10.日本の今も昔も ~その1~わび?さび?茶会に魅了されてしまった・・・

日本の今も昔も ~その1~
わび?さび?茶会に魅了されてしまった・・・。1_0406_ocha

今回は「茶の湯」について書きたい。しかし茶道を習っている茶会によく参加する方にはあまりにも程度が低いので悪しからず・・。

まさか自分が茶会に出るとは思わなかった。私は幼少の頃からとにかく落ち着きがなく、何かするために座ってもすぐ立ち上がり違うことに興味を持ってしまう。いわゆる集中力に欠けるのだ。幸いサラリーマンの頃はあちこち飛び回る営業をやっていて楽しかったし自分に合っていたと思う。デスクワークの仕事をしていたらと想像すると恐ろしくなってくる。

その私が「茶会」である。
私の家系は茶道をしている人が多い。母もそうだし親戚も多い。祖母なんかはお稽古の先生までしていた。だから私もしたというわけではない。この30年間、母が作った茶を飲まされたことはあるが、それも1、2回だろう。

私は、木綿の研究をはじめておたふくわたを復活させてから日本の伝統について色々考えるようになった。繊維の歴史、綿の歴史、ふとんの歴史からはじまり、次第に昔の人々の暮らしぶりや、文化なども気になるようになってきた。そして最近は「昔から伝統として続いているもの」に興味を持つようになった。

きっかけは単純だった。とある美術館に「金の茶室」という展示があったのを見たのがはじまりだった。金色の茶室そのものにも感動したが、今までは気にしなかった茶室の説明が横に添えられていたので真剣に読んでみた。すると「茶室とは友人に相談事を話す時、または政治家や役人が密会や議論を行ったり、外国から来た使者などをもてなすために使われたりしていた」などと書いていた。私はその小さな茶室をしばらく見ていたのだが、道具、床(掛け物や花)、菓子、茶に全てこだわりやテーマがあり、わずか三口ほどで飲めるお茶一杯に対し、存分に客を楽しませる「茶の世界」に何となく興味を持ってしまった。展示を見た後、茶についてのハンドブックを買った。その本の中には「茶会の主人はその日のために床、道具組、菓子、茶を何が良いか懸命に考え、来客者はその思いに感動し菓子と茶をありがたく召し上がる。」と書いてあった。奥の深さを少し知った。

主人には「ちょうだいいたします」、隣の客には「お先にいただきます」と正座しながら頭を下げようやく一杯の茶にたどり着く。今の時代では「贅沢な飲み方」といえる。

しかしこの贅沢な感覚を少しでもいいから持ってみたい。仕事に対しても人生に対しても大げさかもしれないが何か別の発想なども出てくるのではないかと思い私は母に相談し、ある方の紹介で表千家の茶会に参加させてもらっている。

茶会に行くと門から入口にかけて、いつもきれいに水が撒かれており石畳が照明で反射している。玄関を開けると入り口には着物を着た方が座っていて、台帳に自分の名前を筆で書く。記入後に中に入るとまず床を拝見する。「床を見る」とは筆で書かれた掛け物や花を拝見する意味である。茶会の度に掛け物も花も違うので楽しい。そして席が静まるといよいよ茶会がはじめる。最初に菓子を頂くのだが、季節に合わせた見た目も味も見事な菓子である。食べ方にもマナーがあり、まず畳のへりの前に置き、次客との間に一回菓子の入った器を置いて「お先に失礼します」と言わなければならない。菓子が入っている蓋を開ける際も蓋の表裏を拝見する。菓子を頂いたあと箸を清めるという意味で紙の角できちんとふき取り横の方に渡す。菓子を食べるだけでもこんなにルールがあるのだ。しかしこのルールに慣れてくると普段と違い「ありがたく頂く」という気持ちになって、更においしく食べられるから不思議だ。茶には薄茶や濃茶があり、茶の道具もかなりの種類がある。茶のたてかたも簡単ではない。静粛な雰囲気の中、茶を作るときの音は心を和ませてくれるし、釜から聞こえてくる「しゅっしゅっ」という沸いた音がまた茶への期待感を高める。三口ほどで飲む茶だが、先ほど菓子を食べているので苦味はなくあったかくておいしいと感じる。最後は茶碗を全体に眺め、手に取り外見を見る、最後にまた全体を眺める。茶を楽しむとは演出を手伝った道具一つ一つを眺める事も茶をおいしく飲む中に入るのだ。

私はこういった時間の使い方は決して無駄とは思わない。むしろ物に対する見方が変わるし現代人には必要な時間かもしれない。 ふとんの出来具合を気にして見るようになったのも、早朝に起きて玄関周りの水を撒くこと(これは家内が驚いている)もこういう経験から影響してきたと思う。心を清め、冷静に物を見るとはこういうことかと我ながら驚いた。東京のど真ん中で仕事をしているとたまにこの静けさが欲しくなってくる。町を歩きながら、インターネットや雑誌などを読みながら考える時とは又違うヒントも出てくる。
掛け物の筆で書かれた言葉の意味を、そして茶道具、茶花の深い意味を理解できる日がいつか来ると願いながら毎回主人から学ぶ。そしてまた目が養われていく。

日本には色々な茶会があるようだ。流行のカフェに行くのもいいが、若い人が友人を誘って茶会に出るのも悪くない。
私も今度はおたふくわたを作っている職人を誘ってみようと思う。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年4月に執筆されたものです

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9.魅力ある町、東京・神田神保町 歩く人すべてが仲間に見えてくる。

「良く飲みに行くエリアはどこですか」と聞かれれば会社や自宅に近い表参道か外苑、麻布・・気の合う友人達とは銀座や新宿。 「良く行く遊び場所はどこですか」と聞かれればこれまた車で出かける事が多いのでお気に入りの場所はいくつもある。
しかし「長居したくなる町はどこか」と、もし聞かれるような事があれば私は「神保町」と答えるだろう。

東京・千代田区の神田神保町。ここは大学や専門学校、資格スクールそして古本屋さんなどの書店が多く立ち並んでいる事から「学生の町」と言われている。学生以外でも読書家や教育者なども多く利用しており、また最近ではオフィスビルも増えているのでこのあたりは日中、老若男女かなりの人間が歩いていてやけに賑やかだ。また、かくれ家的存在の食の店や中古レコードショップなども裏通りにいくつかあって歩いているだけで楽しい。週末になると近所である水道橋の後楽園に競馬好きのおじさん達があふれるように歩いているので、平日とはまた違う雰囲気を楽しめる。

私は小学校の時に野球好きの姉に連れられて後楽園球場へ野球を観に行ったり、野球道具やスキー用品を買いに神保町には良く来ていた。また学生時代は自他ともに認める「プロレスマニア」だったので、後楽園ホールや東京ドームにプロレスを観に行き、その帰りにマニアが欲しがるような商品を多く置いていた神保町のショップに仲間と毎回のように通っていた。実は神保町は「プロレスファンには、たまらない町」とも言われていてかなりの店が多い。

プロレスとは関係ないが予備校も神保町の学校に通っていた。
予備校時代の仲間は今でもたまに会う事があるが、 「何かあの場所はいいよなあ」と話す。私の持論だが神保町は予備校生にとってはなかなか良い場所ではないかと思う(自分は例外にしておく)。
近くには日本大学があり少し歩くと御茶ノ水に明治大学があるので我々受験生は 学校内で楽しく話している大学生 を見ては刺激され自分の「合格」 を心に強く誓えるし、学習時 間の合間に仲間と時間を決めて、 喫茶店や書店などで息抜きをして、一人で勉強したい時は少し歩いて九段の図書館まで出かける。また学生の町だけあって安くてうまい店が多いので腹ごしらえするには最高の環境だ。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年3月に執筆されたものです

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8.久しぶりに味わったあるタクシードライバーのサービス魂

「えっ?いいんですか?」
久しぶりに味わったあるタクシードライバーのサービス魂


タクシーをよく利用する人と会話していると必ず共通の不満がある。それはプロであるドライバーにも関わらず「まだ良く分からないので道を教えてください」というあの台詞だ。タクシーの規制緩和が実行されてから各タクシー会社は運賃の差別化だけでなく営業車を増やしドライバーを大幅に採用し競争力を高めてきた。都会ではその影響であちこちに空車のタクシーが走り、深夜になると客待ちのタクシーが増えてしまい渋滞の原因になっている。タクシーといえば目的地まで運んでもらいドライバーに距離の分お金を払う。電車などに比べてドアtoドアで運んでくれるので運賃は高い。また目的地まではぐっすり寝られるしタバコを吸いたい人はいくらでも吸える。そういう快適な空間というサービスまでついているのが本来の姿と思う。

しかしドライバーを急に増やしたので研修はしているかもしれないが地理を把握していない人が多い。こちらはずっと体を前に起こし運転手さんに目的地まで道を案内しなければならない。「こっちにお金を払ってください(苦笑)!」といいたくなる時もごくごくたまにある。最近はナビをつけているタクシーが多いが、そのナビにも慣れていないドライバーも多く、しかも私などはナビ通りに行かずくねくねした近道などを教えるので覚えたい運転手さんには悪い気がするが・・。

手を上げて拾った瞬間「あちゃー!」と思うのは研修中のタクシーを拾った時だ。急いでいる時に限ってこういうのに当たる。助手席に先輩ドライバーが腕章をつけ新人ドライバー(といっても若くはない)が緊張しながら運んでくれるのだが、会話が全くないし前の席では厳しい目で座っている教官ドライバーがいるので男3人のもう何ともいえない嫌な雰囲気になる。
でもまあ無事に運んでくれたので支払い時には「がんばってください」と言う事にしている。

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ところがそんな時、とある勉強会があり時間がぎりぎりなのでタクシーを拾った。 私は目的地を伝えるとドライバーは愛想良く返事して車を走らせた。運転もうまいし世間話も色々してあっという間にその会場に着くなと安心した瞬間・・会場のかなり手前から会場に入る車と一般の車が合流の渋滞が置きていた。ドライバーに「うわあ・・凄い渋滞していますね。ここで降りましょうかね・・。」というと「いや混んでいますけどここから歩くとせっかく乗ってもらったのに悪いですから。このペースなら歩くよりは車で会場に着くほうが早いと思います」と返してきた。しかし私から見ればこの渋滞は全く車が動いていないので少しあせりはじめていた。
この人は何の根拠で「動く」と判断したのだろうか・・・。
すると数分してから急に動きだした。1台の車の原因でつまっていたかのようにすいすい動き出した。私はこの瞬間、ドライバーの「勘」に恐れいってしまった。

しかもこの後更なるサービス魂を見せつけられた。支払い時にメーターよりも数百円安い値段を言ってきた。私は「えっ?何でですか?」というと「いや間に合いましたけど渋滞していて引き止めたのは私ですからあそこからここまでのメータは引かせてもらいます」と言ってきたのだ。数十円ではないので私はとまどった・・しかしドライバーは間髪入れず「お客さんいいんです。私の言った額で払ってください」と言うので私は「ありがとうございます」を何回も言って車を降りた。
私は大げさではなくそのタクシーが会場を去るまで見届けた。「ああいう営業マンがまだタクシーにもいたんだな」とその時私は感激してしまった。しかしあの人は損した分、自分の財布から負担するのだろうと思うと気がもやもやしていた。

私はタクシーに乗る機会が多くあるのでサービスが良くて運転がうまいタクシーに乗ったときは数十円程度のおつりの時は「取っておいてください」と言って渡している。それは気前がいいというのではなくあのドライバーに対してのお返しと思っている。

私はあのタクシードライバーから、ある客に心を込めたサービスをすれば今度は違うお客から嬉しい言葉や注文を頂いたりするのが「真の商売」だということを学んだ。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年2月に執筆されたものです

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7.鹿児島・知覧で見た「若者の覚悟」と「戦争」

イラク復興の支援として日本の自衛隊がイラクに派遣された。新聞やテレビでは自衛隊が南部のサマーワで活動している姿をほぼ毎日見る事が出来るがその姿を見て「自衛隊もこういった戦闘地域に行くようになったんだな」と改めて思う。

そういった自衛隊の姿を見て私は鹿児島に昨年行ったことを思い出してみた。 昨年、妻と母と3人で鹿児島の知覧に行った。知覧といえば特に有名なのが「特攻平和会館」だ。私にどうしても見せたいという妻の強いリクエストでこの旅行が実現した。

昭和16年から勃発した大東亜戦争の中で当時、知覧は少年飛行兵の操縦訓練所として建てられた。しかし昭和20年になると日本は徐々に力を失いピンチに立たされた。

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知覧にある飛行場の跡地には
こういった石碑がいくつもある

太平洋戦争も終盤にさしかかり敵の大艦が沖縄まで攻め込んできた時、日本はとんでもない奇策に出る。それが若者の兵士による「体当たり攻撃」である。はじめて記念館の入り口についた瞬間、私は心痛む2つの像が目に入った。一つは特攻機の前に立つ特攻隊員の銅像。そしてもう一つは少し離れた場所にありその特攻隊を見つめるような姿で立っている母親の像があった。隊員の像は昭和49年に平和の守護神として建てられ昭和61年には母親が建てられたという。「特攻平和会館」は年々観光客や特攻隊の遺品などが増えてきたため昭和60年に建て直されたという。

私はまず会館の外にある三角兵舎の復元を見た。三角兵舎とは特攻隊員が出撃するため寝泊りした場所である。兵舎といっても20人ぐらいが寝られるスペースで薄い毛布と敷き布しかない。そしてこの場所で若き隊員達は両親や恋人に遺書を書き、酒を飲み、ゲームをして仲間と最後の夜を過ごしたという。中には涙で枕がびしょびしょに濡れていたものもあったという。そして出撃の日の朝、毛布をたたみ出発した。当時の写真を見ると翌日に、国のために命を捧げる若者とは思えないくらい心澄んだ笑顔で仲間と談笑している。私はこの若者達の覚悟というか心の強さに尊敬の念を抱いた。記念館に入ろうとするとある老齢の女性に話しかけられた。この記念館にほぼ毎週来ているこの女性は特攻隊の出撃の際、花を持って見送った経験があり今でも観音像にお線香をたいているのだという。私は突然その女性に握手されて「ぜひ、あなたの仲間や若い人にこの記念館の事を話して下さい・・」と言ってきた。私はもう涙が止まらなかった。戦争が終わり長い時間が経つが、戦争を経験した人にはまだ何も終わっていないし時間も止まっている。まだ深い傷は残っているのだと感じた。そして傷を少しでも癒せるようにとこの記念館に足を運び彼らと話をして帰るのかと思った。私は記念館に入った。当時の戦闘機の復元や1035人の隊員の写真、遺書、遺品などが展示されている。特に隊員の遺書には驚きと悲しみが同時に襲う。10代、20代の若者とは思えない達筆な字で思いを伝えている。
 「俺が死んだら何人泣くべえ」
 「帰るなき機をあやつりて征きしはや開聞よ母よさらばさらばと」
 「今から敵をやっつけてきます」 「僕は花になって帰ってきます」
 「○○ちゃん、おかあさんを大切にするんだよ。お父さんは天国から見守っているからね」
 「特攻隊として知覧に呼ばれたわけではないのでお父さん、お母さん安心してください」

死への覚悟、そしてそれを強い姿を見せて出撃した彼らの本当の心の奥は知ることが出来ない。遺書や手紙にも検閲があったようだし、戦争に対しての本音はあまり言えなかったはずである。確かに手紙や遺書の中にも含蓄ある文章がいくつかあるが、人に打ち明けた話しが一番そういった本音を知ることが出来る。

「とめさん、この戦争は間違えているよ。日本は戦争に負けるよ」と出撃前日に「知覧のおかあさん」と言われた食堂を営んでいた鳥浜とめさんに語った若者もいたという。「死にたくない」と語った者もいた。自分が朝鮮人ということを隠し出撃の前日とめさんに「アリラン」を歌った若者もいた。 また一方では特攻隊として出撃準備をしていたが戦争が終わり生き残った隊員も多くいる。そういった人たちは亡くなった隊員達に申し訳ないと毎日悩む日々を過ごしてきた。その姿を見て、とめさんは「なぜ生き残ったのかを考えなさい。何かあなたにしなければならないことがあって生かされたのだから」と励ましてきた。隊員達は心救われ今では戦争の辛さや当時の思いを広く伝えていこうと活動している。そして「戦争をしてはいけない」と強く訴えている。 記念館を出た後、私は体が震えていた。怒りというか悲しみというか表現できない気分になっていた。その後、実際に隊員が飛び立ったという飛行場の跡地などをまわった。 戦争、自衛隊派遣、小泉首相の靖国参拝などについて、私はどうこう言える知識はない。しかし、罪のない若者が国のために親や恋人と別れ命を捧げて戦いに行った若者の心情を少しでも見ると、やはり戦争は誰にも得にならず、心の痛みや苦しみだけが想像以上に長く残るということが分かる。戦争は終わっても人の心の傷は治らない。

最近は修学旅行でこの地を訪れる若者も多いという。帰り際に案内の人が「特攻会館を訪れて大粒の涙を流す学生を見て、あっ日本はまだこういう心を持った若者が多いんだと分かるから嬉しいです」と話していたのが印象的だった。

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「平和会館にある鳥浜とめさんの顕彰碑」

散るために 咲いてくれた 桜花 ちるほどものの 見ごとなりけり   (鳥浜とめ)

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2004年1月に執筆されたものです

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6.学生時代に経験した理想の家庭像

学生時代に経験した理想の家庭像

最近、雑誌や新聞で想像を絶するような事件や犯罪の記事が多いが、こういった背景には必ずといっていいほど子供の教育や親子、夫婦間の関係などが絡んでくる。ある雑誌では「これからの父親は仕事を定時で切り上げ、家族といる時間を増やすことが重要だ」といった内容があったが全くその通りだと思う。

私は幼少時に父を亡くし、そのあと歳がはなれた姉が結婚したので母と二人の生活が続いた。父が生きていた頃、日本は高度成長期にあり父も非常に多忙な毎日を送っていたので、父の帰宅時には私はすでに眠りについていた。だから家族団らんの食事というのは数えるほどしかなかったと記憶している。

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牧羊犬と羊たち(ニュージーランド)

私が家族団らんの経験をしたのは高校時代だった。ニュージーランドの高校に2年ほど留学していたのだが、前半は寮生活、後半はホームスティという経験をした。このホームスティの家庭が私にとっては大きな財産であり今でも理想の家庭像として心の中に残っている。父親は貿易会社を経営していたが学生時代はボクシング部に在籍していたという体育会系の格好いい人だった。ひげ面はちょうどひげをたくわえていたころの歌手エリック・クラプトンに似ていた。母親は専業主婦、息子は私の一つ年下で同じ高校に通っていた。お姉さんはなかなかの美人でニュージーランドの雑誌に何回も出ていた高校生兼モデルの女性だった。家族構成は偶然私の家族と同じだった。

父親は厳しくて優しい人だった。「ヒロ、俺はお前を本当の息子と同じように接する。たまに手を出すこともあるだろう。日本にいるヒロの母親から送るお小遣い、通帳は大切に保管しておくがその都度判断してヒロに渡すようにする。」といわれていた。手を出すことはなかったが(息子にも)大声を出すとかではなく静かにゆっくり話すその怒り方は半端ではない威圧感だった。

また「本当の息子」扱いされていた私は母親が寝る前に息子にキスをするのだが私にも毎晩キスしてきた。内心は少し嫌だったが「優しさ、温かさ」に感動しそのうち慣れてきた。 また「お前は少し太っている」と言って早朝5時に起こされ登校前に父親、息子と3人でジョギングをしたりレース用の本格的な自転車を購入してくれて、それに乗らされていた。おまけに3人で週末になると「トライアスロン」のようにスイミング競技がない、マラソンと自転車競技のみの「バイアスロン」という競技に出され、いつもビリから3番目ぐらいだったが「日本人が参加している」という珍しさから毎回ギャラリーが温かい拍手を送ってくれていたので気分は「1位」だった。現在でも週2回はジョギングとウェイトトレーニングを続けているのは、このころの影響だと思う。

夕食時には父親は帰宅してすぐネクタイを外し台所に入る。そして母親にキスをして今日の報告を聞く。支度は母親がやり席につくと家族の長である父親がメインディッシュであるローストビーフや鳥の丸焼きなどをナイフで切り、家族それぞれの皿に乗せる。

そして食事がはじまると父親は家族の会話を大切にしたいので、すかさず電話機の受話器を外して息子や娘から一日の出来事を聞く。息子と娘は父親に面白い話を早く聞かせたいのか、毎回いつも話す順番で揉める。(私は揉めている間に頭の中で報告を英語に直しているので食事どころではない)その報告をネタにワイワイと盛り上がり食事が済む。後片付けは息子がお気に入りのラジオをかけて私を含め子供達がやる。役割分担が完璧なのだ。父親が尊敬され、家族でたくさんの会話をして、週末は家族で出かける。この体験は私にとって本当に居心地が良かった。そしていつまでも私には忘れることの出来ない財産だ。

日本とは文化、歴史、社会情勢なども全く違うので単純に比較することは出来ないがこういった家庭が日本でも増えればきっと悲しいニュースも少なくなると思うのは間違いだろうか。 学生時代まで頻繁に手紙をやりとりしていたが私が受験を境に返事を書かなくなってしまい途中で連絡ができなくなってしまった。最後の手紙には母親が重い病気にかかり自宅も引っ越すという内容だった・・・。

私は今年の冬ニュージーランドに行く計画を立てている。このコラムを書いている前日に私の通った高校の立派なホームページを発見した。そして私はこの家族を探すべく作業をついにはじめた。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年12月に執筆されたものです

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5.「緊張」「出会い」「感動」  第九交響曲合唱参加は人生を変えた。夢はオペラ・・・

「緊張」「出会い」「感動」
第九交響曲合唱参加は人生を変えた。夢はオペラ・・・

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以前この「ひとりごと」で第九交響曲の合唱に参加する話を書いたらかなり反響があった。友人や合唱の仲間達を抜かして、季節柄まず検索エンジンで「第九」と入れたらこのホームページにいつの間にか辿り着いた方がかなりいた。また先月「サライ」に掲載されたことも大きい。小さい記事だったが掲載後、問い合わせやホームページのアクセスが多くなった。ある雑誌の編集者から「御社のコラムを読んでいたらふとんと関係のないコラムがありなかなか面白い会社だと思いました」という電話があった。

顔も知らない方からメールで「第九がんばってください」とか購入者から「第九出るんですってね」なんて言われるとどうしても照れてしまう。この場を借りて皆さんにお礼を言いたい。「無事に最後までステージに立っていられました」

当日は朝から緊張の連続だった。妻がこれでもかというような大きい弁当を作ってくれたが感謝しつつ全部食べられないだろうと内心思っていた。

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 東京・有楽町に近いその会場は有名歌手や海外アーティストなどがイベントを行う巨大ホール。会場に着くなり「舞台関係者入口」というドアに入った瞬間までは有名人になったような気分でいられたが舞台を見学した瞬間、有名人どころか超小型人間になってしまうぐらい萎縮してしまった。
「収容人数 5000人」しかも主催者から「チケットがほぼ完売した」と聞いた。まずい。これはまずい。自分はこんな場所で歌うのかと思うと吐き気がしてきた。
私を観に来るのは家族や友人や知人およそ20人。4980人は私を観ているわけではないと言い聞かせて本番まですごした。控え室での練習、本番同様に行われるリハーサル(ゲネプロ)などを行ったが周囲もかなり疲れている様子。しかし歓びの歌なんだから辛い顔なんか見せられないという意志が伝わる。そして本番直前、指導にあたった指揮者の方や先生が大声で「今年の皆さんは非常にうまかったです。自信持って歌いましょう!」
と話すと拍手が起きた。しかしその後「無理しないでくださいね。一番前には我々プロもがいるんだから無理しないで!具合悪くなったらしゃがんでいいから」と言った。おいおい5000人の前でしゃがめる人がいるか・・という雰囲気になった。

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そして第九の演奏が始まる。我々は舞台裏にいった。いよいよ第3楽章が始まる。
関係者が「はい入って」とドアを開ける。観客はぎっしりだ。

よく「大勢の人前に出るときは人をかぼちゃと思え」と言うがあれはウソだ。人は人だ。
かぼちゃに見えない。足が震えている。練習より声が出ない。鼻がかゆい。目がくらむ。
しかし合唱団の中で若い部類に入る私がここでしゃがんだら打ち上げ会で笑われる。
「フロイデ、シェーネルゲッテンフンケン」何とか歌えた。横の人が練習ではうまかったのに間違えた、横を見ると苦笑していた。あれで何かリラックスできてきた。
無事に終わったあとはしばし呆然だった。演奏が終わり、拍手も終わりかけたそのとき2階席の真ん中でいつまでも手を振っている人がいた。位置的に見て妻だろうと思った。
妻のおかげでここまで来れた事を思うと感動してしまい目に涙があふれてきた。去年、車中で「声がいいから第九でもやれば?」その一言で今この舞台に立って歌うことができた。妻の両親も私の母も感動してくれた。

打ち上げの時、今回の有名指揮者から「おたふくちゃん、ありがとね」と握手をいただいた。(先生は福岡出身でおたふくわたをよく知っていたので練習中「おたふくちゃん」とよく話しかけてくれた。)合唱の皆と練習中にはできなかった名刺交換をして交流を深めた。職業や性別なんか関係なく半年練習を続けてきたのでかなり親しくなれたと思う。

仕事があり思うように練習はできなかったが間違いなく「第九」は私の人生を大きく変えた。私の夢は更に広くなっていった。あるプロの合唱の方から「声がいいから練習を続けたら力がつくよ」とほめていただいた。仕事と同じでこだわり出したら止まらない私は自宅に着くなり妻に「今度はオペラを教えてよ」と話した。
あきれた顔をしながら「お弁当全部食べれたの?」と言われた。
とにかく感謝

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年11月に執筆されたものです

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4.好物・塩まんじゅうの人気に学ぶ

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私はたまに妻と巣鴨の「地蔵通商店街」に行く。
友人や仲間には「おじいちゃん、おばあちゃんじゃないんだから」と笑われてしまうが、おじいちゃん、おばあちゃんの原宿竹下通りとも言われるその商店街は、31歳の私でも十分楽しめる商店街なのを、その友人たちは知らない。私にしてみれば知らない方がむしろ哀れに思えてくる。
なんといってもまず、この通りにはおいしいものが沢山ある。

日本人の私たちにはなじみの深い惣菜、つけもの、梅干・・・屋台のやき鳥だってなかなかおいしいのだ。また出店では女性用のカツラを売っていて 「お嬢さん、ほらこうやって被ればバレないでしょ」と、みのもんたばりの口調で多くの人の足を止めさせ、興味を持たせている。有名易者による手相占いはなぜかコピー機で手を撮り、色々診断をする。さらに神社の中では「1分マッサージ」といって白衣を着た中年男性3人が立ちながら肩や背中を揉んでいる。これがまた凄い行列なのだ。

日曜日の午後なんかにこの場所に来ると、私は東京とはいえ少し都会から離れた気持ちになる。 確かに人は多いが、おばあちゃん子だった私や妻にはなかなか居心地がいい空間なのだ。ちなみに私の会社の近くには本当の原宿・竹下通りがあるが徒歩通勤するときはこの通りを歩く。地べたに座る若者、ボブサップのような大きな外人が修学旅行生にカタコトの日本語で店に誘う。学校はどうしたの?と言いたくなる時間帯に制服姿の子達がファーストフード店にいる。私にとっては巣鴨の方が断然心地がいい。

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話を巣鴨に戻すが、私たち夫婦が最も気にいっているのが商店街入り口すぐにある「巣鴨園」の塩まんじゅうだ。 妻の亡くなったおばあちゃんが大好きだったという思い出の大福もちだが、とにかく「うまい」。

程よく塩気の効いたあんこがたっぷり入り、それを包み込むもちの量がなんとも絶妙だ。お茶と一緒に食べれば、紅茶とケーキなんかより数倍幸福感を味わってしまう。持ち帰りもプラスティックの入れ物に輪ゴムで止めるだけなのだがこの単純な包装が不思議とまたうまく見えてしまう。店員も皆優しくて高齢者相手に丁寧に接している。塩まんじゅう以外にも数種類のおまんじゅうがあるがあくまで「塩まんじゅう」にこだわっている。他にも似たようなお店があるが、いつも混雑しているこのお店が一番と私は思う。お客さんに対する姿、そして味、これはまさに私が求めている商店であり、商人(あきんど)の姿だ。

おたふくわたも決して高級路線や豪華な演出をするつもりはない。現在の「おたふくわた」は寝具業界の中でも最小の部類に入るメーカーだと思う。しかしこの規模は私にはちょうどいい。江戸時代に先祖たちが苦労して綿を売ってきた姿と照らし合わせながら売っていけるからだ。 綿にこだわって、手作りにこだわって売っている。私はインターネット販売を主としてきたが、会社の中にお客様と直接商売が出来る空間を作ろうと決めた。きっと塩まんじゅうのように綿にこだわっている人も来ると思ったからだ。私は出来る限り作務衣などを着て綿を見せたり綿の歴史を話しながらお客様と綿談義をしていきたい。そう思った。

巣鴨に行くとそういうビジネスヒントも出てきたりする。人々が求めているのは、いや日本人が求めているのはやはり「ほっ」とする空間なのだと思う。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年9月に執筆されたものです

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3.「第九と九代目」


「第九と九代目」 ことしの12月・・・
私ははじめて第九の合唱に参加する。

ベートーヴェンの「第九交響曲」はクラシックファンではなくても知っている有名な曲である。年末年始になると全国の会場で「歓喜の歌」として多くの観客を魅了する。 第九は特に日本で人気があるがその要因はベートーヴェンの情熱的な音楽が、情が深い私たち日本人の国民性にぴったり合うのではないかといわれている。戦後この曲が日本に広まっときは「西洋から来た希望の歌」として聞いていたに違いない。第九の歌詞は宗教や国などを越えた「愛」を伝える内容となっている。

       抱き合え、幾百万の人々よ!この口づけを全世界に!
            兄弟よ!星空の上に愛する父なる神が住んでいるに違いない
                              (シラーの詩)

しかしどうして私が第九なのかというとこれがまた不思議なきっかけだった。
それは4月のある車内でのこと。私の妻が「あなたはまあまあ声がいいから第九でも やってみれば」と言い出したのだ。音大を卒業した妻が言うので、からかっているのだろうと半分思っていた・・しかし半分「その気」になっていた。「自分が第九を歌う??おもしろいかもしれない」 私はラップやテクノ、ロックなどあらゆるジャンルの曲が好きなミーハーだけに、全く詳しくはないがクラシックのCDも数枚持っているのでアレルギーはない。 早速インターネットなどで調べると沢山の第九の合唱団の紹介が出てくる。 数々調べた結果、自宅から近く、有名指揮者が主宰している第九の合唱団に入会した。 男性陣は40代後半~60代が多く、女性陣は20代から60代とこちらは幅広い。 当初は緊張したが妻がドイツ語の読み方を楽譜にカタカナで書いてくれたおかげで今でも仕事以外はさぼらすに練習に参加している。お風呂の中や車の中、食器を洗いながらも第九を歌う姿を見て家族がおどろいている。「私より歌が好きなのかもしれないわね」と妻は苦笑する。第九は観るより自ら参加して歌う方が断然楽しい。CDを聞いたりピアノに合わせて歌い終えたあと私は必ず涙がこぼれそうになる。歌詞の意味は全ては分からない。しかし練習の際も周りのひとは懸命に歌い、それが終わると何ともいえない満足した顔になっている。

 去年の自分とは違う自分が今年はいるような気がする。とにかく気が引き締まりいろいろな人と一体になって何かをやり遂げているという充実した時間が出来た。 今では夢が広がり再来年春に素人が参加できるベルリンの第九に参加することが目標だ。

 情熱を込めたものには必ず人を歓ばせる何かがある。 私が9月から作りはじめたふとんにも職人や私の情熱が入っていると確信している。 それはふとんを良く見ると随所に出ているはずだ。第九を歌うことで自らのふとん創作にも良い刺激になっていることは嬉しい発見だった。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年9月に執筆されたものです

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2.日本全国にそして木綿ふとんを知らないヨーロッパに・・・。 夢はとにかく大きく持ち続ける。

日本全国にそして木綿ふとんを知らないヨーロッパに・・・
夢はとにかく大きく持ち続ける。

おたふくわたが木綿ふとんの販売を開始してから1週間が経った。
私はせっかちな性分なので目に見える成果がすぐに出ないとあせってしまう傾向があるが最近は、大手の寝具メーカーや訪問販売を主体とする会社のように成果主義の会社ではないのであせらずゆっくりやろうという気持ちに切り替えた。大体木綿ふとんが「販売開始からわずかで完売!」・・という状況なんてあり得ないし、もしあったらそれは逆に恐怖心に変わってしまう。そうはいっても何社か記事として載せていただき、ホームページのアクセスも予想より多く、復活記念として掲げた「モニター募集」もかなりの人数から申し込みがありスタートにしては順調な反響だったと考えている。青山の会社の前に20部近く置いてあるパンフレットも毎日3部~5部は減っているので小さい規模ではあるが、一日5部と考えて一ヶ月150人が「おたふくわた」という名前を知ってくれると考えると決してバカにはできない。

 
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とにかく木綿ふとんも百聞は一見に如かずで見てもらうとその良さを分かってもらえる。私は購入者から「木綿はやっぱり気持ちがいい」と言われると涙が出るほど嬉しくなる。何度もいうがそれぐらい自信を持って薦められる。
ビジネスマンの交流会や勉強会に参加する事があるが有名会社の社長や役員の方々とたまに名刺交換した後、木綿ふとんの話をすると社交辞令かもしれないが懐かしさを思い、仕事とは違う柔和な顔に変わる人もいる。「木綿」という響きはそれぐらいの力を持っている。だからこそ温かい気持ちを持った人には木綿のふとんに寝てもらいたいと思う。
逆に若い人はやはり「木綿ふとん」という言葉にピンと来ていない。はじめは「何か変な商売をしている人かな?」なんて思われる。「おたふくわた」なんてほとんど知らない。しかしアレルギーの人やぜんそくを持つ人などは徐々に興味を持ってくれる。
「あなたの下着は木綿ですよね?いま着ていらっしゃるシャツも木綿なんですよ。その素を使っているふとんなんですよ。ただそれだけなんです。何も加工していません。」というと納得してくれる。「羽毛ふとんは軽いですよね。でも何か少し重い感覚のほうが寝やすいんです」なんて木綿を知らない人がこういう話をしてきたら嬉しくして仕方がない。
昔は実家では木綿ふとんで寝ていたことを体が覚えているのだろう。
私はビジネスでいえば当然「木綿ふとん」の売上を気にしてしまう。しかしそれとは違う重要な部分がある。とにかく人々に「木綿ふとん」という言葉とおたふくわた」を知ってもらう事だと考える。アジア諸国や一部のヨーロッパ以外ではほとんど木綿ふとんは知られていない。悲惨といっても過言ではない寝具を使っている国もある。そういう国にも「MOMEN」そして「OTAFUKUWATA」を知ってもらいたい。だからまず日本中が木綿ふとんを好きになってくれる夢からはじめたい。綿の栽培と同じようにゆっくり育てて大きくきれいに開かせたい。だから時間をかけていこうと思う。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年8月に執筆されたものです

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1.おたふくわた復活

いよいよおたふくわを復活させる。学生時代から色々な事を夢見て、それを実現させようと親や周囲に迷惑をかけてきたが、まさかその時は意を決しておたふくわたブランドの「木綿ふとん」を売るとは想像もしていなかった。

幼少の頃におたふくの顔を見て少々怖がっていたのを覚えている。そして中学生ぐらいになるといわゆる「ダサイ」ブランドと思い、この商標に対して恥ずかしいという気持があった。その後色々な経験や勉強をして再びこの顔を見るとようやくこの顔がいかに長い時間を経て人々を癒してきたのか少しだけ理解してきた。当社の主力商品である綿に「おたふくわた」とつけた先祖の原田重吉氏には本当に頭が上がらない。このネーミングは見事当時の人々の心を一気に惹きつけた。

「結婚するときはおたふくさんのおふとんを作る」そういって沢山の人々がめでたいものとして婚礼ふとんを作っていただいた。
現代は驚くほど多種多様の寝具がある。高級というイメージがあった木綿、真綿そして羽毛ももはや消費者から見たら贅沢品ではない。

中には「寝られればいいじゃないか」と思う人もいる。それはそれで構わないし、ある意味正しくもある。消費者は過剰な広告に飽きて本物か否かを自分の目で見ている。だから消費者の方が寝具に詳しい時もあるし、またあれこれ書いたところで「寝られればいいじゃないか」と一蹴されればそれまでだからだ。
ただ世の中には「こだわっている」人がいる。

時計や靴やワイシャツ、カバンなど・・。ぱっと人には目につかないけど例えば愛車にこだわる人はタイヤにこだわるし、排気量をいじる人もいるし、ペダルを変える人もいる。食器を洗うときに洗剤やスポンジにこだわる人、ガーデニングでシャベルやジョウロにこだわる人、おしゃれな「こだわり」の人がいる。

おたふくわたはそこを目指している。ふとんにこだわりを持つ人、多分・・いるはずだ。
カバーをしてもさり気なく透かして見えてくるでしゃばらないシンプルなデザイン、今回のデザインはシンプルだがテーマを「ジャポニズム」にした。障子や格子、貨幣などをイメージして四角の枠を多くいれてみた。次回もテーマを持ったデザインにしたい。革新的な花柄か動物か風景か・・色々考えている。

何よりも自慢なのが中綿。エジプト綿はふっくら感がないかもしれないが繊維が相当長いいので生地にびったり付く。肌さわりは真綿に近いかもしれない。包みこまれる感覚がするので羽毛にひけを取らない。

今回のインド綿はめずらしい綿花の形をしたものだが短繊維なのでコシがしっかりしている。インド綿はコシがしっかりしているほど高級なもの。寝具は他人には見えにくいが毎日使うもの。こだわりを持つ人に満足してもらえるようなふとんにすることが私と職人の切なる思いだ。

九代目 原田浩太郎

※このコラムは2003年8月に執筆されたものです

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