているわけではないが、なぜか高校時代にニュージーランドへ留学していた頃を思い出した。初日の教室に入った瞬間を思い出した。周りは知らない人ばかりだからそういう気持ちにもなって当然だ。ここでは新参者である。
いよいよ開店だ。どっと客が入ってきた。我がおたふくわたの看板に一瞬、目が止まる人が多かった。これはいいぞ!ここのお客は毎年催事に来る常連である。その人たちから見ればおたふくわたは初デビューでありインパクトはあった。だが・・・そのまま通過する人が多い。
なぜなら来場者のほとんどはすでに購入するものが決まっていて、一直線に目的の店へ向かう。「あんた元気だった?」「今年もやってたのね」そういった会話があちこち聞こえた。購入した後に満足感を得たお客たちはあとはウロウロと店をながめながら帰っていく。そういったお客を我々の前に立ち止らせないといけない。

同時に聞けた「あんた、今さらなんで綿なの?」と「そうよね今こそ綿よ」「懐かしいわねえ。おたふくわた・・」
そういう一言を言ってくださるだけで僕の中にあった不安がどんどん消えていく。「綿ふとん!へえ懐かしい」「あ~今こそ綿ふとんよねえ」
初日の後半にはそういう声が増えてきた。また親子連れでは母親と娘の会話が聞こえてきた。「あんた綿のふとんなんて知らないだろ。日に干していい匂いするんだよ」「へえ~」
一方厳しい意見も出てきた。「今さらなんで綿のふとんなの?」「高いわねえ、もっと安くしないと売れないわよ」「羽毛で寝るともうやめられないわよね」「手入れが面倒でしょう。」「打ち直しするふとん屋さんがまわりにないからも面倒でねえ」
「今さら」対「今こそ」この対極の声が聞けた!僕は心の中でなぜか嬉しさがこみ上げてきた。こういうお客の本音が聞こえるのは催事の良さだと思ったからだ。これは今後の商品開発に大いに役に立つ、無料で手に入れられるマーケティングリサーチである。
印象に残ったのは「どうですか綿のふとんは?」と僕が聞くと「みんなねこのあたりじゃ、ふとんが余って押入れにパンパンに入っているのよ。昔は泊まっていく親戚・友人が多かったけど最近は皆帰るでしょ。あのふとんの事考えると欲しいと思っても買う気が失せるのよ」 この会話が先日当社で行うことにしたおたふくわたGREEN&CLEAN 立ち上げにつながったのだ。

なぜ急に売れ出したかお客から聞いて驚いた。
初日は売上ゼロだった。今まで催事をしていてこんな事はなかった。おたふくわた復活してはじめて味わった体験だ。いや今まではうまくいきすぎたのだろう。
さらに、少し離れた距離でこちらも新参の博多人形の店が初日だけで500万円売れたという話を聞いて僕はある意味ふっきれた。
「明日から自然体でいこう」2日目もゼロだった。しかし暇な姿を見せるわけにはいかない。僕らはひたすらお客様に会話をしていこうと積極的に動いた。
催事3日目ぐらいから、なんと、ふとんが売れるようになってきた。なぜ急に売れてきたのか・・・客とは恐ろしいもので初日、2日目を遠くからお客は我々を見ているのだ。「初日からおたくの会社はよく動いていたせいかお客も多く立ち止まっていたでしょ。だから結構気になってね。遠くから見たらすてきなふとんだからね。旦那と相談して買うことにしたのよ」これに似た台詞は何度か聞いた。
初日、2日目と我々は無視されていたのではない。様子を見ていたのだ。おかげで3日目から最終日まで連日売れて結局20枚近く販売出来た。予定よりは少ない数だったかもしれないが催事初出場にしては大成功である。あきらめず閉店まで最後まで頑張った社員を褒めた。
何度も様子を見に来てくれた酒見バイヤーは「ふとんは人形のように手軽ではないし食べ物のように消化できるものではないですよね。初日から3日目はひたすら種まきをしていれば後半は必ず芽が出ます。良かったですね。今後の反省材料も多いと思いますが良くやってくれましたよ」芽が出る・・・心に染みた台詞だった。
酒見バイヤーは本音ではもう少し売れると計算していたはずだ。その期待に応えることは出来なかったがそれでも20枚近く売れたことは安心してくれたと思う。そして「花が咲く」ではなく「芽が出る」という言い方をしたバイヤーはきっと来年以降、当社の努力次第で「花になる」と信じてこのような含蓄ある言い方をしたのだろう。
今回は花になるような結果ではなかった。だがそれ以上に「お客の声」という教科書を手に入れたことはわが社にとても大きい成果だった。
酒見氏の協力に心から感謝し今後の商品開発に役に立たせようと思った。
次回は「おたふくわたはせんべいふとん」について書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2006年4月に執筆されたものです

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3.「第九と九代目」


「第九と九代目」 ことしの12月・・・
私ははじめて第九の合唱に参加する。

ベートーヴェンの「第九交響曲」はクラシックファンではなくても知っている有名な曲である。年末年始になると全国の会場で「歓喜の歌」として多くの観客を魅了する。 第九は特に日本で人気があるがその要因はベートーヴェンの情熱的な音楽が、情が深い私たち日本人の国民性にぴったり合うのではないかといわれている。戦後この曲が日本に広まっときは「西洋から来た希望の歌」として聞いていたに違いない。第九の歌詞は宗教や国などを越えた「愛」を伝える内容となっている。

       抱き合え、幾百万の人々よ!この口づけを全世界に!
            兄弟よ!星空の上に愛する父なる神が住んでいるに違いない
                              (シラーの詩)

しかしどうして私が第九なのかというとこれがまた不思議なきっかけだった。
それは4月のある車内でのこと。私の妻が「あなたはまあまあ声がいいから第九でも やってみれば」と言い出したのだ。音大を卒業した妻が言うので、からかっているのだろうと半分思っていた・・しかし半分「その気」になっていた。「自分が第九を歌う??おもしろいかもしれない」 私はラップやテクノ、ロックなどあらゆるジャンルの曲が好きなミーハーだけに、全く詳しくはないがクラシックのCDも数枚持っているのでアレルギーはない。 早速インターネットなどで調べると沢山の第九の合唱団の紹介が出てくる。 数々調べた結果、自宅から近く、有名指揮者が主宰している第九の合唱団に入会した。 男性陣は40代後半~60代が多く、女性陣は20代から60代とこちらは幅広い。 当初は緊張したが妻がドイツ語の読み方を楽譜にカタカナで書いてくれたおかげで今でも仕事以外はさぼらすに練習に参加している。お風呂の中や車の中、食器を洗いながらも第九を歌う姿を見て家族がおどろいている。「私より歌が好きなのかもしれないわね」と妻は苦笑する。第九は観るより自ら参加して歌う方が断然楽しい。CDを聞いたりピアノに合わせて歌い終えたあと私は必ず涙がこぼれそうになる。歌詞の意味は全ては分からない。しかし練習の際も周りのひとは懸命に歌い、それが終わると何ともいえない満足した顔になっている。

 去年の自分とは違う自分が今年はいるような気がする。とにかく気が引き締まりいろいろな人と一体になって何かをやり遂げているという充実した時間が出来た。 今では夢が広がり再来年春に素人が参加できるベルリンの第九に参加することが目標だ。

 情熱を込めたものには必ず人を歓ばせる何かがある。 私が9月から作りはじめたふとんにも職人や私の情熱が入っていると確信している。 それはふとんを良く見ると随所に出ているはずだ。第九を歌うことで自らのふとん創作にも良い刺激になっていることは嬉しい発見だった。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年9月に執筆されたものです

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3.おたふくわたの歴史

今回は「おたふくわた」の歴史について書きたいと思います。「おたふくわた」という名前は現在ではハニーファイバーの商標になっていますが以前は会社の名前として使われていました。

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明治末期の店頭

創業は天保11年(1840年)の2月です。当時の原田家は九州・福岡の筑前博多小山町(現・上呉服町)で藩主である黒田藩の許、「麹屋(こうじや)」という屋号で種油商を営んでいました。種油商というのは、食用原油や飼料、燃料などの原料となる綿花の中心部にある「実」の部分を売っていた商売の事を言います。当時は食用よりも燃料の方が需要がありました。長男の武衛門がその店を仕切っていましたが、彼らが必要なのは「実」の部分であって綿の「繊維」は不要品でした。そこで次男坊である初代・原田忠右衛門が下小山に店を独立して構えkaneyama(かねやま)とのれんをあげて綿花の仲買と弓打ち式のわたとふとんの加工販売をしたのが弊社のスタートなのです。

 

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昭和11年博多築港
記念大博覧会すべり台

その後、kaneyama綿商は明治17年に忠右衛門の息子、原田重吉が二代目の当主になりました。 重吉は原綿買い付けから加工販売までの一貫製販を行ったり綿弓機から手動足踏の機械に転換させたりとまさに企業確立をはじめた人物です。この重吉が明治35年にkaneyama原田製綿所と名前を掲げ、わたの商品名を「おたふくわた」と名づけたのです。なぜ「おたふく」と名づけたのか? おたふくというのはもともと伝説上の女神で「神代の昔に天の岩戸の前でおたふく顔の女神が神楽を舞い、神が岩戸を開いたことによって地に再び光が導き出された」というめでたい縁起を込めてふっくらした綿とイメージをつなげたといわれています。

 

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昭和31年頃の新聞広告

また明治30年には福岡市制のときに新市名の際、町人・博多か武士の福岡どちらを使うかで世論を二分した際に重吉は博多の「多」と福岡の「福」をとっておたふくにひねり出した意味もあるといわれています。その後、紡績と同じ梳流綿機などを導入し、工場の近代化も進め、知名度も更に広がりました。そして昭和4年にはおたふくわた株式会社として法人化にしました。この頃ホーロー看板に代表される広告にもかなり力を入れました。博多港記念大博覧会では巨大なすべり台が置かれ相当の話題になったそうです。

その後、第二次大戦の影響で苦境に立たされますが戦災者向けの再生ふとん綿で製造を再開します。また米軍特需、官需にも力を入れ脱脂綿や不織布などの医療用としても活躍します。昭和49年に「ハニーファイバー」と社名を変えてからは「おたふくわた」は座布団やふとんの中綿につかう、わたブランドとして販売を続け弊社は和、洋ふとん、座布団やファッションカバー、産業用家庭用不織布、家庭用温熱電位治療器ふとんなど商品を拡大していきました。その後価格破壊などが起き品質破壊によって市場が混乱してしまう時代が来ました。品質を下げてまで製造販売することは経営理念に反するということからやむなく寝具業から不動産業に転換しました。しかしおたふくわたの登録商標をこれからも弊社は大切に守り続けていきます。更に博多が発祥の地であるおたふくわたをもう一度世に光を照らすことは出来ないか日々是学んでいます。

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昭和初期の製綿工場
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かつてのおたふくわた主要商品

次回からは「わた」についての体験談を書いていこうと思います。 まずはわたを調べていこうと決心させてくれた(?)デパートの店員さんとの会話などを書きます。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2001年10月に執筆されたものです

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